光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2020年11月30日月曜日
追憶 2975
病に対して争っているのであれば、病が治ることはない。
自分が直らないのだから、病も治らないのである。
元々は、自分が不足したり、歪んだり、間違えているから病んだのである。
病は、人を助けるために与えられるのだ。
病を得るということは、決して不幸ではない。
寧(むし)ろ、喜ぶべきことなのである。
病を喜び、平和を実現すれば、病を所有する必要はないのである。
2020年11月29日日曜日
追憶 2974
病は、人の身体や心を痛めるが、人格は磨かれる。
病によって最終的に得られるのは、人格の成長なのである。
残念ながら、多くの人はそのことに気が付かない。
なぜなら、病に対して否定的な考えを持っているからだ。
多くの人は、病を喜ばないし、病に対して平和を実現することもない。
多くの人は、病を嫌うし、病に対して争ってしまうのである。
それが“普通”なのである。
2020年11月28日土曜日
追憶 2973
病を問題や苦しみだと思わないことが悟りなのである。
悟りを得ると、病が問題や苦しみでないことが分かるのだ。
そうなれば、病を心配することもなければ、不安に思うこともなく、憤慨(ふんがい)することもなければ、悲しみの果てに絶望することもないだろう。
悟りを得た人は、病に対して感謝と平和を実現するのである。
2020年11月27日金曜日
追憶 2972
愛さない方に傾(かたむ)いたのであれば、愛する方にバランスを取らなければならないのだ。
そして、最終的には、愛することも愛さないこともなくなることが求められているのである。
愛することも愛さないこともなくなれば、そこには喜びと平和が訪(おとず)れる。
病に対して喜び、そこに平和を実現するのであれば、病が問題であることも、苦しみであることもなくなるのである。
2020年11月26日木曜日
追憶 2971
彼は、自らの抱えている腰痛を愛さなかった。
それは、家族も一緒である。
彼等は、彼の腰痛を愛さなかったから、わたしを訪(たず)ねたのである。
わたしに、彼の腰痛を何とかして欲しいと思いやって来たのだ。
愛さないのであれば、愛するように仕向けられる。
愛することのない者は、愛することを学ばなければならないのだ。
彼は、腰痛を愛さなければならない。
腰痛を愛さなければ、腰痛は治らないのである。
2020年11月25日水曜日
追憶 2970
すべての人は、悟りを得るまで苦しみ続けなければならないだろう。
愛したり、愛さなかったりを繰り返し、苦しまなければならないのである。
愛することも、愛さないことも傲慢(ごうまん)である。
元々は一つのものを、自分の都合で二つに分断しているのだから傲慢なのである。
多くの人は、病を愛さない。
それは、健康を愛しているからである。
健康を愛しているから、病を愛さないのである。
2020年11月24日火曜日
追憶 2969
愛したり、愛さなかったりすることを繰り返すことで、人は、いつか真(まこと)の喜びに気が付き、平和を実現することが出来る。
都合の良いことと悪いことを合わせなければ、真の喜びは得られないということを知らなければならないのである。
愛すること(味方)と愛さないこと(敵)を一つにすることが平和なのだ。
それに気が付いた時に悟りを得るのである。
2020年11月23日月曜日
追憶 2968
悟りを得るためには、すべてを一つに統合しなければならない。
すべてを一つに統合するためには、すべてと繋がらなければならないだろう。
すべてとは、すべての感情のことである。
わたし達は、様々な経験を通じて自らの内に様々な感情を発見する。
わたし達は、外に内を見るのだ。
すべての感情を発見するためには、自分が想像するよりも多種多様な経験をしなければならないだろう。
そして、発見した感情を認識し、理解するまでは、それを何度も繰り返し経験しなければならないのだ。
2020年11月22日日曜日
追憶 2967
恐らくは、平和の先には“悟り”が存在する。
悟りとは、“すべては一つ”という究極の理(ことわり)に至(いた)ることである。
悟りの状態に至ると、区別は無くなるのではないだろうか?
すべてを一つとして捕らえることが悟りであるからだ。
すべての人は、悟りを目指しているように思える。
わたし達は皆、悟りを得るために人生を経験しているのであろう。
2020年11月21日土曜日
追憶 2966
愛の土壌(どじょう)に実るのは、喜びや平和などであろう。
世の中には、様々な段階の喜びや平和が存在するが、真(まこと)の喜びや平和というものは、愛を基礎(きそ)として成り立つのである。
愛の無い喜びは喜びではないし、愛の無い平和は平和ではないのだ。
真の喜びには、陰陽(いんよう)の区別は薄くなっているのではないだろうか?
