このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2015年5月31日日曜日

追憶 993

大天使ミカエルというのか、天界の意思というのか、それを数値で提示したのであれば、それは素直に感心することができる。
とは言え、わたしは未来に何があるなどということには興味がなかった。
何があっても良いのである。
わたしとNの相性が100%であろうと、どうなるのかは分からない。
相性の数値が低い相手と上手くいくということはあるはずであり、やはり努力がものを言うと思うのである。
才能があるからといって努力を怠るのであれば、それは何の役にも立たないことになるのではないだろうか?
そういう意味で占いというものは、わたしの人生には役に立たないのである。
それを信じ、頼る人はそうすれば良いだろう。
しかし、わたしは自力で人生を切り開いて(いるつもりで)いきたいのである。

2015年5月30日土曜日

追憶 992

わたしとNの相性というのは、ある意味では抜群であるに違いない。
それは、大天使ミカエルに指名されたからである。
大天使ミカエルが指名しなければ、わたしはNと共に時間を過ごしてはいなかったであろう。
20歳を超えていたわたしには中学生や高校生を異性として捉える考えはなかった。
前述したが、わたしは大人の女性に対する憧れがあり、歳下の時点で性的には興味がなかったのである。
しかし、大天使ミカエルはNを指名した。
そこには、わたしには知り得ない深い理由があるはずであり、経験を通じてそれを理解していく必要があるのだろう。

2015年5月29日金曜日

追憶 991

その占い師は、ある著名な占い師の編み出した(のか、再構成したのか)占星術の術書を盗み出したとして、暴露本には記載されていた。
わたしは自分自身で直接確認した訳ではないために、それも単なる噂や憶測に過ぎないが、言動から推測するにそれが真実に近いのではないかと思う。
そのため、占い師の人格には問題はあるだろうが、その占星術は大したものなのかも知れない。
しかし、わたしは簡単には信用することができなかったのである。
そのため、そういうこともあるだろうと、わたしは簡単に解釈して、エンターテイメントとしてそれを楽しんだのである。

2015年5月28日木曜日

追憶 990

因果の仕組みによって導かれる、現時点での結果を計算して捻出するというのであれば、それは驚異的なことである。
この世が数学で解明することができるという考え方もあるだろう。
わたしは数学が苦手なので難しいことは分からないが、物理原理は数値化することができるだろうし、それによって未来のことまで知ることができるかも知れない。
この自称占い師は、その言動からしても、高度な物理原理を数値化する術を持っているとは思えない。
欲に溺れ、傲慢であり、俗的なことしか言わず、それも真理とは到底思えない。
黒い噂は後を絶たず、暴露本が出回り、幾つかの裁判を抱えているようであった。

2015年5月27日水曜日

追憶 989

わたしは占いに詳しくはないが、相性としても100%という数値が異常であることは分かる。
それは、そこにいた全員も思い付くことであったようだ。
何が100%であるのかは、わたしたちが思い付くよりも深い意味があるのかも知れないが…
しかし、何度試しても同じ数値が出るので、それを受け入れるしかなかったのである。

わたしは占いというものを基本的には信用してはいない。
霊能力と同じで、やはり怪しさとそれを扱う人間の未熟さが露呈するからである。
わたしは、未来は自分自身の選択によって変わるものだと思っている。
因果の仕組みによって導かれる結果は変えられないことであるが、原因を変えることはできるだろう。
占い師の話し方で、何歳の時に何があるということを断定するものがある。
例えば、人生の中で婚期がいつであるとか、健康運や仕事運がどうであるとかである。

2015年5月26日火曜日

追憶 988

打ち込んだのはN自身の情報と、わたしの情報であった。
結果はすぐに出たが、そこにいたすべての人が驚愕した。
Nは自分自身でも信じることができず、何かしらの不具合があると思い、もう一度同じ行程を試した。
しかし、そこに表示される数値は同じものである。
何度試しても同じ結果であるために、納得してそれを受け入れたのであった。
友人達が他人との相性を占った時に導き出された数値は、高いもので70%程度のものだったそうだ。
低いものだと20%程度の数値になったのだという。
友人達が驚愕したのは、その数値が”普通”では考えられなかったからだ。
そこには、100%と表示されていたのである。

