このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2015年2月28日土曜日

追憶 903

これから、Nは自分自身の抱える未熟さをより具体的な形として受け取るだろう。
それは、目の前の状況として、感情の変化による心境としてである。
普通?の人であれば気にならないレベルの問題であっても、Nにとっては受け流すことが難しいものとなるだろう。
天使の力によって気付き(感性)が増すのである。
それは多くの人にとっては面倒であり、苦しみである。
しかし、Nは成長する必要がある。
そのために、天使ガブリエルは守護者としての仕事を始めたのであろう。
わたしは大天使ミカエルと出会って、自分自身の未熟さを知った。
そして、それは改善しなければならない問題であることを思い知ったのである。
Nにも同じことが言える。
わたしたちは共の時間を過ごし、互いに助け合いながら成長するように求められているのだろう。

2015年2月27日金曜日

追憶 902

しかし、実際に天使と付き合ってみて分かることは、天使が人間を苦しみから遠ざけることは、利己的な妄想に過ぎないということである。
わたしは天使によって、苦しみに対して正しく向き合うことができるようになったと思うのである。
それは、天使が苦しみに対する自分自身の在り方をレクチャーしてくれるからだ。
わたしは天使から苦しみを楽しむことの重要性を学び、日々それを実践することができるように努めている。
しかし、まだまだ未熟であり、愚かであるために簡単にはいかない。
天使が側にいれば、未熟の数だけ苦しみは増すのである。
多くの人が天使に対して抱いている誇大妄想は、簡単に裏切られるということを理解しなければならないだろう。

2015年2月26日木曜日

追憶 901

これは、天使であっても(天使であるが故に)、人間の自由意思というものを尊重する必要があるのではないだろうか?
わたしは天使のことで知っていることをできる限り伝え、それを考慮して答えを出すように促(うなが)した。
後から文句を言われると困るのである。
しかし、予想通りNは快く承諾したので、天使ガブリエルはNの守護者としての仕事をしてくれるようになった。
わたしはそれをとても心強く思い、感謝するのであった。

天使の仕事とは、学びの具現化ではないかと思える。
わたしたち人間は未熟であるが故に学び続けている。
天使に対して幻想を抱いている人は少なくないだろう。
神や仏(多くの人は神社仏閣としての認識であるだろうが)に対して幻想を抱いている人が幸運や奇跡を求めて神頼みをするが、同じような感覚によって天使を位置付けている。
天使が守護者となれば、苦しみを遠ざけ、困難から救い出し、幸運を導いてくれる。
だから、天使に祈ろう…
このように考えている人は多いだろう。

2015年2月25日水曜日

追憶 900

この自叙伝の中に記してあることは、わたしの実体験である。
しかし、これは記憶を遡(さかのぼ)りながら書き記しているために、思い出せないことや事実に基づいた多少のフィクションもある。
しかし、嘘を書いているのではない。
これは創作ではないのだ。
そこに、自分自身で感じたことや伝えなければならない言葉というものがあり、それを自分なりにできる限りナチュラルに添えているつもりである。
そのことを理解した上で楽しんでもらえれば良いと思っている。

Nは小さな恋人である。
彼女は15年の歳月を生きている。
とても可愛い人である。
今となっては思い出せないのだが、ある時Tさんのところにいて、現在はわたしのところにいた天使ガブリエルが、Nを守護することを宣言した。
わたしはそのことを告げて、Nに了承を得なければならなかった。
すべてではないだろうが、天使が誰かを守護する時には、その人からの了承が必要であるみたいだ。

