このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2019年10月31日木曜日

追憶 2580

同じ家に生まれても、全く異なる思想を以(もっ)て生きることになる。
わたしは兄弟達と同じように育てられたはずだが、兄と弟のどちらとも似ていない。
兄と弟も異なる思想を以て生きている。
この世には、憎み合い、殺し合う血の繋がりも存在するのだ。
人は、それぞれが別の場所に生きていると考えるのが自然であるだろう。
人がどこに住むかは、心の在り方によって決まる。
わたし達は、どこに住んでも良いのである。
天の国の近くに住んでも良いし、地獄に近いところに住んでも良いだろう。
しかしながら、自らの意思によって住む場所を決めることは出来ない。
心の在り方が住む場所を決めるのである。

2019年10月30日水曜日

追憶 2579

この世は天の国と地獄の狭間(はざま)である。
この世の上には天の国が存在し、この世の下には地獄が存在しているのである。
この上下とは、感覚的な表現であり、比喩(ひゆ)である。
宇宙に天の国があり、地下に地獄があるなどということはない。
所謂(いわゆる)、意識の"向き"のことである。
この世を生きる人は、天の国に近付くことも出来るし、地獄に近付くことも出来る。
自らの心の在り方によって、人は住む場所を決めることが出来るのだ。
この世では、天の国に近いところに住む人もいれば、地獄に近いところに住む人もいる。
同じところに住んでいるように思えるが、全く違うところに住んでいるのである。
例えば、家が違えば家訓は異なる。
隣同士の家でも、その内情は大きく異なるのだ。

2019年10月29日火曜日

追憶 2578

多くの人は、自我意識に導かれて行く。
それは、非我(ひが)の導きとは異なる方向である。
自我意識は、人をこの世にとどめようとする。
なぜなら、自我意識は、この世でしか存在することが出来ないからだ。
天の国に自我意識は存在しない。
なぜなら、調和の中に自我意識が存在することは出来ないからである。
自我意識が存在することが出来るのは、この世と地獄(じごく)だけなのだ。



2019年10月28日月曜日

追憶 2577

多くの人は、導かれることに安心を覚える。
決められたことをこなす方が、創造することよりも楽であり、責任も少ないからだ。
自我意識は、様々な誘惑(ゆうわく)を使って人を導く。
目の前の快楽や欲望こそが、自我意識による誘惑である。
傲慢(ごうまん)な人は、目の前の快楽や欲望に従(したが)う。
自我意識に対しては素直であるが、非我(ひが)である人生の目的に対しては傲慢であるということだ。
わたしは、非我の立場で話しているのである。



2019年10月27日日曜日

追憶 2576

人生の価値を高めるためには、謙虚(けんきょ)な姿勢によって、目の前の現実を受け入れることである。
現実とは、最善のことである。
すべての現実は、それがどのようなものであれ、自分にとって相応しいものなのだ。
多くの人は、傲慢(ごうまん)を所有し、それに舵(かじ)を任せているために、現実を受け入れることが出来ない。
傲慢は、自我意識の所有であるが、自我意識は自分の権力が奪われることを恐れて、決して現実を受け入れようとはしないものなのである。

2019年10月26日土曜日

追憶 2575

人は、目の前に導かれた状況と向き合わなければならない。
そして、そこから学ばなければならないのである。
傲慢(ごうまん)を所有していれば、学びを得ることは出来ない。
傲慢は、学びに反発してしまうのである。
わたしが目の前に導かれた状況と向き合いたくないのは、傲慢を所有しているからである。
わたし達は皆、傲慢を手放すために人生を経験しているのだ。
傲慢を手放すことが出来なければ、人生の価値は薄まってしまうだろう。

2019年10月25日金曜日

追憶 2574

それが難しいことは、十分に分かっている。
導かれた状況を否定し、無かったことに出来れば、それ程都合の良いことはないだろう。
しかしながら、どれだけ否定しても、導かれた状況はどこへも行かないし、消えて無くなることもない。
何をしても、それは目の前に存在し続けているのである。
わたしにも、向き合いたくない状況は存在している。
しかしながら、それを消し去ることは出来ない。
わたしには、生きていることそのものが手放したい状況であるが、生まれたからにはそれを手放す訳にはいかないのである。

2019年10月24日木曜日

追憶 2573

目の前に導かれた状況を否定し、拒絶することは出来ない。
目の前に導かれた状況は、仕方の無いことなのである。
例えば、大雨によって家が流されたとしても、その事実を変えることは出来ない。
わたし達に許(ゆる)されていることは、事実に対する解釈(かいしゃく)と、次の行為に対する選択なのである。
導かれた状況を変えようとしても意味がない。
事実は事実として、そのままの形で受け入れなければならないのである。

