このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2015年3月31日火曜日

追憶 932

A子はもちろんのこと、そこにいたすべてのメンバー、そして、Nまでもが、この学びを得る必要があるはずだ。
そして、それによって全員が苦悩を得なければならない。
そこから得られる苦悩を乗り越えることによって成長する必要があるのだ。
わたしはそれをサポートするという配役に違いない。
この学びの主役は彼女達である。
わたしの仕事は、その学びが完成するように取り計らうことだろう。
余計な手出しは無用である。
そのため、今は見守るだけである。
必要な時には、何らかの形で仕事が与えられるはずである。
Nには、彼女達を放っておくように伝えた。
しかしながら、Nが聞き入れるはずもなく、今からA子の元へ向かうと言って電話を切ってしまった。

2015年3月30日月曜日

追憶 931

そこでわたしは待つことに決めた。
A子のことは気になるが、時には辛抱することも大切である。
多くの人は問題に会った時に心を乱してしまう。
冷静さを欠いた心は、問題を更に複雑なものにしてしまうのである。
それから、忘れてはいけないのは、人生というものが学びのために存在しているということである。
様々な経験を通して、わたしたちは成長することを学ぶのだ。
A子達はルールを破った。
それがどのような意味を持つのかを理解するためには、苦しむ必要がある。
苦しみ悩み、絶望することによって、大切なことに気が付けるのである。

2015年3月29日日曜日

追憶 930

NがA子の名前を出した時、わたしには一つのイメージが浮かんだ。
それは、想像力によって作り上げたものではない。
わたしの意思に反して勝手に流れ込んでくる映像なのである。
それが問題の原因の一つであることはすぐに分かった。
しかしながら、わたしにはそれ以上どうすることもできなかった。
それは、”上”からの号令が無い限りは、わたしにできることは何一つ無いからである。
わたしは自分勝手に仕事を遂行することはできない。
それでは、結果が歪んでしまう。
未熟であるわたしの意思によって遂行される仕事の成果というものは、間違っても最善であるとは言えないのである。

2015年3月28日土曜日

追憶 929

そこで、様々な憶測が飛び交う。
それは混乱を引き起こし、恐怖へと変わった。
心配と不安が飛び交う中で、思い付いたように誰かがNの話を出した。
それは、わたしを頼ってのことである。
彼女達にとっては、藁(わら)をも掴む思いだったのだろう。
Nに連絡をして、どうにかならないかと助けを求めたのである。
しかしながら、Nにその問題の解決ができるはずもないので、わたしに連絡をした。
というのが実情である。

2015年3月27日金曜日

追憶 928

問題はその楽しい雰囲気の中に生じた。
途中から、一人の女の子の様子がおかしくなったのである。
その子を仮にA子としよう。
楽しい雰囲気の中、A子は酔いが回ったのか項垂(うなだ)れて静かになった。
他のメンバーはそれも良くあることとして、さして気にも留めてはいなかった。
朝までどのように過ごしたのかは分からないが、翌日になってもA子の様子は変わっていなかった。
昨夜と同じように項垂れて、聞き取ることの難しい小さな独り言を何度も何度も繰り返している。
A子が何かの冗談でそんなことをしているのだと初めは皆が笑っていたが、正午を過ぎてもその調子なので、さすがに何か異常な事態であることに気が付き、それぞれが介抱したようであるが、誰の呼びかけにもA子はまともな反応を示さなかったのである。

2015年3月26日木曜日

追憶 927


「友達が大変なの!」

わたしは再度Nをなだめた。
要約するとこうである。

わたしに連絡する少し前に、同級生から連絡があった。
その連絡はNに助けを求めるものである。
話を聞くと、その問題が彼女達では解決することができないものだと理解した。
前日、同級生は友人数人と所謂”飲み会”を開いていた。
男女5、6人で夜遊びをしていた。
飲酒や喫煙、そして、子どもだけの解放感に浸っていたのだろう。
思春期特有の好奇心である。
わたしも飲酒と喫煙はしなかったものの、友人との夜遊びはよく行ったものである。
わたしは決して健全な高校生ではなかった。
そのため、彼女達を責める気はない。
もちろん、ルール違反であることは事実である。

2015年3月25日水曜日

追憶 926

それは、成長のためであるだろう。
すべての存在は、成長するために存在していると言わざるを得ない。
そうでなければ、わたしの短い人生の浅はかな見解であろうとも、人生というものの説明がつかないのである。