2015年2月24日火曜日

追憶 899

わたしが変わっていなければ、Tさんにとってわたしは会う価値の無い人物だろう。
しかしながら、わたしたちは出会い、同じ時間を共有し、その中でより良い方法を模索したのである。
この事実を否定することは出来ない。
人は自分自身に相応しい状況を手に入れるが、わたしは非力ながらも人を助けたいと思ったし、Tさんは僅(わず)かながらの希望を探しに来たのでは無いだろうか?
そうでなければ、このような「怪しい」時間を真剣に過ごすことなど無いのである。
多くの人は無知と未熟の中に生きているために、苦しみの解決法を知ることはない。
苦しみすら理解していない者も多く、わたしはいつもそれに驚愕(きょうがく)する。
そのため、無知と未熟を克服することすらせず、自ら努めて変わろうとしない者ばかりなのである。
わたしたちは自分自身の心を見つめ、心と共に生きること、無知と未熟を克服し、豊かな人生に生きること、価値のある人物を目指すことを約束して別れた。
これで、(現状における)Tさんに対する仕事は完成である。





2015年2月23日月曜日

追憶 898

大切なのは、今あるもの、今持っているものをより良いものに高めていくことだ。
しかし、それには時間と忍耐が必要である。
「雨だれ石を穿(うが)つ」という諺(ことわざ)がある。
小さな滴(しずく)も、何度も何度も打ち付けることで、硬い岩にも穴を開けるという意味である。
どのような環境や身体的、精神的特徴を持って生まれても、忍耐によって継続すれば、人生を変えることは不可能ではないのだ。
考え方を変え、心境を変え、言葉を変え、行動を変えることによって、人生は必ず変わる。
これによって人生が変わらないということは有り得ない。
なぜなら、わたしはそれを身を以て体験しているからである。
自分なりに毎日努力している。
その成果として、多少なりともわたしの思考、心境、言葉、行動は変わった。
変わったので、今わたしの目の前にはTさんがいるのである。

2015年2月22日日曜日

追憶 897

わたしたちの過ごした時間は、Tさんが自分自身と真剣に向き合い、今後の人生  を豊かなものにしていくためのものである。
しかし、数時間話し合ったところで人生が変わる訳は無い。
神社仏閣に参拝したところで、どうなると言うのだろう?
多くの人は迷信を信じ、誤解と無知の中を生きている。
そのために、実践が伴わず、また同じ苦しみを受けるのである。
そして、何も変わらないままに死んでいく。
今後、Tさんがどのような選択をして、どのような人生を築くかは分からないが、話し合ったことを実践していくことによって新たな可能性を得ることは大切なことなのだ。
新たな可能性によって、これまでの誤った選択を終わらせることができるはずである。
生まれや身体的特徴や精神的特性を恨むことは出来ない。
それ等を恨んだところで何の意味も無いからである。

2015年2月21日土曜日

追憶 896

わたしがTさんに対して伝えるべきことはすべて伝えた。
仕事が終わったことを告げ、大きな背中を少し強めに叩(たた)いた。
これは、気合いのためである。
強い気持ちで生きていって欲しいのだ。
その時に、黒いTシャツのプリントが気になった。
そこには、頭が骸骨の悪魔が描かれていた。
これは、偶然だろうか?
不思議な繋がりを感じてしまう。
背筋が伸びて、振り返ったTさんの表情は、会った時と比べると柔らかくなった気がするし、凛々(りり)しくなった気もする。
血色の良い赤い顔を見ると、初めは黒く淀(よど)んでいたのだと気が付いた。

2015年2月20日金曜日

追憶 895

多くの人がそのことを知らずに生きている。
そして、問題が生じ、その苦悩に耐えられなくなると外に助けを求める。
問題が表面化するまでには、いくらでも時間が与えられていたのだ。
いくらでも、方向転換することができたし、結果を塗り替えることもできたのである。
しかし、人生に対して、自分自身に対して無関心に生きているためにそれは実現することが難しいことなのである。
Tさんの抱える内外的な問題によって、これまでに何度も苦悩してきたに違いない。
今回はわたしがいて、大天使ミカエルやガブリエルもいる。
そこから、受け取る知恵を携え、苦悩の壁を乗り越えることが今夜の目的なのである。