2015年5月25日月曜日

追憶 987

友人達はそれを楽しんでいるようであった。
皆がそれぞれの恋人や、意中の人との相性を知りたがっていたのである。
TVで活躍する有名な占い師の占いであるのだから、的確であり、正しいと思うのだ。
友人達は誕生日か名前か、幾つかの個人情報を画面に打ち込み、そこから導き出される数字に一喜一憂しているようであった。
Nが他人との相性だとして提示される数字に興味があったのかは分からないが、友人達の楽しそうな雰囲気に、自分も試してみたくなったのかも知れない。
友人に勧められるままに、画面に個人情報を打ち込んだ。

2015年5月24日日曜日

追憶 986

人々の話題は、基本的に目の前の人間関係や話題のお店や、健康や仕事、そして、TVから流れる情報に関するものである。
人々の会話というものは、その大半が世間話に収まるだろう。
高校生の会話も、それ等とさほど違いはない。
Nが友人達とする会話も、それにもれなかった。

ある日のこと、会話にTV番組の話題があがった。
それは、某有名占い師の出演する番組についてであった。
Nはそれを何気無く聞いていた。
その時、一人の友人がその占い師のホームページのことを話し始めた。
そこには、相性占いのページが設けられているというのである。

2015年5月23日土曜日

追憶 985

高校生というのは、とても多感である。
外部刺激を最も受け易い時期なのではないかと思える。
TVから流れる情報は、多感な高校生にとっては恰好(かっこう)の楽しみであるとも言える。
そして、その多くが情報を素直に信用する。
わたしも高校生の頃にはTVの流す情報を素直に信用していた。
今では多少は疑うことを覚えて、鵜呑みにはしないようには努めてはいる。
しかし、それでも自らが未熟であるために真偽を探るのは難しいことである。
(2015年現在では、自主的にはTVを観なくなった。情報源はもっぱらインターネットである)




2015年5月22日金曜日

追憶 984

わたしも霊的なことに対して興味があったので、そのような番組をよく観ていた。
幼い頃から心霊番組が好きであったということもあるが、その頃は何かしらの勉強になると思ったからである。
何人かの有名な出演者の中でも異彩を放っていたのが、女性の占い師であった。
占星術を用いて、人の運勢を占うという人物である。
この人はレギュラー番組をいくつも持っていて、TVでは見かけない日がない程忙しく働いていた。
TVを観る人は勿論、TVを観ない人であっても、この人のことは知っていたかも知れない。
それ程、TV局は持ち上げていただろうし、書籍などでも日本を席巻していたと思える。

2015年5月21日木曜日

追憶 983

TVについて批判的に書いたが、そのすべてを批判しているのではない。
情報(操作)に惑わされなければ、それは最高の情報ツールとなるだろう。
今日の日本においては、やはりインターネットよりもTVの方が情報は早いだろう。
インターネットにおいては、TVの情報に対してそれを批評(ひひょう)することが役割として大きな割合を占めているということもあるからである。
もちろん、TVであってもインターネットであっても、情報(操作)には注意しなければならないことには変わりないのである。

時に、TVはスピリチュアルブームであった。
連日のように自称霊能者や占い師という人達が登場し、パワースポットやアイテムなどが画面を賑(にぎ)わしていた。




2015年5月20日水曜日

追憶 982

世間での流行は、その大半がTVによって作られる。
それは、紛れもない事実である。
TVという宣伝媒体は、見方を限定すると、人々を簡単に洗脳するための道具である。
戦後日本におけるTVの目的や、某テレビ局社長の演説などを調べてみると、それがどのような目的と経緯で日本に根差しているのかが分かる。
老若男女が朝から晩までTVに釘付けである。
共通の話題を提供してくれるTVは、コミュニケーションの手段としては最適であるだろう。
多くの人がTV番組や、そこに出演するタレント、著名人やスポーツの話をする。
それだけで、何時間も熱心に会話を楽しむ人もいるだろう。
わたしも生まれた時からTVに慣れ親しんで育った。
そのため、わたしの生活にとってもTVという娯楽は切り離せないものとなっていたのである。