2019年10月23日水曜日

追憶 2572

人は、因果の仕組みによって一つの状況を与えられる。
それは、因果の導きであるために、変えることの出来ない状況だ。
しかしながら、その状況に対する認識には、無数の選択肢が与えられている。
わたし達は、どう認識するか?ということは自由に許(ゆる)されているのである。
どう認識するか?ということは、自分次第であるということを理解しなければならないだろう。
建造物を岩の上に建てるのも、それを砂の上に建てるのも、個人の自由だということを理解しなければならないのである。



2019年10月22日火曜日

追憶 2571

わたしが最も大切だと思うのは、心の美しさである。
人生において、心の美しさ以上の価値は存在しないのではないかと思うのだ。
それは、人生は心によって築かれていると感じるからである。
人生は、心を通じて出現する。
そして、人生は、心を通して認識すると思えるのだ。
心とは、人生の土台である。
どのように立派な建造物も、砂の上に建ててしまえば、簡単に崩れてしまう。
小さな小屋であっても、岩の上に建てるのであれば、嵐をも乗り越えるのである。

2019年10月21日月曜日

追憶 2570

傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ることは、心の自由と命を失うことだ。
心は、素直でなければ自由と命を保つことは出来ないのである。
人が、人生に満足を得るためには、心の自由と命を保つ必要がある。
心の自由と命を失っては、人生に満足を得ることは出来ないのだ。
わたし達は、贅沢(ぜいたく)に暮らすために生まれたのではない。
贅沢な暮らしも、それを続けていれば飽きてしまうのである。
暮らしの質自体には、人生の目的は存在しない。
人生の目的は、暮らしの質には関係しないものなのである。
どのような暮らしをしていても、その暮らしの中で、心が自由であり、命を保つことが出来ているかどうか?ということが大切なのである。

2019年10月20日日曜日

追憶 2569

多くの人は、傲慢(ごうまん)が噛み付いていることに気が付かない。
そして、その毒が心の自由と命を奪うことを知らないのである。
残念ながら、多くの人は心の自由と命を失っている。
多くの人は、心の自由と命を犠牲にして生きているのだ。
しかしながら、それを責めることは出来ない。
なぜなら、それ以外に方法が無かったからである。
どのような現状も、それ以外に方法が無かったのだ。
どうしようも無かったのである。
それを責めることは出来ないであろう。

2019年10月19日土曜日

追憶 2568

傲慢(ごうまん)は賢(かしこ)く、巧妙(こうみょう)に振る舞う。
多くの人は、傲慢がそこに潜んでいることに気が付かない。
それは、藪(やぶ)に毒蛇が潜んでいることに気が付かないようなものである。
藪の中の毒蛇に気が付くのは、毒蛇が牙(きば)を剥(む)いて足首に噛み付いた後のことだ。
あなたは、強烈な痛みに何が起こったのか分からない。
急いで足首を見た時に、そこに毒蛇が噛み付いているのを認める。
そこで急いで毒蛇を取り除くが、その時には既に毒が体内に侵入しており、簡単に身体の自由と命を奪うのである。

2019年10月18日金曜日

追憶 2567

大切なのは、自分自身を変えることだ。
それは、最も簡単な事であるが、最も難しいことでもある。
自分以外を変えることは不可能である。
誰も、自分以外を変えることは出来ない。
どのような方法を用いても不可能なことなのである。
人は、自分を変えることしか出来ないが、傲慢(ごうまん)がそれを許すことはないであろう。
すべての人は、傲慢と共に生きている。
傲慢は、心の中に存在し、多くの人はその存在にすら気が付かないのである。



2019年10月17日木曜日

追憶 2566

傲慢(ごうまん)に、外の世界を変えようとしても満たされはしないのである。
自分以外を変えようと努めることは、人生を変えるためには無駄な行為だと理解する必要があるだろう。
自分以外を変えるためには、自分を変えなければならない。
自分が変わることによって、自分以外が変わるのである。
自分の価値観を変えずに、自分の考え方は変わらない。
自分の考え方を変えずに、自分の行為は変わらない。
自分の行為を変えずに、自分の状況は変わらない。
自分の状況を変えずに、自分の環境は変わらない。
自分の環境を変えずに、自分の人生は変わらないのである。

2019年10月16日水曜日

追憶 2565

わたしの心の中には、幼い頃から空しさがあった。
幼い頃のわたしは、それに気が付いていなかったが、何をしても満たされないと思っていた。
空しさは、心の真ん中に存在し、そこから決して動くことはなかった。
わたしは、様々な物や事で空しさを覆(おお)い隠そうと努めたが、それはすぐに剥(は)がれ落ちてしまうのである。
どのように素敵な場所で、どのように美味しい食事を味わっても、5時間後には既(すで)に腹が減っている。
どれだけ食べても満たされるのは一瞬の間だけなのである。