2015年2月19日木曜日

追憶 894

これから、Tさんがしなければならないのは、自力を育むということである。
自力は自発性によって育まれる。
わたしは20歳の時に自分自身の人生に対して絶望を覚えた。
そのおかげで、自発性に目覚め、僅(わず)かながらの自力を育んだのである。
多くの人は自力を育むということに無頓着である場合が多く、人生というものの本質を捉え、真剣に考えている人は少ないと言えるだろう。
酒やギャンブルなどに溺れるのは、その典型である。
そのような「詰まらない」時間を過ごすのであれば、学問に触れて知恵を育んだり、物思いに耽(ふけ)って哲学したり、創造力を駆使して何かを製作したりする方が有益なのである。
多くの人は人生が自分自身に相応しい場所になるということに気が付いていないのだ。
Tさんには妻子がいる。
子どもはまだ幼かったが、妻との関係においても悩んでいるようであった。
その問題もTさん(自分自身)に相応しいのである。

2015年2月18日水曜日

追憶 893

他人であっては救うことが出来ないのである。
Tさんを救うのは、この世でTさん以外にはいないのだ。
そして、自らを救う方法は苦しみから逃れることではなく、苦しみを乗り越えることである。
逃げているのであれば、成長することが出来ないのだ。
他人に頼る必要があるとするなら、苦しみを乗り越える方法を教えてもらうことくらいであるだろう。
人生というものは、自力によって自分自身と向き合う時間であると言えるだろう。
他人に頼ることは、自分自身と向き合う貴重な時間を自ら捨てるということに繋がる可能性があるのだ。
Tさんは以前のわたしと同じように、自力によって自分自身と向き合うことが出来ない状態であったのだろう。
自力によって自分自身と向き合ってきたのであれば、頭の中の破滅的な思考は石化してはいないだろうし、ガブリエルは悪魔にはなっていないはずなのだ。


2015年2月17日火曜日

追憶 892

わたしは霊的な存在達との関わりの中で実際に体験し、理解することができた。
わたしも幼い頃には、自分自身の意思ではない意思によって悪事を働き、周囲の人に多大なる迷惑をかけた。
それは、自力に乏しい状態を所有していたということなのである。
わたしの師は天使である。
両親を含め、家族や周囲の人たちには大きな愛情を注いでもらった。
そこには心から感謝している。
皆、良い人達なのである。
しかし、わたしにとっての師としての役割とは違っていたのだ。
他人に頼ることでは、成長することは難しい。
なぜなら、他人も未熟だからである。
わたしは天使という存在に頼ってはいない。
だから、苦しみを回避しようなどとは思わない。
俗に言う占い師や霊能者という人に頼る人がいるが、その考え自体が間違いであるということに多くの人は気が付いていない。

2015年2月16日月曜日

追憶 891

大切なのは自分自身であり、自力であるが、子どもには酷なことである。
そのために、周囲の大人が人生の師となるべきではあるが、大抵の大人がそれに相応しくはないと言えるだろう。
目の前の事柄に関して一生懸命に成りすぎて視野が狭まる者はまだ良い。
しかし、酒やギャンブルや「色」などの個人的であり、低俗的な快楽に溺れ、怠惰(たいだ)に生きている者がいる。
そのような者は好奇心や向上心が希薄(きはく)であり、成長に乏しい。
このような生き方であっては、他人の師となることはできないのである。
Tさんの周囲の大人たちは、自分自身が他人に対して尊敬に値する人物であると言えるだろうか?
これは、人が人であるために、幸福を得るためには必要なことのように思える。
Tさん(の心の状態や性質)に対する理解と、自力を育むための教え(手本)があれば、結果は大きく変わるはずなのである。

