このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2021年2月28日日曜日

追憶 3065

桜は、春に花を咲かせるが、一年中ずっと春のような気候では花を咲かせることはないだろう。
それは、低温要求時間というものがあるからだ。
一定時間の低温に晒(さら)されなければ、桜は十分に開花しないのである。
夏の暑さと冬の寒さを経験することで花を咲かせることが出来るのではないだろうか?
厳しい環境に置かれなければ、花を咲かせることは出来ないのである。

2021年2月27日土曜日

追憶3064

霊的な生き方とは、“神”の意思に従って生きるということである。
“神”とは、宗教で奉(たてまつ)っているような歪んだ存在のことではない。
“神”とは、宿命のことである。
人には、それぞれの分際があり、人生には、果たさなければならない目的が存在するのだ。
植物の種子は、宿命によって分際を実現する。
梅の種子は梅の樹と成り、梅の花を咲かせる。
桜の種子は桜の樹と成り、桜の花を咲かせるのである。

2021年2月26日金曜日

追憶 3063

これでも、わたしは以前と比べて自我を弱めることが出来たと思う。
それは、15年程の歳月を霊的な生き方に費やしているからだ。
霊的な生き方を実践(じっせん)する前と比べると、嫌いなことや贔屓(ひいき)することは著(いちじる)しく減っている。
それに従(したが)って、対立や争いも減っているのである。
それは、自我が弱まり、“神”の意思を少しでも受け入れることが出来るようになったからであろう。

2021年2月25日木曜日

追憶 3062

わたしにも嫌いなものや贔屓(ひいき)にしてしまうものがある。
それは、自分の意思である自我に従(したが)って生きているということである。
世間では、これを“自分らしさ”と呼んでいる。
多くの人は、自分らしく生きようとしているが、それは自我を強めるということでもある。
自分らしく生きることは悪いことではないだろうが、偏見(へんけん)や誤解を強めてしまうために、対立や争いの多い人生になってしまうだろう。
愛を実践(じっせん)するためには、自我を弱めなければならないのである。

2021年2月24日水曜日

追憶 3061

多くの人は、見えているものが見えていない。
偏(かたよ)ることによって、そこに存在するものを見失っているのである。
しかしながら、見失っていることにも気が付かない。
大抵の人は、そのような状態なのである。
もちろん、わたしにも偏見がある。
嫌いなこともあるし、どうしても贔屓(ひいき)してしまう。
それは、大きな偏見ではなくても、小さくても所有していることには変わりないのである。

2021年2月23日火曜日

追憶 3060

悪魔や悪霊、悪人や悪事、苦しみを敵として対立しているのであれば、“神”の意思と共に生きることは出来ない。
“神”の意思と共に生きるためには、悪も大切に思う愛が必要なのである。
目の前の状況の都合の良い部分だけを手に入れようとするのは傲慢(ごうまん)であり、強欲である。
悪や都合の悪い部分を受け入れることで、傲慢や強欲を手放すことが出来るだろう。
傲慢や強欲に目が眩(くら)むと、見えるものも見えなくなってしまうのである。

2021年2月22日月曜日

追憶 3059

自分の意思に従(したが)って偏見(へんけん)に陥(おちい)り、誰かや何かを贔屓(ひいき)し、それと同時に誰かや何かを嫌い、愛の無い生き方をしているのであれば、真実を見極めることは出来ないだろう。
“神”とは、「すべて」である。
この世界には、何一つ“神”と無関係なものは存在しない。
宗教では、悪魔を“神”と対立させているが、悪魔も“神”の一部である。
悪人も悪事も苦しみも、すべてが“神”なのだ。
一切に分離はなく、“すべては一つ”なのである。

2021年2月21日日曜日

追憶 3058

嫌いなものも好きになれば、そこには愛が生まれるだろう。
愛とは、真実を見る力である。
都合の良い悪いで判断しなくなれば、真実を見極めることが出来るのである。
それは、この世界の真実であり、“神”の意思である。
わたし達は、“神”の意思と共に生きることが求められるだろう。
それは、自分の意思で生きることでは、人生の真実を生きることは出来ないからである。

2021年2月20日土曜日

追憶 3057

愛は、好きと嫌いの統合の先にある。
好きや嫌いという偏(かたよ)った感情を乗り越えたものが真(まこと)の愛であろう。
好きや嫌いと言っている内には、愛に至(いた)ることは出来ない。
多くの人は、好きの最高が愛だと考えているかも知れないが、それは誤解なのである。
それは、好きに偏れば、自ずと嫌いが生じてしまうからだ。
愛は、好き嫌いに関係なく包み込むようなものである。