2019年10月15日火曜日

追憶 2564

多くの人は、自分自身を変えようとはしない。
多くの人は、環境や他者を変えようとするのである。
自分以外が変わることによって、人生が変わると思い込んでいる。
残念ながら、そのようなことは有り得ない。
わたしも、以前は自分以外を変えることによって人生が変わると思い込んでいた。
そのため、環境や他者を変えようと努めたものである。
わたしの努力の結果として、環境や他者が変わった(ように思った)が、人生は変わらなかった。
環境や他者が変わった(ように思えた)としても、自分の心は何一つ変わってはいなかったのである。

2019年10月14日月曜日

追憶 2563

扉が開かないのを錠(じょう)のせいにする人はいないだろう。
誰もが鍵が間違っているせいだと思うのである。
錠に合わせて鍵を作らなければならない。
そんなことは、分かりきったことなのである。
しかしながら、それを人生と自分に当てはめると難しくなってしまう。
人生という扉を開くためには、自分という鍵を変えなければならない。
しかしながら、傲慢(ごうまん)がそれを許さないのだ。
多くの人は、錠に合わない鍵で錠を開けようと苦心惨憺(くしんさんたん)するのである。

2019年10月13日日曜日

追憶 2562

病などの苦しみは、人の目を外から内に向けるための助けなのである。
外を探し続けても、何も見付かりはしない。
外には様々なものが存在し、探し物は何でも見付かるようにも思えるが、何も見付けることは出来ないのである。
外を探して見付けることが出来るのは、問題を解決してくれそうではあるが、問題を解決することの出来ないものだけなのだ。
それは、良く似ている鍵ではあるが、扉を開くことは出来ない鍵なのである。
多くの人は、自らの所有している鍵ではなく、扉(錠(じょう))が間違っていると考えているのだ。

2019年10月12日土曜日

追憶 2561

人生は、常に人を助けようとしているが、無条件に助けられる訳ではない。
それは、この世界には、因果の仕組みが存在しているからだ。
助けられる原因を所有していなければ、助けられることはないのである。
人は、苦しみに会うと、自らの考え方や生き方を顧(かえり)みる。
もちろん、最初は自分以外の誰かや何かに苦しみの原因を探して歩き回る。
しかしながら、どこを探しても苦しみの原因は見付からない。
そこで、自らの内側を探すのである。
その時になって、苦しみの原因を所有していたことに気が付くのだ。



2019年10月11日金曜日

追憶 2560

捕らわれた野生動物は、助けてくれる人間に牙(きば)を剥(む)く。
わたしは、釣り糸に絡まって溺れているカモメを助けたことがあるが、足に絡み付いた釣り糸を取り除こうとするわたしの手は、何度もくちばしで刺されたものである。
カモメがわたしの意図を理解しないように、人は人生の意図を理解しない。
この世界では、同じことが違う形で行われているのである。
わたしが行うことは、わたしにも行われるのだ。
わたしがカモメを助けるように、人生はわたしを助けてくれるのである。

2019年10月10日木曜日

追憶 2559

多くの人は、人生の自分に対する役割を知らない。
多くの人は、人生が自分を磨こうと努め、幸福をもたらそうとしていることを理解しないのである。
多くの人は、人生に悲観している。
人生を憎(にく)んでいる人までいるのだ。
それは、人生の意図(いと)を理解しないからである。
人生は、あなたを良くしようとしている。
病などの問題を与えることによって、あなたを良くしようとしているのである。
わたし達は、人生が味方であることを理解しなければならない。
人生は、わたし達を助けようとしているのである。

2019年10月9日水曜日

追憶 2558

傲慢(ごうまん)に生きる者は、外側は実に丁寧に飾(かざ)り立てるが、内側は疎(おろそ)かにしている。
わたし達は、心が美しいということが重要であるだろう。
人生を終える時に、心が美しいかどうか?ということが試されているのである。
傲慢であることは、心の歪(ゆが)みであり、汚れである。
人生は、心を美しく磨く時間であるだろう。
すべての心は、人生において心を磨かれるのだ。
その時に使われるのが、病などの問題や苦しみなのである。

2019年10月8日火曜日

追憶 2557

"人生とは何か?"、"自分とは何か?"この二つの大黒柱を無視すれば、どのように飾(かざ)られた家も簡単に倒壊(とうかい)してしまう。
家は、壁や装飾(そうしょく)も大切だが、柱が最も重要なのである。
わたし達は、人生という名の家を建てなければならない。
飾ることも大切ではあるが、嵐や地震によって倒壊しないことが優先であるだろう。
この世で忙しく働き、金持ちに成るのも良いし、傲慢(ごうまん)に生きるのも悪くはない。
しかしながら、生まれた本来の目的を見失って生きるのであれば、どのように飾られた家も、必ずやって来る嵐や地震によって倒壊してしまうのである。