良きと悪しきの区別なく喜べることが、真の喜びである。
平和は、喜びにも増して陰陽の区別が薄くなっているように思える。
それは、善悪の隔(へだ)たりを取り除いたところに平和が存在するからである。
2020年11月20日金曜日
追憶 2965
愛には矛盾(むじゅん)が存在する。
愛には、陰と陽の二つの側面が存在しているのである。
愛することも愛であるし、愛さないこともまた愛である。
しかしながら、愛は至高(しこう)の価値観ではないということを理解する必要があるだろう。
恐らく、愛とは、土壌(どじょう)のようなものであるだろう。
それが痩(や)せていたら作物は実らないが、肥(こ)えていれば作物は豊かに実るのである。
2020年11月19日木曜日
追憶 2964
愛することを謳(うた)う宗教こそが、争いの歴史を持っている。
今日(こんにち)の平和(に見える)な世の中であっても、他の宗教や宗派を否定しては争っているのである。
それは、愛することを教えているから、意図(いと)せずに、同時に愛さないことも教えなければならないのだ。
愛していると口にする恋人同士は争っている。
愛することが無ければ、争うことも無いであろう。
愛するからこそ、愛さないのである。
2020年11月18日水曜日
追憶 2963
宗教などでは、愛することが最も価値のある行為のように吹聴(ふいちょう)している。
愛することすら出来ない多くの人にとって、それはとても魅力的な教えのように思うだろう。
愛することが出来ない者は、愛することが出来る方が良いのかも知れない。
段階的にしか進むことが出来ないのであれば、愛することを学ぶ必要があるだろう。
しかしながら、愛するためには、愛さない必要がある。
愛することを学べば、愛することの矛盾(むじゅん)に気が付くことになるだろう。
2020年11月16日月曜日
追憶 2962
それは、気にしないということである。
相手との様々な違いを気にしないということは、愛することよりも上等な手段のように思えるのだ。
人は、自分自身に対しても、自分以外の存在に対しても、様々な確執(かくしつ)を抱える。
それは、違いを気にしているからであろう。
多くの人は、一方を愛して他方を愛さないのである。
それでは、確執が生じることは当然の結果なのだ。
2020年11月15日日曜日
追憶 2961
愛することは良いことのように思うが、愛するためには、愛さないという対比(たいひ)が必要である。
この世界においては、何かを成り立たせるためには、釣り合いを取る必要があるのだ。
愛さないという対象があるからこそ愛することが出来るのである。
愛することだけでは、愛することに気が付くことは出来ないのだ。
愛さないという行為があるからこそ、愛するという行為が成り立つのである。
仲間としての関係性が成り立つのは、敵が存在するからである。
敵が存在しなければ、無関心という行為を選択するのではないだろうか?
2020年11月14日土曜日
追憶 2960
しかしながら、多くの人は当然のように物事の善し悪しを判断している。
そして、その判断に従って喜んだり、悲しんだり、愛し合ったり、争ったりしているのだ。
愛することは傲慢(ごうまん)である。
しかしながら、多くの人はそのことを理解することが出来ないであろう。
なぜなら、多くの人は、愛することを尊(とうと)い行為だと信じているからである。
2020年11月13日金曜日
追憶 2959
傲慢(ごうまん)な者は善悪を判断する。
理解することが難しいかも知れないが、善悪を判断することが傲慢なのである。
なぜなら、それは、目の前の状況や、人生や“神”を否定する行為であるからだ。
残念ながら、すべての人は知らない。
すべての人は、無知なのである。
自分が何か?ということも分からない者に、どうして物事の善し悪しを判断することが出来るだろう?