2015年5月19日火曜日

追憶 981

※喫煙は園児の頃に大人が捨てたものを興味本位で一度だけ真似て、それから嫌いになった。飲酒は二十歳を過ぎてから試してみたが、体質的、思想的に合わない。

今では、大人達が当時の幼かったわたしを叱った理由も分かる。
ただし、個人的な感情によるものを除いてである。
わたしはA子達を叱ろうなどとは思わないが、未熟なわたしなりにも成長して欲しいと思っている。
それは、人生の目的を見付けて欲しいと思うからであり、幸せを掴んで欲しいと願うからだ。
正しい道がどこにあるのか?それはわたしにも分からない。
しかし、一つ一つの経験と後悔がそれを教えてくれるはずである。
それに気が付かなければならないが、唯物的に眺めるだけでは分からないことも多いのだ。
しかし、それは唯心的な考えに偏(かたよ)るということでもない。
目に見えるものと見えないものの両方を大切にしながら、人生というものを探求することこそ、わたしたちには求められていることなのではないかと思うのである。



2015年5月18日月曜日

追憶 980

何を以て正解であるのかは、わたしにも分からない。
しかし、後悔することが正解だとは思えないのだ。
わたしは自分自身の選択と時間の使い方に後悔している。
十代の頃のわたしの選択は、A子達と似ている。
わたしも自分勝手な行為を繰り返して、様々な人達に迷惑をかけた。
飲酒や喫煙はしなかったが、物を壊したり、友人を傷付けたりした。
この後悔によって、生まれてから二十数年経って初めて、自らの選択肢を修正し始めたのである。
A子達には、わたしのような思いはして欲しくない。
それが彼女達に必要だとしても、人情というものは少々厄介(やっかい)である。



2015年5月17日日曜日

追憶 979

もしもこの時、A子達が今回の問題に出会わなければ、彼女達の選択肢に違いはあっただろうか?
自分達の選択肢が愚かであるということにいつかは気が付くかも知れないが、それはより後のことになってしまうのではないかと思う。
気付きが遅ければ、それだけ人生の目的の達成には遅れてしまうのである。
わたしは二十数年という人生の時間を愚かに生きて来た。
今になって思えば、無駄な時間を生きたと思ってしまう。
現状に辿り着くためには必要であったことに違いはないが、現時点においての人生の目的を持った今、その時間ですら勿体無いと思えるということである。

2015年5月16日土曜日

追憶 978

それぞれが、自分なりに向上していかなければならない。
それは決して簡単なことではない。
それは、わたしたちが常に無知と誤解の中に生きているためである。
自分自身では正しいと思っていることであっても、人道としては正しいとは言えないこともあるのだ。
それを教えてくれるのが霊的な存在であり、状況であるだろう。
問題は身から出た錆(さび)であるが、それは自らが成長するために必要な提起(ていき)である。
自らを省みることは苦しいことではあるが、それをしなければ向上はない。
向上がなければ、自らを省みることよりも苦しい状況を得ることになるのである。

2015年5月15日金曜日

追憶 977

話し終えると、Nは納得したようであった。
そして、まだ、A子達と一緒にいたので、このことを皆に伝えることを提案した。
それは、彼女等が自らの生き方を省みるのに役立つと思ったからである。

一時間程経ってNが戻って来た。
わたしはNの無事を喜んだ。
NはA子の無事を喜んでいた。
そして、A子達の様子を詳しく教えてくれたのである。
彼女達は少なからず、目には映らない存在の実存を理解したであろう。
そして、自分勝手に生きることができないということも知ったはずである。
わたしたちは自らを貶(おとし)めるために生きているのではない。
人生とは、欲望に塗れて汚れるためのものではないのだ。

2015年5月14日木曜日

追憶 976

皆はそれを不思議に思ったが、A子の状態が良くなったことに歓喜した。
その中で、Nだけがわたしを”疑って”いた。
わたしが何かしたのだと勘付いていたのである。

「A子のこと、見てくれた?」

ここで言う見るとは、A子に対して霊的な仕事をしたのか?ということである。
わたしは初め、A子に対する仕事をはぐらかしたが、隠し事がNに対して嘘を吐くことになるということと、わたしの体験を話すことによってNに対する霊的な成長の助長になるのではないかと思い直した。
そこで、わたしは思い出せる範囲で、事の顛末(てんまつ)を話して聞かせた。

2015年5月13日水曜日

追憶 975

Nの話では、A子の所に辿り着いた時には、別の友人の言うように項垂れて独り言を呟(つぶや)くA子の姿があった。
Nが来たことで、周囲の友人達の間には何等かの安心感が芽生えたが、それでも人数が増えることで心配が分散されただけであった。
NはA子の所には辿り着いたけれど、本人は何をすれば良いのか分からなかった。
とにかく、友人達の間から不安を取り除くために努めた。
A子にも話し掛けて何とか問題を解決しようと試みたが、何の効果もなかった。
考え付く方法を試してもA子に変化はなかったのである。
それでも諦めずに試行錯誤していると、急にA子の様子に変化が生じた。
呟きは止み、背筋を伸ばして普通に座ったのである。