2015年2月15日日曜日

追憶 890

わたしにはそれが、Tさんの頭の中の黒い岩のような破滅的な価値観や、天使ガブリエルであった悪魔に深い関わりがあるのではないかと思えるのである。
破滅的な影響力(自身の思考や霊的な存在など)によってTさんの人生が構築されているということが言えるのではないだろうか?
破滅的な方法によって人生を築くのであれば、破滅的な結果である乏しさや苦しみを得てしまう。
それは、人生の目的である幸福と成長には程遠く、人はそのような生き方をしてはならないのである。
残念ながら、わたしには良い師がいなかった。
わたしと関わりのあった人間では、わたしを正しく導くことはできなかったのである。
何のために生きているのか?
人生とは何であるのか?
自分自身とは何か?
このような問いに答えを持たない者が、他人を正しく導くことなど不可能であるということなのである。
残念なことに、Tさんにも良い師という存在はいなかったのであろう。
そのために、心の状態が劣悪なものとなり、苦しみを受ける結果となるのである。

2015年2月14日土曜日

追憶 889

ようやく見付けた時、Tさんは自宅近くの海へ飛び込んだところであった。
引き上げられたTさんは虚ろな表情を浮かべ、しきりに海が呼ぶとつぶやくのであった。
何とか自宅に連れ戻した。
その時には眠っていた。

Tさんは俗に言う霊媒体質というものであろうか?
人は高熱にうなされて幻覚を見ることがあるかも知れない。
しかしながら、Tさんはこのエピソードを覚えてはいないようである。
わたしは霊的な存在を信じているので、このエピソードには何らかの意図を感じてしまう。
わたしも幼い頃には、自分自身では覚えのないことで、大人から怒られるという体験を重ねてきた。
Tさんにもこれと同じような状況があったのではないかと思うのである。

2015年2月13日金曜日

追憶 888

Tさんを部屋に寝かせ、家族は仕事や家事に追われた。
家内には祖父母がいたが、Tさんがふらつきながらもトイレに入ったことを確認した。
しかし、Tさんのトイレが長いことを危惧(きぐ)した祖母が、様子を伺(うかが)うために声をかけたがTさんからの返答は無かった。
それを不審に思って扉を開くと、そこはもぬけの殻であった。
トイレにある小窓が空いているのを確認したが、想像力は祖母をTさんの部屋へと向かわせた。
しかしながら、Tさんの姿は部屋には無かった。
家中を探したが見付からない。
嫌な想像ではあるが、Tさんはトイレの小窓から抜け出したに違いないだろう。
祖母はTさんの行方が不明であることを祖父に告げて、二人して急いで外に探しに出掛けた。

2015年2月12日木曜日

追憶 887

これは、Tさんの母であるKさんが話してくれたことである。
Tさんは180cm以上も身長がある大柄の男性であり、今ではとても想像ができないが、幼い頃から肉体的にも精神的にも弱い傾向にあったようだ。
幼少の頃から熱にうなされることが多く、その度に家族は心配していたそうだ。
これだけ聞くと大袈裟なように思えるだろうが、Tさんの場合は特別な事情があったようである。
Tさんが中学生の頃、熱にうなされて寝込んだことがあった。
季節は冬であったために、家族は風邪を疑っていた。
一向に下がる様子が無い熱を懸念していたが、一日中Tさんの看病をしている訳にもいかず、家族はそれぞれに自分自身の仕事を始めた。


2015年2月11日水曜日

追憶 886

わたしはこれまでの体験をTさんにできる限り詳細に話した。
頷(うなず)きによって、わたしの話がTさんに伝わっていることを理解した。
体験を伝えることは、そこから得る学びを伝えるためのプロローグである。
この体験を以て何を得られ、何を改善するべきなのか?ということが本章なのである。
そのために、わたしは大天使ミカエルを主とした守護者たちの話をできる限り明確に理解して、それをできる限り確実に伝えるのであった。
その中で、Tさんは自分自身の心の中に押し込めてあった様々な感情(のほんの一部であろうが)を吐き出してくれた。
それを聞いて、やはりTさんはわたしと似ていると思うのである。
そして、感情に加えて、これまでの人生において不可解であったことも話してくれた。