ある日のこと、Nからの着信が電話を揺らした。
わたしは上機嫌で応答したが、Nの声色は差し迫った状況を告げるものであった。
動揺するNをなだめつつ、わたしはできる限り内容を正確に伝えるように告げた。
一呼吸置いてから、Nは思い出すように話し始めた。

2015年3月24日火曜日

追憶 925

Nは天使ガブリエルに対して、自分の利益になるようなものは何も望んではいなかった。
ただ、感謝していたに違いない。
そして、その翼を見た後ではただ感動していたのである。
望んでいなくても助けてくれる。
それが守護者であったり、”神様”という存在なのである。
しかしながら、欲深い者は感謝することもなく、自分自身に対する多くの利益を求める。
その結果はNのものとは違う形となるだろう。
”神様”という存在は、わたしたち人間のように未熟な人格的存在ではない。
”神様”とは「すべて」である。
そこに個人的な感情を持ち込むということは有り得ない。
そのため、その人の行為を見て、それに相応しい働き掛けを行うのである。
自分の利益だけを求めるような不逞(ふてい)な者には、それに相応しい行為を以て返すのである。

2015年3月23日月曜日

追憶 924

わたしたち人間がしなければならないことは、ただ感謝することだけである。
既に”完璧”な仕事を終えた相手に対しては、労うのが普通であるだろう。
しかしながら、多くの人は無知と貪欲(どんよく)によって相手の”完璧”な仕事を否定する。
そして、「まだ足りない」と言っては、何度も何度も催促(さいそく)するのである。
自分が何を受けたかも知らないで、余計に欲するのだ。
過剰な食欲によって食物を摂れば、その身体は醜く肥(こえ)る。
適量であり、完璧な栄養バランスの食事が目の前に運ばれているにもかかわらず、それよりも多くの仕事を要求するのは愚かなことである。

2015年3月22日日曜日

追憶 923

わたしとNが、自分達では分からない条件を満たしたために共にいるのである。
そうでなければ、9歳も歳の離れた、それも当時中学生であり、現在は高校生の恋人という”変”な関係はわたしの中では有り得ないと思っているのだ。
これから、Nは何らかの形で”光の仕事”に携わるだろう。
そのための、天使の目撃であったに違いない。

天使という存在、守護者という存在は、頼みもしないのに守ってくれている。
多くの人はそのことを理解していないために”神さま”にいろいろとお願いをする。
しかし、お願いなど必要無いのである。
人がお願いするよりも先に、守護者は仕事をしているのだ。
必要な仕事を精一杯に行った結果が受け取る現状なのである。
お願いは、守護者の仕事に対するクレームであり、それは侮辱なのである。

2015年3月21日土曜日

追求 922

これは、大天使ミカエルがわたしとNを引き合わせたところまで遡(さかのぼ)る。(厳密には”神”が引き合わせ、それを大天使ミカエルが知らせたのだろうが…)
大天使ミカエルが引き合わせる以前から、わたしとNは出会っていた。
それが、ある時期になって共に生きろと言うのは、そのようになる何かしらの条件が整ったことを意味しているのだろう。
わたしたちの場合は、自己に対する追求(成長)と真理に対する追求、そして、”光の仕事”への実践という目的があったに違いない。
わたしが行っているのは”光の仕事”である。
これは、わたしが勝手に名付けたものである。
人の心や霊を手助けする行為を”光の仕事”と呼んでいるのだ。

2015年3月20日金曜日

追憶 921

他人に対して何かの頼み事をする時、その頼み事の難易度と、その人の実力とを見て、それを達成することができる人に対してそれを頼むだろう。
頼んでも達成することができないと初めから分かっているのであれば、それを頼むという無謀は行わないのである。
現在の人類の文明では、男のわたしに子どもを出産しろと頼むのは(多分)無謀である。
それが無謀だと分かっているので、誰もわたしに子どもを出産しろと頼むことはない。
天使、もしくは神(真理)が頼み事をする時に、わたしたち人間のように憶測で話を進めることは有り得ない。
彼等は必要を完璧に満たすのである。
Nに対して天使の翼を”見せた”のは、Nに対する頼み事なのではないだろうか?