2021年2月19日金曜日

追憶 3056

大きな喜びだけを取ろうとする者には、人を真(まこと)に愛することなど出来はしない。
宗教は好きではないが、キリスト教の結婚式の時に神父?牧師?は、“その健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬(うやま)い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?”という言葉と誓いを投げ掛ける。
結婚や愛を継続させるためには、健やかなる時や喜びの時や富める時だけではなく、病める時や悲しみの時や貧しい時も、その状況を受け入れる必要があると言っているのである。

2021年2月18日木曜日

追憶 3055

熱が冷めてしまえば、恋や欲によって施(ほどこ)されていたメッキが剥(は)がれる。
恋や欲に守られていなければ、相思相愛という喜びは、嫉妬(しっと)や憎しみといった苦しみに変わってしまう。
相思相愛という喜びを得たから、嫉妬や憎しみという苦しみを得たのである。
関係性の遠い他人とは、大きな喜びもない代わりに、大きな苦しみもない。
人を愛するということは、大きな喜びと大きな苦しみの両方を受け入れる覚悟を決めることである。

2021年2月17日水曜日

追憶 3054

相思相愛(そうしそうあい)は大抵の人が求める喜びである。
しかしながら、大きな喜びを手に入れたと同時に、大きな苦しみも手に入れなければならないのだ。
“宝物”を手に入れたら、それを失う恐れも手にしなければならない。
多くの人の愛情は、熱し易(やす)く冷め易い。
大抵の場合、人は、利己的に他者と繋がる。
恋や欲などの利己的な熱で繋がった関係も、様々な問題によって冷めていく。

2021年2月16日火曜日

追憶 3053

陰(かげ)のある所に光があり、光のある所に陰がある。
陰だけが存在することも、光だけが存在することも出来ない。
人生には、喜びだけを存在させることは出来ない。
苦しみだけを存在させることも出来ないのである。
例えば、他者と相思相愛(そうしそうあい)の状態に成れたとする。
それは、大きな喜びである。

2021年2月15日月曜日

追憶 3052

“神”は、喜びと同時に苦しみも造った。
この世界には、陰陽(いんよう)の仕組みが設けられているのである。
陰陽の仕組みとは、物事は相対的に成り立つというものである。
光だけが存在することは出来ないだろう。
この世界においては、何等かの物質が光を放っている。
物資とは陰(かげ)である。

2021年2月14日日曜日

追憶 3051

誰かのために願うことが出来る人も、目の前の苦しみを受け入れることは出来ない。
そこには、“神”への信仰(しんこう)は存在しないのである。
そして、穏やかな時には、“神”には見向きもしないだろう。
穏やかな時には“神”のことを忘れているのに、苦しい時にだけ思い出したように崇拝し始める。
それが、多くの人の信仰の形なのである。

2021年2月13日土曜日

追憶 3050

神社で願い事をしている人達は、自分のことしか考えていない。
誰かのために願ったとしても、結局は自分のためである。
それは、誰かが不幸であることは、自分にとって都合が悪いからだ。
多くの人は、自分が助かりたい一心で願うのである。
しかしながら、“神”は最善の状況を導いている。
その人にとって必要だから、その状況を導いているのである。

2021年2月12日金曜日

追憶 3049

しかしながら、苦しい時の“神”への崇拝(すうはい)は、“神”の意思を受け入れるという謙虚(けんきょ)なものではない。
本来の崇拝は、運命(目の前の状況)を神の意思として受け入れるというものだ。
人生に感謝することが、“神”への崇拝であると理解すれば良いだろう。
苦しむ者の崇拝は、自分が助かりたいからである。
“神”のことなど考えたこともなければ、思いやったこともないだろう。
それは、神社で願い事をしている人達と同じなのである。

2021年2月11日木曜日

追憶 3048

多くの人は、苦しみの中にいる時にだけ素直である。
しかし、苦しみが去れば、再び傲慢(ごうまん)な態度を取るようになる。
“苦しい時の神頼み”である。
多くの人は、苦しい時にだけ謙虚(けんきょ)を演じる。
反省したふりをするのだ。
普段は“神”を崇拝(すうはい)したことなどないのに、苦しい時にだけ崇拝する。

2021年2月10日水曜日

追憶 3047

彼の場合は、ポジティブな傲慢(ごうまん)さであるだろう。
優しそうに見えるが、簡単には受け入れない気の強さのような歪(ゆが)みを感じる。
不平不満を溜め込むタイプなのかも知れない。
天使や守護者からの伝言を伝えても、彼は受け入れないだろう。
腰痛で苦しんでいる時には話を聞くかも知れない。
しかしながら、苦しみが去れば、再び傲慢な態度を貫(つらぬ)くのではないだろうか?