2015年2月10日火曜日

追憶 885

物事を正しく進めるためには、一つ一つの段階を確実に経ることが求められるだろう。
間を飛ばして作業を続けても、やり直すことになるのが落ちである。
そのことをわたしは経験の中で学んであるために、焦ることはない。
自分にできること、与えられたことをただ懸命にこなしていくだけである。
黒い岩のような価値観に対して、わたしは感謝の気持ちを覚えた。
破滅的な思考であり、未熟な価値観ではあるけれど、今までのTさんを助けてくれたことは事実である。
それがどのようなものであれ、感謝を忘れてはいけないのだ。
劣悪なものであれ、大切な学びを与えてくれたことには変わりないのである。
しかし、多くの人はこの事実を忘れている。
自分にとって利益になることばかりに目を奪われ、偽りの世界に生きるのである。
わたしが感謝の気持ちを伝えると、黒い岩のような価値観はその形を崩し、千の光となって天に帰った。

2015年2月9日月曜日

追憶 884

美しい光の軌跡を残して飛んだ光の十字架は、硬い音を立てて黒い岩のような破滅的な思考に突き刺さった。
すると、わたしは気持ちが悪くなって黒い煙のようなものをゲップで吐き出した。
黒い煙のようなものを何度か吐き出して気分の悪さが解消されると、後頭部の穴の中に手を伸ばし、黒い岩のようなものを掴んだ。
そして、それを力任せに引き抜いた。
簡単ではなかったが、何とか取り出すことに成功した。
簡単にいかなかったのは、これがTさんの頭の中で長い間蓄積された価値観であったからだ。
しかも、わたしが取り出したのは表面に見えているものだけであり、氷山の一角である。
しかし、今はこれで精一杯なのだ。
わたしの力と、Tさんに対する必要が結果となるのである。

2015年2月8日日曜日

追憶 883

先天的にせよ、後天的にせよ、Tさんの頭の中に破滅的な思考回路が存在していることは事実であると思える。
この考え方を改善することがなければ、前世や育った環境に文句を付けたところで何の効果も無いであろう。
瞼(まぶた)を閉じたわたしは、人差し指と中指がTさんの後頭部に伸びるのを見た。
そして、素早く二回円を描いた。
すると、Tさんの後頭部の空間が円形に切り取られる。
そして、その奥には黒い岩のような破滅的な思考を確認することができるのである。
次にわたしは、空中に指を走らせる。
すると、光の十字架が生まれた。
それを掴んで狙いを定め、黒い岩のような破滅的な思考に対して力一杯に投じた。

2015年2月7日土曜日

追憶 882

Tさんの頭の中には、破滅的な思考が存在していた。
それは、Tさんの価値観となり、生き方となった。
それは魂(魂のレベル(学びの段階)や前世の経験など)から来る先天的なものであっただろうし、教育や自身の認識から来る後天的なものであっただろう。
どちらにせよ、今の状態がどうであるのか?ということが重要である。
前世で苦しみがあったとか、どのような環境で育ったとか、そのようなことは問題の本質には成り得ないのである。
しかしながら、多くの人はここが重要だとか、原因だと考えている。
そのために、何にも問題は解決しないのである。
簡単に言えば過去のことはどうでも良く、大切なのは未来をどのようにして築くか?ということであろう。
未来を築くのは考え方であり、価値観であり、生き方である。
これを否定することのできる人はいないだろう。
誰もがこの方法で未来を築いているのだ。
Tさんの未来をより豊かなものにするためには、前世だ過去の経験だと昔のことを蒸し返したところで、あまり意味のないことなのである。

2015年2月6日金曜日

追憶 881

天使ガブリエルは「時が来るまであなたと共に在りましょう」と言い残すと、掌に舞い落ちた雪のようにその姿を消した。
わたしにはガブリエルの残した言葉の意味が分からなかったが、その時が来るまではわたしのところにいるのだろうと大まかに納得した。

気が付くと、わたしはTさんの大きな背中を眺めていた。
わたしはいつの間にかに戻って来たようである。
爽やかな気分と共に、強烈な倦怠感(けんたいかん)を得るのはいつものことである。
わたしは消耗を隠し切ることはできなかった。
しかしながら、ここで音を上げることはできない。
わたしにはまだやらなければならない重要な仕事がある。
それは、Tさんの頭の中に存在している大きな黒い岩のようなものを処理することである。
わたしはこれのためにガブリエルを解放したと言っても過言ではないだろう。

2015年2月5日木曜日

追憶 880

ガブリエルが、天使が人間と一つの存在だと言ったのは、共に学びの中にあるという意味も込められていたのではないだろうか?