2015年3月19日木曜日

追憶 920

Nが天使の翼を目撃したのは、恐怖心を抱きながらも、無知な状態に比べて霊に対する理解の深まりによって愛情に近付いたことが理由の一つとして上げられるだろう。
Nはわたしと共に過ごす中で、霊に対する誤解というものを少しずつ解きほぐしていったのである。
大体、わたしは霊に対しては好感しか抱いていないために、一緒にいれば嫌でもその考えが”伝染”するはずである。
そのため、Nは既に”変”なのである。
高次の霊的な存在である天使は、そのようにポジティブな心(人物)を求めている。
それは、彼等の仕事が人の成長を助けるというものだからだ。
何かに対してネガティブな印象を抱いている人物は、自分自身であっても、他人であっても、霊であっても救うことはできない。
そのような状態の人物に対してアプローチすることには意味が無いのである。

2015年3月18日水曜日

追憶 919

もちろん、Nにも霊に対する恐怖心はあるだろう。
ネガティブな状態にある霊は、そのような”振動”を持っている。
それに触れると、誰もがネガティブな振動のエネルギーを受けることになるために、調子が狂ったり、感情が不安定になったりする。
しかし、それは霊が持ち込むのではない。
多くの人、多くの霊能者はそこを誤解しているのである。
霊とは、自分自身が所有している感情の”拡張装置”に過ぎないのである。
そのため、霊によって拡張された自分自身の弱さや未熟さに、霊によって気付かされているのである。
理解することができるだろうか?
多くの人、多くの霊能者はこの考えを受け入れることはできない。
それは、愛が不足しているからである。

2015年3月17日火曜日

追憶 918

大切なのは、貢献するということであろう。
どのような力を所有していたとしても、それによって貢献することができなければ、意味が無いとさえ思えるのだ。
厳密には意味はあるが、ここで言う意味が無いというのは、霊を見ることを目的としてはいけないということである。
貢献とは、愛によって役に立つということである。
多くの人、多くの霊能者と呼ばれる人達は、愛によって役に立つということを知らないでいる。
そのために、”悪霊退散”という旗を掲げて争うのである。
霊によって災いが起こるなどという浅はかな考えは、自分自身が所有する原因に対する逃避であり、問題の混乱に手を貸す愚かな行為なのである。
霊を敵として、自分自身を正当化することで、自分には非が無いことを訴えたいのであろう。
それは、愛によって役に立つということでは無いのである。

2015年3月16日月曜日

追憶 917

わたしが最も嬉しかったのは、Nが天使を目撃したということであった。
Nが怪我をしなかったことも嬉しかったし、天使ガブリエルが守ってくれたことも嬉しかった。
それ等のことは確かに嬉しかったが、わたしにとって、Nが天使を見るということは、それだけ心が純粋さに近付き、高次の視野を得たということの証明であると思えるのである。
わたしは、人にとってそれが何よりも大切なことだと考えているために、その部分に大きな感動を覚えたのであった。
きっと、Nは天使の目撃をわたしとは多少異なる観点によって解釈し、感動しているのだろう。
例えば、霊を見ることを喜ぶ者は好奇心を動機としている。
以前のわたしがそうであった。
わたしは今でも霊を見るということを楽しみとしているが、霊を見るだけでは何の意味も無いということに気が付いているのである。

2015年3月15日日曜日

追憶 916

「それは、白い翼だったの」

Nの言葉に対して、わたしの中に一つの光が輝いた。
わたしの直感は、それが天使の翼だと教えていた。
それは、思考よりも早かったのである。

「きっと、ガブちゃんだよ!」

Nの言う”ガブちゃん”とは、天使ガブリエルのことである。
わたしたちは天使ガブリエルのことを親しみを込めてそう呼んでいたのだ。

「初めて見たけど…すごいね!」

Nの表情は目を輝かせている子どもそのものであった。


2015年3月14日土曜日

追憶 915

何の衝撃も感じなかったのだから、もちろん痛みも無かった。
痛みが無いのだから、擦り傷一つ無いのである。
Nは転倒したのではなく、優しく置かれたのだから。
しかし、周囲の人たちにはそのようなことが起きているという認識は無かった。
Nが激しく転倒したように見えたのである。
客観的な視点と主観には大きな隔たりがあった。
しかし、Nに擦り傷一つ無いのは事実である。
これを説明することは難しいであろう。
”たまたま”だろうか?
しかし、それではNが見た白いものの説明ができないのである。

