このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2019年1月31日木曜日

追憶 2307

しかしながら、多くの人には、そのことが難しいようである。
どうしても、多くの人は形式的な方法に興味を抱く。
多くの人は、内を飾ることの価値を理解しないからである。
外を飾ることの方が、論理に合っているように思うのであろう。
それは、多くの人が、人間(自分や他者)が正しいと思い込んでいるからだ。
しかしながら、すべての人は、人生を観察しているに過ぎない。
人が人生を作った訳ではないために、観察しなければならないのである。
人が生まれる前から人生は存在した。
なぜなら、計画がなければ、行為は存在しないからである。
人生は、思考が生まれる以前から存在したのである。

2019年1月30日水曜日

追憶 2306

老女は、外を飾ることで精一杯な人である。
神仏や先祖に祈りを捧げることで、良い人生が得られると思い込んでいるのだ。
わたしが霊的な存在から預かって伝える言葉は、内を飾るための方法である。
霊的な存在は、わたしに形式的な方法は何一つ伝えない。
霊的な存在達の考えは、"内を飾るのであれば、外は自由にして良い"というものなのである。
霊的な存在は、外を気にしない。
なぜなら、内を飾ることによって、自ずと外は飾られるからである。
わざわざ外を飾る必要がないということであろう。

2019年1月29日火曜日

追憶 2305

今日の宗教は、外を重視しているように思える。
これは、昔からそうなのかも知れないが、宗教というものは、外を飾ることにばかりに力を注いできた。
どの宗教も、絢爛豪華(けんらんごうか)な建造物を所有し、それに見合う衣装を身に付け、高価な道具が並べられている。
内を飾る賢人達は、そのようなものには囲まれなかった。
内を飾る賢人達にとっては、どこでも"都"だったのである。
今日の宗教は、自分にとって都合の悪いことを嫌う。
それは、自分にとって都合の悪いことを嫌う人達が執(と)り行っているからだ。
宗教の有り様は、それを執り行う人達と、そこに縋(すが)る人達の有り様なのである。

2019年1月28日月曜日

追憶 2304

美しい絨毯(じゅうたん)を織るためには、技術だけではなく、精神を磨く必要があるだろう。
技術は、精神に従うのである。
精神が整っていなければ、技術も整うことはない。
技術だけを磨いても、良いものを作り上げることは出来ないのだ。
本当に良いものとは、内側から作られるものである。
外だけを飾ったものは、本当に良いものとは言えない。
見た目が良くても、中身が無ければすぐに使い物にならなくなってしまうだろう。
"安物買いの銭失(ぜにうしな)い"という言葉があるが、見た目(値段)に釣られて中身を見なければ、却(かえ)って損をするのである。

2019年1月27日日曜日

追憶 2303

理解が浅いと、どうしてもそれぞれが隔たっているように思えてしまうだろう。
宗教という小さなコミュニティの中で自分達の主張を守っているのであれば、理解を深めることは出来ないだろう。
わたし達は、学ぶために生まれたのである。
隔たりを乗り越え、すべてを一つに統合するために生まれたのである。
しかしながら、すべてを一つに統合するというのは、すべてを一緒くたにするということではない。
この世界には、様々な色が存在しているのが普通である。
様々な色によって染められた糸を用いて、色鮮やかな一枚の絨毯(じゅうたん)を織り上げることが求められているのである。

2019年1月26日土曜日

追憶 2302

そのため、すべての宗教が本質から外れている。
今日のすべての宗教が、外を飾ることに重きを置き、内を飾ることを軽んじているだろう。
多くの宗教は、極端である。
極端に良いことか、極端に悪いことしか言わないのである。
それはまるで、詐欺師の手口である。
内を飾る人には、この世界に良いことも悪いこともなく、すべてが必要であることを理解することが出来るだろう。
内を飾る人には、善悪も、幸不幸も存在しないのである。
この世界は、逆三角形の形をしている。
深く掘り下げ、本質に近付く程に一つになっていく。
本質においては、”すべては一つ”なのである。

2019年1月25日金曜日

追憶 2301

残念ながら、伝言ゲームが正しく伝わることはない。
賢人の教えならば尚更のことである。
多くの人には、賢人の教えを理解することは出来ないだろう。
理解の及ばないことを伝えること程、難しいことはないだろう。
例えば、他国の言葉を聞いて、それを正しく伝えるのは至難の業(わざ)である。
それは、正しく理解することが出来ないからだ。
もちろん、ゴータマやイエスの教えも完全ではないかも知れない。
より本質的な方法が見付かるかも知れないのである。
その時には、修正しなければならないが、師よりも未熟な弟子達には、出来る限り正確に伝えることで精一杯であるだろう。
しかしながら、すべての人は未熟である。
未熟者の伝言ゲームは、必ず別の形の答えに辿り着いてしまうのである。