2019年10月7日月曜日

追憶 2556

嵐や地震を乗り越えるためには、頑丈な柱が必要である。
人が、人生において幸福を得るためには、本質的な価値を得なければならないだろう。
それは、"人生とは何か?"、"自分とは何か?"という問いに対する答えであると理解しなければならない。
この世の富を追い求める生活は忙しい。
忙しく日々を過ごしていれば、人生や自分について考えることを紛らわせることが出来る。
忙しく日々を過ごしている人にとっては、人生や自分について考えることは煩(わずら)わしいことなのである。

2019年10月6日日曜日

追憶 2555

この世の富で幸福を実現しようとするのは、白蟻に食い荒らされた柱の家に住むようなものなのである。
家に住むことに幸福を感じていたとしても、柱が機能を果たすことがなければ、その幸福は簡単に奪われてしまうのだ。
家を建てれば、嵐や地震の被害は避けられない。
嵐や地震の被害を免(まぬが)れる家は存在しない。
この世界においては、どのような幸福も、必ず脅(おびや)かされるのである。
問題を乗り越えることこそが幸福であるだろう。
問題を乗り越えられなければ、幸福が実現することはないのである。
幸福を実現するためには、問題を乗り越えなければならないのだ。

2019年10月5日土曜日

追憶 2554

それは、この世の富は本質ではないからだ。
この世の富は、本質では有り得ない。
地位、名誉(めいよ)、権力、財産、技術…
残念ながら、それ等は本質ではないだろう。
それ等がどれだけ優れていても、それでは満たされないのである。
多くの人の考える幸福とは、本質以外によって実現する"張りぼて"のようなものであるだろう。
本質が組み込まれなければ、本当の幸福を手に入れることは出来ないのである。
白蟻に食い荒らされた柱では、家は倒壊してしまうのである。

2019年10月4日金曜日

追憶 2553

多くの富を集めたとしても、それによって満たされないのであれば空しいのである。
わたしは、生まれてこの方満たされたことがない。
もちろん、一時(いっとき)は満たされる。
わたしは生まれてから人並みに様々なものを手に入れた。
しかしながら、満たされはしなかったのである。
どのようなものを手に入れても、やがては空しさが襲う。
何かを手に入れることによって、空しさを置き去りにしたと思っても、すぐに空しさが追い付いてくる。
この世の富を集めたとしても、わたしが満たされることはないだろう。
この世の富では、わたしは満たされないのである。

2019年10月3日木曜日

追憶 2552

傲慢(ごうまん)に生きる人は、この世の富の大部分を手に入れることが出来るが、本質だけはどうしても手に入れることは出来ない。
全財産を注ぎ込んだとしても、本質だけは得られないのである。
わたしは、宗教を信仰している訳ではないが、新約聖書の中で、イエスは"金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が易しい"と述(の)べた。
神の国とは本質のことだとわたしは思っている。
どれだけの富を手に入れても、本質を手に入れることが出来なければ空しいということだ。
どれだけの高級な食事をしても、愛情の入っていない食事では満たされないのである。
本質を得られない人は可哀想(かわいそう)だ。



2019年10月2日水曜日

追憶 2551

"世の中は金"という信仰(しんこう)を以(もっ)て生きている人達は、味気ない食事で腹を満たしている。
一流のレストランで購入することが出来る最高級の料理も、自分のことを愛してくれている人の作る不恰好(ぶかっこう)な料理には及ばない。
どれだけのお金を払っても、本質は買えないのである。
寧(むし)ろ、お金を払う程に愛情は得られないだろう。
"お金を払うからわたしのことを愛して欲しい"と頼めば、相手は幻滅(げんめつ)し、愛は冷めてしまうのである。
その代わりに、そこには金による無機質な契約(けいやく)が生じるのだ。



2019年10月1日火曜日

追憶 2550

例えば、”世の中は金”という考え方が存在している。
恐らくは、これが世界で最も信仰(しんこう)されている宗教ではないだろうか?
世の中の大抵の問題は、金銭によって解決することが出来るだろう。
幸福というものも、本質を抜きにするなら金で買える。
家も、仕事も、家族も、友人も、欲求に対する満足も、”愛”も、本質を抜きにするなら金で買えるのである。
それは、出汁(だし)の入っていない料理のようなものであるだろう。
味に”深み”を求めなければ、悪くないものである。
出汁の入っていない料理でも、腹に入れば同じである。