本来ならば、判断すること自体が出来ないはずなのである。
2020年11月12日木曜日
追憶 2958
“良いもの”を悪いものとして認識し、思考するのであれば、破滅的な感情に至(いた)るのは当たり前のことである。
多くの人は、破滅的な感情を生きているのだ。
破滅的な感情とは、感謝することが出来ない考え方のことだと理解すれば良いだろう。
多くの人は、目の前に導かれる状況に対して感謝することが出来ない。
それは、目の前の状況に対して、善悪を判断しているからである。
2020年11月11日水曜日
追憶 2957
目の前に導かれる“良いもの”によって、わたし達の浅はかな思考は否定される。
すべての人が、人生に挫折(ざせつ)や絶望を経験しているだろう。
人生は、決して思い通りにはならない。
人生が思い通りになってはおかしいのである。
残念ながら、人には、目の前の“良いもの”を良いものとして認識する力はない。
大抵の人は、目の前の“良いもの”を悪いものとして認識し、思考してしまう。
それが、“普通”なのである。
2020年11月10日火曜日
追憶 2956
悪いものがこれ程までに導かれるというのは考え難(にく)い。
人生を深く考察すると、良いものだけが導かれているのである。
もちろん、自分の都合で考えてはならない。
都合で考えてしまうと、視野が著(いちじる)しく狭まってしまうからだ。
目の前に導かれるものの中には、何一つ無駄や無意味なものは存在しない。
すべてに価値があり、意味があるということを理解することが出来る。
若い頃には分からなかったことも、経験を重ねると分かってくるものだ。
以前のわたしは、目の前に悪いものが導かれると思っていたが、残念ながら、そのようなことはなかった。
目の前には、良いものだけが導かれていたのである。
2020年11月9日月曜日
追憶 2955
人生には問題が導かれ続ける。
一つの問題を解決すれば、しばらくして別の問題が導かれるのである。
どのような人物も、問題を避けることは出来ないし、導かれた問題をそのままにしておくことも出来ない。
人は、強制的に問題と向き合わなければならないのである。
人生における問題とは、“神”からの贈り物であるということを理解しなければならないだろう。
問題は、決して悪いものではないのだ。
2020年11月8日日曜日
追憶 2954
人間は、“神”の道具のようなものであろう。
誤解してはならないが、“神”は道具を人間のように粗雑(そざつ)に扱うことは決してない。
“神”は、道具を大切に扱い、使い易いように育てるのである。
新品の道具は、残念ながら良い道具とは言えないだろう。
それは、手に馴染(なじ)まないからである。
道具は、手に馴染むまで大切に鍛(きた)えられる。
それは、使い手の要求に応えられるまで続くのである。
2020年11月7日土曜日
追憶 2953
その調整こそが、目の前の問題なのである。
目の前の問題は、多くの人が忘れている大切なものを思い出させる。
それは、貢献(こうけん)するということだ。
人は、誰かや何かに対して貢献するために調整される。
曲がったものを真っ直ぐにするためには、叩(たた)かなければならない。
あなたは、曲がった物に対しては、叩くか反対方向に曲げるだろう。
曲げる方はそれを最善と思うが、曲げられる方はそれを苦しみと思うのである。
2020年11月6日金曜日
追憶 2952
すべての人は、貢献(こうけん)のために生まれる。
誰一人として、自分勝手に生まれることはないのである。
人は、誰かや何かのために生まれるのだ。
しかしながら、そのことを覚えている人は少ない。
大抵の人は、恐れや欲に負けて、自分のために生きるようになる。
それが傲慢(ごうまん)であるということなのだ。
自分のために生きても、人生の目的である貢献を果たすことは出来ない。
貢献することが出来なければ、それが出来るように調整されるのである。
2020年11月5日木曜日
追憶 2951
宿命が命ずるのは、誰かや何かのためにである。
決して、自分自身(あなた)のために命ずることはないのである。
宿命は、自分自身にとっては都合の悪いことを命ずる。
しかしながら、それは、誰かや何かにとっては都合の良いことなのだ。
あなたは、自分自身のために既存(きぞん)を否定することは出来ないが、誰かや何かのためであれば、既存を否定することが許されるのである。
2020年11月4日水曜日
追憶 2950
ただし、宿命に従って生きるというのは、既存(きぞん)のものをそのまま受け入れるということではない。
宿命が変化を命じるのであれば、既存を前向きに否定しなければならないのである。
自分のために生きる時には、不平不満を選択してしまうだろう。
しかしながら、宿命に従って生きる時には、改善点に対して不平不満を選択することはないのだ。
宿命に従って生きる時には、問題を前向きに改善しようとするため、不平不満を吐かずに建設的な選択が行えるのである。
2020年11月3日火曜日
追憶 2949
真(まこと)を生きなければ、真を得ることは出来ない。
偽りを生きるのであれば、偽りを得なければならないのである。
残念ながら、多くの人は偽りの自分を生きている。
傲慢(ごうまん)である時点で、それは真ではないのだ。
真とは、宿命に従って生きることである。
目の前の問題に不平不満を吐いているのであれば、宿命に逆らって生きているということなのである。
2020年11月2日月曜日
追憶 2948
残念ながら、多くの人は、真(まこと)の幸福を手に入れられないということを知らない。
多くの人は、理想を実現すれば、真の幸福を手に入れることが出来ると信じているだろう。
しかしながら、傲慢(ごうまん)に生きて、理想を実現したとしても、真の幸福を手に入れることは出来ないのである。
なぜなら、前提(ぜんてい)として、どのような理想も実現することは出来ないというのもあるが、
傲慢に生きるということは、真を生きられないということだからである。
2020年11月1日日曜日
追憶 2947
傲慢(ごうまん)によって手に入れられるのは、本質的“以外”の価値である。
残念ながら、傲慢によっては、本質的な価値を手に入れることは出来ないのだ。
傲慢によって何をどれだけ手に入れたとしても、真(まこと)の幸福(魂の充足)だけは手に入れることが出来ないのである。
貪欲(どんよく)に追い求めても、本当に手に入れたいものが手に入れられないというのは皮肉(ひにく)であるだろう。
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