2019年1月24日木曜日

追憶 2300

人生を決めるのは自分自身である。
人は、自らの分際と共に人生を決めなければならないだろう。
わたしに出来ることは、彼の霊的な問題を解決することだけであり、人生を決めるのは彼自身の仕事である。
わたしは、出来る限りのことを伝えて彼と別れた。

今日の宗教は、外を飾っているようにしか見えない。
本来の教えは異なるだろうが、今日にはそれが伝わっていないのだろう。
ゴータマは仏教を作らなかったし、イエスはキリスト教を作らなかった。
宗教というものは、後の世の人が作るものである。
それは、伝言ゲームのようなものであるだろう。

2019年1月23日水曜日

追憶 2299

人は、魂の段階を経る。
それは、赤子が老人へと成長する過程と同じようなものであるだろう。
魂にも、赤子から老人までの成長段階があり、人は、その段階に相応しい振る舞いをするのである。
彼は、人でいうと20代後半くらいの魂であろうか?
外を飾ることへの関心が薄れ、内を飾ろうと思い始める頃である。
そのため、繁栄を極めた現状を手放し、小さくてもより本質的な生き方や仕事がしたいと考えているのであろう。
彼は、魂を満たしてくれる、本当の幸福を求めているのである。

2019年1月22日火曜日

追憶 2298

外を飾るのは疲れる。
なぜなら、外をどれだけ飾ってもやがては朽(く)ちてしまうからだ。
内を飾ることに疲れる人はいない。
なぜなら、内は飾る程に輝きを増すからである。
彼の中の、仁王のような霊的な存在と対話すると、戦うことに疲れたと言う。
わたしは仁王のような霊的な存在から、身に付けていた武具と刀を受け取り、それを光に帰した。
すると、燃え盛っていた炎は消え去り、着物を羽織った青年の姿に変わった。
青年は仁王とは対照的な穏やかで満たされているような表情を浮かべていた。
青年こそが、仁王の本来の姿である。
身に付けていた武具は、彼が自らを守るための感情であり、価値観であるだろう。
刀は、道を切り開いていくために必要な傲慢(ごうまん)さである。
彼は、やはり争いの世界を生きている人である。
柔らかな物腰とは対照的に、内には覇気(はき)が存在しているのである。
しかしながら、彼は、争いの世界を手放す時期に差し掛かっているのだろう。
学びの段階が変わろうとしているのである。



2019年1月21日月曜日

追憶 2297

彼は、わたしに対して"別の仕事がしたい"と言った。
引退して小さな蕎麦屋でもしたいと訴(うった)えるのである。
彼は、世間から見れば成功者である。
多くの人が、彼の立場を羨(うらや)んでいるだろう。
しかしながら、彼本人は、その立場を手放し、別の生き方を望んでいるのだ。
それは、愛の世界を求めているのではないかと思える。
恐らくは、多くの人と対等の関係を築きたいのではないだろうか?
内を飾り、心と心で向き合い、愛によって繋がることが出来るような関係を欲しているのではないかと思えるのである。



2019年1月20日日曜日

追憶 2296

恐怖や利害を離れた繋がりこそが強いのである。
外を飾る人達の間には、常に駆け引きが展開されている。
互いの打算と企(たくら)みが交差するのである。
そこには、愛がない。
愛がない世界では、互いに奪い合わなければならない。
互いに奪い合うことは、互いを消耗させる。
それでは、疲れてしまうのだ。
彼がわたしを訪(たず)ねたのは、恐らくは、愛のない世界に疲れたからであろう。
それは、わたしが20歳頃に"前向きに"自殺を考えていたのと同じなのではないだろうか?
わたしが"前向きに"自殺を考えていたのは、人生でやりたいことが見付からず、心が空しさを覚え、退屈であったからだが、愛の無い世界に生きていたために、やりたいことが見付からず、空しく退屈だったのではないかと思えるのである。

2019年1月19日土曜日

追憶 2295

それは、外を飾るということである。
傲慢(ごうまん)な人達は、表情や服装や言葉遣いや行為などの、他者に対して訴(うった)えることの出来る部分の強化に努め、自分の立場を守ろうとする。
それは、弱いからであろう。
本当に強い人は、外を飾ることはない。
内を飾る人は、他者に対して訴える必要がない。
なぜなら、争う必要がないからである。
本当に強いのであれば、争わずに協力することが出来るだろう。
一人よりも、二人の方が強い。
二人よりも、三人の方が強いのだ。
内を飾る人でなければ、他者と協力することは出来ないだろう。
外を飾る傲慢な人達にも取り巻きはいるが、それは、恐怖や利害による腐れ縁に過ぎないのである。