2021年2月9日火曜日

追憶 3046

気が弱く、悲観的な人にも、自分の考えを変えない傲慢(ごうまん)さがある。
悲観的な人は、自主的に考えを改めない限りは、どれだけ説得を繰り返しても悲観的なままである。
自主的に考えを改めるまで説得を続けなければならないのだ。
傲慢さを抱えているために、簡単には考えを改めることはない。
ネガティブな傲慢さも、根が深いのである。

2021年2月8日月曜日

追憶 3045

恐らくは、すべての人が傲慢(ごうまん)さを身に付けている。
傲慢さには、ポジティブとネガティブがあるから分かり辛いが、すべての人が傲慢さを抱えているだろう。
気が弱いから謙虚(けんきょ)なのではない。
悲観的だから謙虚なのではない。
気が弱いことや悲観的なことを続ける傲慢さというものがあるのだ。
わたしは、多くの人から相談を受ける立場にある。
相談に対する返答は、個人的な意見ではなく、天使や相談者の守護者からの意見を伝えている。
的(まと)を得ていないわたしの個人的な意見を受け入れられないことは不思議ではないが、多くの人は、天使や守護者の的を得た意見であっても簡単には受け入れることをしない。

2021年2月7日日曜日

追憶 3044

自分が損をしても構わないと考えている人は、意地を張って争うことはない。
自分が損をしても構わないと考えている人は、相手に勝利を譲(ゆず)ることが出来るのである。
互いのことを思いやることが出来れば、問題が生じたとしても、協力することで解決することが出来るだろう。
しかしながら、譲ることもなく、意地を張って争うのであれば、問題は解決するどころか、更に大きなものになってしまうのである。

2021年2月6日土曜日

追憶 3043

損得勘定に捕らわれない人は、目の前の状況に対して冷静に対応することが出来る。
目の前の問題を誰かや何かのせいにすることはないだろう。
その原因を互いの中に探すのである。
損得勘定に捕らわれない人は、少なくとも“喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)”と思っているだろう。
もしくは、自分自身の中に原因を探し、思いやりを以(もっ)て対応するだろう。

2021年2月5日金曜日

追憶 3042

目の前の状況に対して、不平不満を吐くことも得や楽を選んだ結果である。
感情に任せる方が楽であるし、その方が得だと考えているのである。
クレーマーと呼ばれる人達は、苦情を申し立てることによって得をしようと考えているのだ。
それは、客という立場を利用したマウンティングから得られる優越感などの精神的な得であるかも知れないし、“お詫(わ)び”による物質的な得であるかも知れない。
どちらにしても、得や楽をするつもりがなければ、クレーマーになどならないのである。

2021年2月4日木曜日

追憶 3041

それが“普通”の考え方であろう。
普通は、都合の良いものを好み、都合の悪いものを嫌うのである。
多くの人が、そう生きている。
多くの人がそうしているので、疑問に思うこともないだろう。
疑問に思ったとしても、贅沢(ぜいたく)な暮らしを捨てることは出来ないのである。
多くの人は、少しでも得や楽を求めているのである。

2021年2月3日水曜日

追憶 3040

ゴータマは、贅沢(ぜいたく)な暮らしに反発するように苦行を行った。
彼は、王子の暮らしのカウンターとして、“ホームレス(修行僧)”の暮らしを経験したのである。
そして、苦行の果てに命を失いそうになって、苦行が進むべき道ではないと理解するのである。
豊かな暮らし(快楽)も、貧しい暮らし(苦行)も正しい道ではない。
道には、楽しみと苦しみの両方ともが必要であると理解したのである。
わたし達は、都合の良いものと悪いものを分けて考える。

2021年2月2日火曜日

追憶 3039

ゴータマにとって、王子としての暮らしは何の不自由のないものであったに違いない。
恐らくは、衣食住のすべてが最高の基準で満たされていただろう。
普通の感覚の人間であれば、何の不自由のない贅沢(ぜいたく)な暮らしに満足し、何の疑問も持たずに一生を過ごすかも知れない。
自らの立場や贅沢な暮らしに驕(おご)り、好き勝手に生きるだろう。
しかしながら、ゴータマは贅沢な暮らしに疑問を持った。
そして、妻子を残して、恐らくは、王族には許されていなかったであろう僧(そう)としての道を歩み始めたのである。

2021年2月1日月曜日

追憶 3038

目の前の現実は、あなたにとって多過ぎることも少な過ぎることもない必要である。
しかしながら、それを理解することは難しい。
どうしても、より良いものを求めてしまうからだ。
成長とは、過剰や不足を取り除き、プラスマイナスゼロの状態を得ることである。
プラスでも、マイナスでも成長ではない。
釈迦(しゃか)(ゴータマ)は、釈迦族の王子として生まれたと言われている。
彼は、王子として何不自由のない暮らしが与えられた。