2015年5月12日火曜日

追憶 974

しかし、Nのことを気に掛けていることには変わりはなかった。
わたしはNが無事であることを”少しだけ”心配していたのである。
わたしにできることは待つことだけだ。
今は辛抱強く待つしかない。
Nに連絡を取りたい気持ちを抑えて、わたしは待つことに集中した。
それから、しばらくしてNからの着信が携帯電話を騒がしくした。
画面に映るNの名前に安堵(あんど)して、それに応えた。
向こう側からは明るい声が響いた。
それを聞いて、良い結果を得たのだろうと推測して、気持ちが楽になったのである。

2015年5月11日月曜日

追憶 973

無事に仕事を終えることができたことに感謝した。
それは、大天使ミカエルを初めとする、わたしの守護者たちへである。
仕事は終えたが、わたしはそれをNには報告しなかった。
それは、わたしはA子達を助けるとは一言も言ってなかったためである。
わたしは自分自身の誉(ほま)れのために仕事をしたのではない。
わたしは”神”のために仕事をしたのである。
とはいえ、仕事をしたのは大天使ミカエルであり、わたしは自分自身を貸しただけである。
A子達に対してわたしが仕事をしたかどうかなど、わざわざ知らせる必要などないのだ。
わたしの生きる道は厚かましくはないのである。

2015年5月10日日曜日

追憶 972

わたしはA子に対する仕事が終わったことを悟った。
瞼(まぶた)を開けて外光を取り込むと、眩しさで目の奥が少しだけ疼(うず)いた。
それを心地好く感じ、心は爽快な気分を抱えていた。
どのような結果を得るのか?ということはわたしには分からない。
わたしに分かることは、”良いこと”をすれば良いことがあり、”悪いこと”をすれば悪いことがあるということだけである。
黒い煙のようになって苦しんでいたたくさんの人達を助けた。
男は感謝を伝えて天へと旅立った。
これ等の行為が”悪いこと”だとは思えない。
だから、A子達には良い結果が導かれるはずである。
わたしにはそう信じる他なかった。

2015年5月9日土曜日

追憶 971

わたしたちは互いに時が来たことを悟った。
わたしたちの間に言葉は必要ではなかった。
それは、不器用ながらにも愛によって結ばれていたからである。
男の澄んだ瞳に対して、わたしは小さく頷(うなず)いて見せた。
それを確認して、男の身体は宙を舞った。
引き寄せられるようにして天へと向かう。
光の中には何があるのだろう?といつも思う。
その先には天国と呼ばれる楽園があるのだろうか?
天へと向かう人の表情はいつも恍惚(こうこつ)としている。
この男も”良い場所”に向かうに違いない。
そう思うと嬉しかった。
男の姿が光に包まれて見えなくなると同時に天が閉じた。

2015年5月8日金曜日

追憶 970

男は小柄ではあっても、その表情は勇ましいものであった。
そのため、わたしには若者が逞(たくま)しく見えるのである。
しかし、それでも恨みの感情に落ち込むのだから注意が必要である。
人は、自らの心を見つめ続けなければならないのだろう。
男は深々と頭を下げた。
わたしはそれを微笑ましく見ていた。
すると、天から光の柱が降りて、男を包んだ。
それに気が付いた男は天を仰(あお)ぐ。
光に照らされた横顔が、わたしにはとても神聖なものに見えた。
その美しさに感動していると、男の頬に一筋の光が走った。
それは、涙であった。
男は何かを悟り、満たされたような表情でわたしを振り返った。

2015年5月7日木曜日

追憶 969

すべての存在が”学び”によって結合する。
共通する学びによって出会い、そこで共通する学びを得るのだ。
A子と男が出会ったのは、そこに共通する学びが存在していたからに違いない。
だから、A子が問題を抱えたのは不運でも何でもないのである。
この学びに対して真剣に向き合い、その意味を理解して成長することができないことこそが不運であると言えるだろう。