2019年1月18日金曜日

追憶 2294

わたしは、生きるために必要なものをすべて手にしていたし、彼は、世間的に価値のある大抵のものは手にしていただろう。
しかしながら、互いに心の満足だけは手にすることが出来なかったのである。
彼の心の中には、全身から炎を放っている仁王のような霊的な存在がいたが、それは、彼が経済という競争の中に生きているからであろう。
経済の世界では、それぞれの思惑(おもわく)が異なるために、例え争うつもりは無くても、争いに巻き込まれてしまうのである。
もちろん、初めから争うつもりでいる人もいる。
表面上は仲良くしていても、裏では様々な駆け引きを繰り広げているのである。
その競争を勝ち抜くためには、闘って勝たなければならない。
そのためには、武装し、強くならなければならないのである。




2019年1月17日木曜日

追憶 2293

外をどれだけ飾っても、内が飾られていなければ幸せにはなれない。
五体満足で、健康にも恵まれ、家族からの庇護(ひご)の下、何の不自由も無く、奔放(ほんぽう)に育ったわたしは、20年間の人生を不幸に感じていた。
それは、内が飾られていなかったからである。
生きるための必要が十二分にあっても、それだけでは人は幸せにはなれないということを、わたしは骨身にしみて理解しているつもりだ。
五体に不足し、病を抱え、天涯孤独であり、不自由の中に生きても、内が飾られているのであれば、人は幸せになれるのである。
年齢を重ねてくれば、誰もがそのような状態に陥ることは十分に考えられる。
生きるための必要が不足しても、例えば、愛情に満ち足りていたり、目的を果たして満足していたなら、人は幸せを得られるのだ。

2019年1月16日水曜日

追憶 2292

彼は、多くの人が憧れるような裕福な暮らしをしている。
イタリア製のスポーツカーを何台もコレクションし、新しく別荘を建設しているということであった。
詳しい事情は知らないが、50代〜60代だと思われる彼は、同年代の美人な恋人を同伴(どうはん)していた。
常識的に考えれば、彼は幸せな人である。
多くの人が望むものは、すべて手に入れていると言っても良いだろう。
しかしながら、そんな彼がわたしを訪ねたのは、心が満たされていないからである。
多くの人が憧れるような裕福な暮らしをしていても、それだけでは人は幸せではないということだ。



2019年1月15日火曜日

追憶 2291

多くの人は、自らの置かれている霊的な状況を理解してはいない。
人生に乏しさを感じ、心が満たされないということが、自らの置かれている霊的な状況に起因(きいん)しているということを知らないのである。
霊的な状況を改善しなければ、心境や環境(人生)が改善されることはないのだ。
多くの人は、外を飾(かざ)ることで幸せが得られるなどと考えている。
地位や名声や財産や他者を得ることで幸せが得られるなどと思い込んでいるのである。
以前、わたしを訪ねた人は、ゴルフに行くのにヘリコプターを使うような人物であった。

2019年1月14日月曜日

追憶 2290

例えば、それは自分を守護する霊的な存在に影響を及(およ)ぼす。
霊的な存在が耐え切れなくなれば、自らの心に影響が現れる。
心が耐え切れなくなれば、周囲の人や物に影響が現れる。
周囲の人や物が耐え切れなくなれば、状況や環境に影響が現れる。
状況や環境が耐え切れなくなると、人生に影響が現れるのである。
影響は少しずつ広がっていく。
しかしながら、それに気が付くのは、影響が大きく広がった後なのである。
それは、まるで白蟻が柱を食い荒らし、家が傾いたことによって白蟻の存在に気が付くのと同じことなのである。

2019年1月13日日曜日

追憶 2289

執着している形式を手放せば、紆余曲折(うよきょくせつ)を得て、やがては本質へと近付くことが出来るだろう。
しかしながら、それが難しいのである。
なぜなら、形式に落ち着いている状態は、ある程度の安定をもたらしてくれるからだ。
それは、決して安定などではないのだが、多少は揺れても落ちていないということで安心してしまうのである。
そして、下手に動いて落ちてしまうことを恐れるのである。
劣悪な環境であっても、これ以上落ちるよりは良いと思い、仮初(かりそ)めの安定に執着してしまうのだ。
ストレスを発散せずに溜め込むよりは、ストレスを発散した方が良い。
しかしながら、発散したストレスは消えて無くなる訳ではないということを理解しなければならないだろう。