それから、ガブリエルはTさんとの学びがここで終わりであることを告げた。
これからのTさんの人生にとって、ガブリエルの守護は必要がないということである。
しかしながら、それはネガティブな意味合いではないだろう。
これからは、自分自身の足で歩むことができるという判断から、そのように言ったのだと思う。
勿論、それは天使が独自に行う判断ではなく、真理に従った結果であるだろう。
ガブリエルは新雪のように美しい唇によってTさんに謝意を伝え、その役割を終えた。

2015年2月4日水曜日

追憶 879

天使にどれだけの力があろうとも、真理(人生の主体が人間であるという定義)に逆らうことはできないだろう。
すべての人間が自然の摂理には逆らうことができないようにである。
天使ガブリエルの話が真実とするならば、天使は人間のサポート役以上の仕事は担っていないということだ。
まぁ、Tさんが成長を実現するためには、自らが悪魔のような姿になろうとも苦しみ続けなければならない事情があったのだろう。
もしかすると、天使も未熟であり、その人格を高める段階にあるのではないかとも思えるのである。
人間は勿論未熟ではあるが、サポートが未熟であるが故に問題が生じるという場合もあるだろう。
これは天使であれど、因果の仕組みに支配されているということであろう。

2015年2月3日火曜日

追憶 878

大天使ミカエルがわたしをサポートしているのも、わたしに人生の目的を果たさせるためではないかと思える。
もちろん、天使の目的というものの方が彼らには重要に違いないが…
天使ガブリエルはTさんの心の闇を引き受けた。
その結果として自らが汚れ、悪魔の姿になったのだろう。
これは、人間が怒りや恐怖を抱えたまま死んだ時に、後に世間で言うところの「悪霊」になるのと同じことである。
ここで、天使ならば、心の闇を引き受けることなく、それを取り除けば良いという考えが浮かぶが、人生の主体が人間であるのならば、それは傲慢であると言えなくもない。

2015年2月2日月曜日

追憶 877

ガブリエルと名乗る天使は、Tさんの守護者である。
守護者であるガブリエルは、Tさんと心を共有している。
しかし、人生の主体はTさんであるために、ガブリエルは守りに徹しなければならない。
そのため、Tさんが生み出す様々な感情の処理を担うことになるのだ。
人間の魂は未熟である。
そのために間違った選択をすることの方が大半である。
間違った選択によって怒りや不安などの破滅的な感情が引き起こされ、心は汚れてしまうのである。
心が汚れ、歪んでしまうと、人は自らの人生の目的を果たすことができなくなってしまう。
それでは困るのである。
天使の仕事は守護対象である人間が人生の目的を果たすことにある。
そのために、天使は人間の汚れを引き受けるのである。

2015年2月1日日曜日

追憶 876

わたしは「生まれ変わり」というものを信じている。
生まれ変わりとは、輪廻転生(りんねてんしょう)のことである。
簡単に言えば、魂というものが死後の世界を経て、再び人間として生を受けるということだ。
わたしは人間というものが、魂の問題を解決するために人生に生まれるのではないかと思っている。
それは簡単に解決するようなものではないために、人生は苦悩に満ちている。
そして、その問題を解決するには人間の力というものは不足している。
そもそも、力不足であるから問題として存在しているのだ。
問題解決のサポート役として天使や霊などの守護者の存在があるとすれば、腑(ふ)に落ちないこともないのだ。