光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2020年6月30日火曜日
追憶 2823
多くの人が、勝者に憧れているのだ。
例えば、世間では、戦国武将を持ち上げているが、彼等のやったことは言葉は悪いが争いと人殺しである。
恐らくは、人を殺したいと思って殺していた訳ではないとは思う。
天下を取りたいという野望を持つ者が多数派で、人を殺したいという者は少数派であったのではないだろうか?
仲間や家族を守るという大義のために戦って(戦わせて)いた者もいるかも知れない。
戦国の人達は、様々な思惑(おもわく)によって戦ったのであろう。
2020年6月29日月曜日
追憶 2822
多くの人は、例えば、快楽や欲望を貪(むさぼ)ること、自己顕示欲(じこけんじよく)や承認欲求(しょうにんよっきゅう)を満たすこと、見栄を張って優越感に浸(ひた)ることなどを人生の豊かさだと思っているだろう。
そのようなことを豊かさだと思っている人には敵が存在し、争いが常である。
快楽や欲望を貪るためには、争いの果てに敵を倒さなければならない。
敵を倒さなければ、分け合わなければならず、貪ることは出来ないからだ。
自己顕示欲や承認欲求を満たすためにも、争いの果てに敵を倒さなければならないだろう。
敵を倒すことによって自らの力を誇示(こじ)し、仲間や敵に自らの力を認めさせるのである。
見栄を張り、優越感に浸ることにも、かつては敵であった敗者が必要なのである。
2020年6月28日日曜日
追憶 2821
人の世では、金持ちが憧れの対象となっている。
それは、戦後の物質的に貧しい時代の価値観が今だに引き摺(ず)られているのが強いとは思うが、人間の本能が貧しさを否定するためであろう。
多くの人は、貧しさを嫌う。
ひもじい思いや惨(みじ)めな思いはしたくないのである。
多くの人は、豊かに快適に暮らしたいのだ。
それは、素晴らしいことであるが、豊かさや快適さの価値観の基準がお金にあることは、豊かさや快適さの価値観を狭めてしまうことになるだろう。
2020年6月27日土曜日
追憶 2820
人が世の中のやり方に従って“当たり前”に生きれば、先述(せんじゅつ)したような意識の段階を経ることになるだろう。
世の中のやり方に従って生きれば、人は歪み、汚れてしまうのである。
多くの人は、歪んで汚れた状態を立派だと考え、一人前として認める。
人の世では、多くを集めた者が賞賛(しょうさん)される。
少なく持つ者よりも、多く持つ者の方が優れているという考えが蔓延(はびこ)っているのだ。
2020年6月26日金曜日
追憶 2819
人は、意識の段階を生きている。
人によって、経験している意識の段階は異なるのだ。
意識の段階は、人の一般的な興味の傾向と考えれば良いだろう。
例えば、幼い頃は本能に従って生きる。
少年(少女)と成れば、他者に従って生きる。
青年と成れば、性に目覚め、様々な欲望に翻弄(ほんろう)される。
壮年(そうねん)と成れば、見栄や自尊心に促(うなが)され、贅沢や快楽を覚える。
初老と成れば、強欲に引き摺(ず)られる。
中年と成れば、傲慢(ごうまん)に陥(おちい)る。
熟年と成れば、強情が極まる。
高年と成れば、自分勝手に振る舞う。
老年と成れば、くたびれて、意欲を失う。
2020年6月25日木曜日
追憶 2818
合理的に発展するということは、傲慢(ごうまん)さが高まるということでもあるだろう。
科学やお金に対する信仰は、“神”に反しているように思える。
もちろん、科学やお金に対する追求は、最終的には“神”に対する追求に他ならないが、その段階の信仰にある人達は、“神”の調和には従わないように思える。
信仰が途中という感覚とでも言えば良いのだろうか?
それは、思春期の子どもが親に反抗するような感覚なのである。
2020年6月24日水曜日
追憶 2817
古代シュメール程の高度に発展した文明であれば、良い方法を見付けたかも知れない。
しかしながら、現存していないということは、ポジティブかネガティブかは分からないが、結果的には自然環境との折り合いは付かなかったのであろう。
意識的、精神的に解釈するのであれば、文明の発展に従って傲慢(ごうまん)さが高まり、“神”をも恐れない態度を取るようになったということであろう。
文明が発展すると、“普通”は合理的になっていくものなのではないだろうか?