2019年1月12日土曜日

追憶 2288

形式に落ち着いてしまうということは、変化を否定するということでもあるだろう。
変化を否定するのであれば、より本質的な方法を得ることが出来ない。
本質に近付く程に、ストレスの原因である偏見と誤解は薄れていく。
偏見と誤解を抱えたままでは、いつまで経ってもストレスは消えない。
そのような状態であっては、いつまでもストレス発散という不毛な作業を繰り返さなければならないのである。
老女の場合は、不平不満や泣き言を吐き続けなければならないし、わたしに会うことによって気分を晴らさなければならないだろう。
それは、心や魂を汚す行為であり、何よりも苦しいことであると理解しなければならないのである。

2019年1月11日金曜日

追憶 2287

形式に落ち着いてしまうことには、感覚を麻痺させてしまうという厄介(やっかい)な性質がある。
老女は、図らずも、現状に対する不平不満や泣き言を吐く行為を信仰していた。
それは、現状の老女にとっては、ストレスの発散のために必要なことである。
しかしながら、ストレスを発散するという方法によっては、ストレスから解放されることはない。
ストレスから解放されるためには、ストレスを感じない思考法を確立する必要があるのだ。
何かに対して、ストレスを感じる思考がある以上は、どれだけストレスを発散したところで間に合わないであろう。
それは、穴が空いて浸水している船の水を、バケツで汲(く)み出しているようなものなのである。
どれだけバケツで汲み出しても、水は穴から永遠に湧き出てくるのだ。
浸水を止めるためには、穴を塞がなければならないのである。
穴を塞がない限りは、バケツで水を汲み出す行為は、その場しのぎの方法でしかない。
バケツで汲み出すことに疲れてしまえば、やがて船は沈没してしまうのである。

2019年1月10日木曜日

追憶 2286

形式に落ち着いてしまうと、それ以上は変化することが難しくなる。
形式に落ち着いてしまうと、それをより良くしようとする考えよりも、それを無傷で維持しようとする考えが勝ってしまうのだ。
宗教は、容易には変化を許さないだろう。
決められたことを、決められた形でしか行えないのである。
宗教的な思考を抱く人は、決められたことをなぞるのに精一杯であり、柔軟に考えることが出来ないのだ。
それは、偏見や誤解をそのままの形で放置するという状態を作り上げてしまう。
それでは、本質的に考えることも、行うことも出来ないのである。
偏見や誤解に根差した考えや行いを続けることは、苦しみや乏しさを増すことでしかないと理解しなければならないだろう。

2019年1月9日水曜日

追憶 2285

どのような道を進んでも、やがてそれは宗教的な信仰心を生み出してしまうだろう。
科学を追求する人は、合理的な思考を信仰する。
経済を追求する人は、資産や数字や信用を信仰する。
芸術を追求する人は、色や形を信仰するであろう。
どのような道を進んでも、それはやがて宗教的な形式に落ち着いてしまうように思える。
人の営みは、宗教であると言えるのかも知れない。
わたしには、それが停滞であるように思えるのである。
形式に落ち着いてしまうと、それが正しいと思うのが人の性(さが)であると思うのだ。
人が年齢と共に頑固さを増すのは、無意識の内に形式に落ち着いてしまうからではないかと思うのである。

2019年1月8日火曜日

追憶 2284

霊的に満たされている人は、美しい光を放っている。
後光が射すとでも言うのだろうか?
美しく、柔らかな光に包まれているのである。
しかしながら、有名な尼(あま)である彼女も、わたしの住む地域の様々な寺の住職も、宗教に携わる人間でこの美しい光を放っている人を、わたしは今までに見たことも会ったことも無い。
わたしの経験が浅いだけなのかも知れないが、経験上はそうなのである。
もちろん、わたし達人間は、宗教を完全に切り離して生きることは出来ない。
それは、受け継がれて来た文化であり、現時点においては、豊かな心を形成するためには必要不可な要素であるからだ。

2019年1月7日月曜日

追憶 2283

多くの人は、宗教的な儀式に執着する余り、自らの置かれてる現状を大切にする気持ちを忘れている。
宗教的な儀式を続けていれば、心の在り方など気にする必要がないという錯覚に陥(おちい)ってしまうのである。
大切なのは、心の在り方である。
残念ながら、今日の宗教は、正しい心の在り方を阻害しているようにさえ思えてしまう。
尼(あま)を名乗る世間一般では有名な生臭坊主がいるが、彼女のことを知っている訳ではないが、世に名を残した前代の宗教指導者に比べると、余りにも下劣であるように思えて仕方がない。
彼女の生き方を否定している訳ではない。
わたしは、誰がどのように生きても構わないと思っている。
それは、道は無限にあって良いはずだからである。
しかしながら、わたしには、彼女が霊的に満たされているようには見えないのである。