「お世話になりました。迷惑をかけてしまい申し訳ない」

男は白い着物を着て、美しい髷(まげ)が印象的であった。
(霊の言葉は意思の現れなので、わたしの場合はわたしが認識できる言葉に変換されるように思える。狐の姿をしているハクとコンや、白龍神などの自然の神や天使たちの声を理解することができるのはそのためである。きっと、その方が合理的なのではないかと思える)



2015年5月6日水曜日

追憶 968

男が人を恨むことが愚かなことであると知っていたのなら?
すべてが意味のある大切なものだと理解していたのなら?
美しい心が何よりの宝だと信じていたのなら?
結果はどうだったであろうか?
これ等の知識によって男は、同じ結果を得たであろうか?
残念ながら、結果は違うものになったであろう。
男が無知でなかったのであれば、人を恨むことも、死後に苦しむこともなかったのである。
偏見を抱えた未熟者であるが故に、死後にも醜態(しゅうたい)を晒(さら)さなければならなかったのだ。

2015年5月5日火曜日

追憶 967

そのために、本来の目的が偏見を生み出す未熟さの克服ということを見失う。
そして、本来の目的とは関係の無い表面的な部分(霊の祟(たた)りなど)に捉われてしまうのである。
それは、苦悩の入り口であり、迷路の始まりなのである。
問題の本質を捉えることができない者には、その解決は不可能である。
腹が減って倒れている者に手術は必要ない。
ただ飯を食わせれば良いのである。
簡単な問題を複雑にしているのは誰であろうか?
それは、偏見を抱えた未熟者である。
本来ならば簡単な問題なのだ。
人間の抱える問題なんてものは、無知から生じたものだけである。


2015年5月4日月曜日

追憶 966

それはやはり、偏見を生み出す未熟さであるだろう。
偏見を所有している未熟な者達が集められ、共に学びを得るのである。
そのため、それぞれの立場は違っても、学びには共通点があるのだろう。
その状況を導くのは、男やA子達よりも崇高な存在である。
男とA子達を引き合わせたのは、それよりも崇高な存在であると思えるのだ。
わたしたちは、自分よりも崇高な存在によって学びへと導かれる。
そのため、これは”悪いこと”ではない。
人間の立場から見ると、霊による干渉を災いとして考える傾向がある。
それは、未熟であるからだ。
多くの人が霊による干渉を恐れているのがその証拠である。
霊能者と自称している者の大抵が”悪いこと”として、学びの本質には辿り着くことができないでいる。

2015年5月3日日曜日

追憶 965

人生の目的は成長にあると思える。
人がその人格を高めるための場所が、人生なのではないだろうか?
それを導くのは”神”であり、”神”が作った真理であり、世間では守護霊と呼ばれる守護者たちであり、周囲の人達であったりするだろう。
すべての存在が、自らの成長を促すために働いていると思えるのである。
A子は男の恨みを買ったのであろうか?
わたしには先日のA子達の行動がどのようなものであったのかは分からない。
その中で、何かしらの”悪さ”をした可能性はある。
しかし、わたしにはその結論へ至る考えが思い付かなかった。
わたしには他の理由によってA子のところに男がやって来たのだと思えるのである。

2015年5月2日土曜日

追憶 964

しかし、未成年が夜中に酒を飲んで騒ぐことは、人生の選択としては合理的ではないと思える。
他にやるべきことがあるのではないかと思えるのである。
時間の使い方として、それは有意義なものではないだろう。
彼女等にも後ろめたさはあったはずである。
それは、人としての”正解”とは言えないであろう。
堂々としていることが重要である。
そのような面から見ると、A子たちの選択は偏見によって導き出された誤りであったと言えるのではないだろうか?
A子たちの選択では、健全な青少年としての精神は育まれないであろう。

2015年5月1日金曜日

追憶 963

しかし、それでも偏見によっては正しい道のりに至ることはできないのである。
偏見に支配されてしまえば、その見解は歪む。
それによって選択肢を誤るのだ。
この男は選択を誤った。
そのために恨みに至ったのである。
A子はどうであっただろう?
選択を誤ってはいないだろうか?
未成年が夜中に集まって、酒を飲んで騒ぐことは、選択としてどうだろうか?
未成年ということは法律が決めたことなので、わたしがとやかく言うことはないが、法律によって決められたルールとは、国の秩序を守るために定められた全体意識であるだろう。
これを破ることは、全体意識を乱すことになって良い結果を導き出すことは難しい。
ただし、現状のルールが完璧だとは言わない。
時代と共に改善の余地は常にあるはずである。