2015年3月13日金曜日

追憶 914

ここまでは何ら変わったことはない。
多くの人がこのような視界を経験しているだろう。
わたしが興味を引かれたのは、ここからの話である。
視界は地面によって覆い尽くされようとしていた。
ゆっくりと迫る地面に対して、Nができることは何一つとしてなかった。
思考は追い付かない。
本能が機能して、腕が受け身の姿勢を整えようとしていたかも知れない。
しかし、それが間に合うかどうかは難しいところである。
その時、背後から白く大きな何かが視界に入り込んだ。
それは、身体を包み込むようにして、Nと地面とを仲裁したのである。
スローモーションの中で、大切な荷物を扱うようにしてNの身体はゆっくりと地面に置かれた。
そこには、何の衝撃も感じなかったのである。


2015年3月12日木曜日

追憶 913

皆がNに怪我の無いことを確認して安堵(あんど)した。
安心の結果として、その場は笑い声に包まれたのである。
 しかし、Nには”秘密”があることを知る者は、この場には誰一人としていなかった。
Nがわたしに話したいのは、この”秘密”についてであった。
余りにも楽しげに話すので、わたしは待ち切れない気持ちでNを急かした。
すると、Nは含み笑いを浮かべながら続きを話し始めた。
Nが何かに躓(つまず)いて倒れこもうとする時、視界がスローモーションとなった。
これは、肉体による危機回避能力によって、脳の処理能力が最大限に発揮された結果として、情報処理のスピードが増したためであるだろう。
普段は脳内で不要として処分している情報を拾い集めた結果、連続する時間に対する”コマ数”が増えて、まるでスローモーションのように認識されるのである。

2015年3月11日水曜日

追憶 912

全力で駆けたNは、何かに躓(つまず)いて激しく転倒した。
砂埃を巻き上げて地面を滑り、沈黙した。
周囲の同級生たちはその光景に驚いて固まった。
すると、何事も無かったように起き上がり、すぐに走り出して完走したのであった。
服に付いた砂埃を払い落とすNに同級生たちが駆け寄る。
皆は怪我の有無を心配したが、Nには擦り傷一つ付いてはいなかったのだ。

2015年3月10日火曜日

追憶 911

高校生になったNは、毎日が楽しそうであった。
新しい環境には、誰にとっても感動が存在しているものである。
それを見るとわたしの心も弾んだ。
ある日のこと、Nが興奮した様子でわたしを訪ねて来たことがあった。
話したいという気持ちが強過ぎて、舌が空回りしていた。
わたしはそれをおかしく思い、笑いながら宥(なだ)めるのであった。

その日、Nは体育の授業で驚くべき体験をした。
体力測定があり、様々な種目をこなしていた。
しかし、50m走の時にアクシデントに見舞われる。
中学生の頃から卓球部に所属していたNは、お世辞にも運動が得意であるとは思えなかった。
卓球自体は上手いかも知れないが、走る姿には愛嬌を感じる。


2015年3月9日月曜日

追憶 910


わたしは多くの命を殺すことによって生きている。
わたしは身体という制限を持ち、自然界というシステムの中に生まれた。
その中で生きていくためには、他の命を殺さなければならないのである。
すべての人が多くの命を殺し、それを飲み込むことによって生きている。
わたしはそこに罪を感じながら生きているのである。
(後にわたしはベジタリアンとなるが、それは五年後のことである)
わたしは自らの罪をどうにかして償いたいと思っている。
しかし、わたしには奪った命以上の命を生み出すことができないので、ゴミを拾うことによって、少しでもその償いをしているつもりなのである。
自然界に対してわたしにできることは、自然が少しでも綺麗になるように努めることくらいである。

2015年3月8日日曜日

追憶 909

この地球では、生きるためには食べなければならない。
それは、他の命を殺すことである。
植物であっても命を奪わなければならないのである。
神様に祈りを捧げたところで、命を奪う行為をやめることはできない。
残虐に殺した後に神様に祈りを捧げて、罪が許されるとでも言うのだろうか?
人間は約三千年間(もっと長いかも知れないが)、奴隷制度と植民地支配を続けた(形を変えて続いている)が、神様に祈りを捧げただけでその行為が許されるだろうか?
自分自身で行動することによって償(つぐな)う以外には方法がないのではないか?
わたしはそう思うのである。