2019年1月6日日曜日

追憶 2282

残念ながら、老女は霊的な貯金を行っていなかった。
神棚や仏壇への供養は毎日欠かすことなく行っていたが、それと霊的な貯金は関係のないことなのである。
宗教を熱烈に信仰したとしても、霊的な貯金にはならない。
寧(むし)ろ、それは、霊的な借金を重ねることになるのではないかとさえ思うのだ。
本当の”神”は、宗教への信仰を望んではいないだろう。
本当の”神”は、現状に対して満足して生きることを望んでいるのである。
なぜなら、それが人の幸せだからである。
本当の”神”は、人の幸せを願っている。
本当の”神”は、人に成長して欲しいと考えているのだ。
宗教のように、人を見えない恐怖の鎖(くさり)によって縛り付けるような真似はしないのである。

2019年1月5日土曜日

追憶 2281

それは、現状に対して満足して生きるということである。
不平不満を吐く程に、霊的な借金は増えていく。
それは、苦しみが増えていくということなのだ。
どのような現状も、心の在り方によって別のものに作り変えることが出来る。
つまりは、満足すれば天国となり、不満を吐けば地獄となるのだ。
人生というものは、その差に過ぎない。
この世界には、良いものも悪いものも無い。
良いと思うものと、悪いと思うものがあるだけなのである。
老女は、避けることの出来ない足の痛みを悪いものとして考えた。
その結果、苦しみが襲うのである。
老女が足の痛みを良いものとして考えることが出来れば、霊的な貯金をすることになり、喜びが訪れるのである。

2019年1月4日金曜日

追憶 2280

霊的な借金の取り立てを逃れることの出来る者はいない。
どれだけ拒(こば)もうが、どれだけ逃げようが無意味である。
霊的な取り立ては、どこで誰と何をしていても、必ず行われる。
霊的な取り立てから逃れるためには、霊的な借金を返済しなければならない。
霊的な借金を返済しない限りは、苦しみは続くのである。
老女の足が変形し、痛むのは、霊的に考えれば、霊的な借金である。
自分自身の選択によって、そのような状況が導かれているに過ぎないのだ。
霊的な借金を返済するためには、霊的な借金を作らない生き方をしなければならないのである。

2019年1月3日木曜日

追憶 2279

それは、借金のように、目には見えない形で積もっていくのである。
老女は、黒くなってしまった白蛇に対して、霊的な借金をしている状態にある。
老女が借り入れられる限界まで、黒くなってしまった白蛇は破滅的な意識を食べ続けるのだ。
しかしながら、老女が借り入れられる限界を越えれば、黒くなってしまった白蛇が取り立てを始めるのである。
その取り立ては厳しく、物質的なものから、精神的なものまで取り立てる。
例えば、財産を失ったり、体調を損ねたり、人間関係が悪化したり、精神的に追い込まれるなど、様々な形で取り立てられるのだ。

2019年1月2日水曜日

追憶 2278

霊的に腐るというのは、黒く重たくなるということである。
黒く重たくなってしまった霊は、捕らわれてしまう。
恨みや悲しみを抱く心が、その感情から離れることが出来ないように、黒く重たくなってしまった霊は、石のように水底に沈んで動けないのである。
老女は、足の痛みに対する不平不満や泣き言に執着している。
彼女は、その感情に捕らわれて、動けずにいるのである。
肉のことに執着すれば、霊を疎(おろそ)かにしてしまう。
それは、霊を腐らせてしまうということなのだ。
黒くなってしまった白蛇は、老女の霊の腐りを食べることによって、自らを腐らせてしまったのである。

2019年1月1日火曜日

追憶 2277

恐れを抱くのは、肉の視点でものを見るからである。
肉の視点で見るから、この世のものに執着(しゅうちゃく)が生まれるのだ。
例えば、今から死のうとする者に、この世の何かが必要であるだろうか?
死を迎える者には、この世の準備は必要ないのである。
この世に生きているのは肉である。
そのため、肉はこの世のものを考える。
霊は、この世とあの世の狭間(はざま)に生きているだろう。
そのため、この世のものを必要としないのである。
肉を生きれば執着によって動きを失う。
それは、腐ることを意味しているのである。