2015年3月7日土曜日

追憶 908

思春期の幼いわたしは、自ら行動することによって心の痛み(恋煩い)を治したのである。
神様はわたしの心の痛みなど何とも思ってはいないだろう。
世界には残酷に命を奪われている人が数え切れないほどいるのだ。
この文章を読んでいる間にも、世界では何人、何十人、何百人、何千人もの尊い命が奪われているのが現実である。
果たして神様に祈りを捧げることで、この人たちが助かるのだろうか?
そして、多くの罪もない動物たちが、残虐に殺されている。
食べるためであるにしても、殺し方に残虐さが見て取れるのである。
わたしも真鯛の養殖業を営んでいるので、真鯛を殺さなければならない。
正しいとは決して言えないだろうが、命に感謝を込めて殺すのである。
それは、せめてもの慰めである。

2015年3月6日金曜日

追憶 907

人生というものは、基本的に自分自身の力によって切り開いていくものであると、わたしは考えている。
神様に祈って、目的が達成されることがあるだろうか?
わたしの経験としては皆無である。
宗教を信じてる人達は、毎日毎日神様に祈りを捧げているが、それで求めているものが何か一つでも実現したと言うのだろうか?
わたしは思春期に思いを寄せる女の子に思いが伝わることを神様に祈ったことがある。
当たり前ではあるが、何の展開も発展も無く時間だけが虚しく過ぎて行った。
しかし、思いは募るために小さな胸は苦しいのである。
毎日祈りを捧げている神様は、わたしの取るに足らない恋煩(こいわずら)いですら治してはくれなかったのだ。
そこで、わたしはこの思いを意中の人に伝える決心をして、ついに告白をした。
結果はあえなく惨敗であったが、わたしの胸はもう苦しくはなかったのである。

2015年3月5日木曜日

追憶 906

それはNにも当てはまることだろう。
わたしたちは「正解」を探して生きているのである。

天使ガブリエルが守護として共に生きるNは、何と無く明るくなったような気がする。
これまでに比べてネガティブな発言が減り、心が高揚している時間が伸びたように思える。
これは、Nにとって良いことであろう。
わたしにとっても幸せなことであった。
ガブリエルの力であるとは断定することはできない。
ここで、天使の力で…という表現をすれば、読み手には間違った解釈が生まれてしまう可能性がある。
これは、Nの力であり、周囲の人達の力であり、天使ガブリエルの力であり、少しだけ、わたしの力でもある。

2015年3月4日水曜日

追憶 905

成長とは何かを考える。
肉体が大きく育つことだろうか?
知識を多く蓄えることだろうか?
多くの経験を得ることだろうか?
仕事ができるようになることだろうか?
有り余る富を所有することだろうか?
人から賞賛されることだろうか?
成長の定義とは、人それぞれの価値観によって異なるだろう。
25歳のわたしには、その答えが分からなかった。
憧れや夢はある。
霊的な存在と世界に触れることによって、わたしはそれ等を得たのである。
わたしは天使に憧れ、天使に成ることを夢として生きている。
しかし、それを実現させるためには成長することが不可欠なのである。
その成長というものが何であるのか?ということが重要なのだが、わたしには見当も付かなかった。

2015年3月3日火曜日

追憶 904

Nは高校生になっていた。
16歳の少女は、肉体的にも精神的にも少しずつ成長し、大人へと向かって日々を生きている。
彼女なりに、様々な出会いと別れに刺激を受けて心は成長を続けている。
わたしはNの人生に自分自身の過去を照らし合わせながら、恥ずかしさと後悔によって反省するのである。
わたしは25歳になった。
これまでの人生において培(つちか)った偏見と心の汚れを取り除くのに一生懸命な毎日である。
しかし、この自我というものは手強い。
わたしは「彼」を攻略できずに愚かに生きているのであった。
毎日の瞑想と人助け(になっているかは分からないが…)を繰り返す中で、少しでも成長することを求めていた。


お知らせ

追憶904〜906の記事は、以前に追憶819〜836に既に記しているものであったために削除しました。
ようやく、三日間に及ぶ個人的な違和感が解けました。
新たに追憶904から始めたいと思います。
つたない文章ではありますが、今後も楽しんで頂けると幸いです。