科学が信仰の対象になり、“神”への信仰は薄れる。
古代の文明は、ピラミッドや前方後円墳を建設することが出来た優れた文明である。
古代バビロニアがどの程度の文明であったかは分からないが、“神”の怒りを買う程であるから、現代よりも合理的に発展していた可能性もあるだろう。
2020年6月23日火曜日
追憶 2816
古代シュメール文明においては、太陽系の惑星の数や特徴(とくちょう)が分かっていたようである。
古代シュメールの粘土板によると、現代文明が1781年、1846年、1930年に発見した天王星、海王星、冥王星の存在が、その特徴と共に記されている。
五千年以上前に存在したとされる文明には、そのようなことが分かっていたのである。
古代シュメール文明がどのような末路を辿ったかは、誰にもわからない。
しかしながら、そのように発展した文明でさえ、現存してはいないのである。
2020年6月22日月曜日
追憶 2815
バベルの塔とは、旧約聖書の創世記に登場する物語である。
古代バビロニアの王であるニムロドが主導して、天にまで届くような塔を建設しようとして神の怒りを買い、それまでは同じ言語を話していたが言葉が通じなくなってしまい、バビロニアを解散して世界各地に散り散りになるという物語である。
バベルの塔には、様々な解釈が存在するだろう。
物理的に解釈すれば、古代バビロニアの人達が実際に塔を建てたのかどうかは分からないが、現状の人類が宇宙に進出することと同じような解釈で良いのではないかと思える。
2020年6月21日日曜日
追憶 2814
傲慢(ごうまん)な人間は、多くの財産を得ることを心の支えとしている。
経済を信仰している傲慢な人たちは”成長”を旗印(はたじるし)にして躍進(やくしん)を続ける。
景気の後退をマイナス成長という言い方をする程である。
その言い回しには、プライドのような傲慢さが透けて見える。
彼等は、より甚(はなは)だしい状態を夢見ているのである。
それは、まるで旧約聖書の中でバベルの塔を建設したバビロニアやニムロドと重なって見えてしまう。
2020年6月20日土曜日
追憶 2813
霊的に成熟していれば、霊的なものを集めようとするだろう。
それは、愛情や思いやりや、感謝の気持ちや信頼などである。
お金による繋がりによっては、愛情や思いやりや、感謝の気持ちや信頼などは得られない。
お金のために、そのようなものが存在すると見せ掛けるのである。
お金では、形の無い価値を買うことは出来ないのだ。
形の無い価値こそが、霊的に価値のあるものと理解すれば良いだろう。
霊的に成熟すれば、形として現れているものよりも、形として現れていないものに価値を置くようになる。
それは、認識が成熟するからである。
2020年6月19日金曜日
追憶 2812
意地汚く強欲で、互いに奪い合って争い、自然環境を破壊する人間は、あてがわれた玩具(がんぐ)を壊してしまった子どものようなものであるだろう。
未熟である子どもは、玩具を大切に扱うことが出来ない。
大切に扱うことが出来ないために壊してしまうのである。
彼等は霊的に未熟であると理解する必要があるだろう。
霊的に未熟であるために、多くの物質を求めるのだ。
物質によって武装することで、人生という砦(とりで)を守ろうとしているのである。
それは、彼等にとっての心の支えであるからだ。
2020年6月18日木曜日
追憶 2811
答えは分からないが、恐らくは、純粋な心に従うのが最善であるだろう。
純粋な心とは、意地悪く強欲なことではない。
互いに許(ゆる)し合い、認め合い、愛し合う状態が、純粋な心の状態であるように思える。
“神”は、現状を許しているが、これが結論ということではないだろう。
より愛情深く成長して欲しいと願っているのではないだろうか?
わたし達も、子どもを見た時に、現状がどれだけ未熟であってもそれを許し、認め、愛する。
それと同じことをしてくれているのではないかと思うのである。
2020年6月17日水曜日
追憶 2810
人が“神”に仕えているのであれば、世の中はより調和しているのではないだろうか?
人類の歴史は、調律の狂った楽器のように不調和で満たされている。
どこにでも争いは存在し、美しいことはないように思える。
しかしながら、それは人間的な視点であり、偏見(へんけん)と誤解であるのかも知れない。
“神”が人類の歴史を許(ゆる)しているということは、“神”の視点で見れば、それが美しいということなのかも知れないのである。
2020年6月16日火曜日
追憶 2809
人の思い付くことは、“神”ではない。
人は、“神”を思い付くことが出来ないのである。
人生における純粋な動機というものは、人が思い付くことではない。
人が考えたり、思い付いたものは、人生における純粋な動機には成り得ないということなのである。
人が思い付くことは、不純なものであると理解しなければならないだろう。
大抵の人間は、利己的にしか考えないし、利己的なことしか思い付かない。
それは、大抵の人間は未熟であり、未熟であるが故(ゆえ)に、“神”ではなく、お金や悪魔に仕(つか)えているからだ。
2020年6月15日月曜日
追憶 2808
純粋な動機は、“神”だけである。
ただし、“神”というのはどのような宗教のことでもない。
“神”とは、この世界を創造した、この世界そのもののことであるだろう。
人間が認識することが出来るような存在のことではない。
“神”は、人間には想像もつかないような存在である。
言葉などでは定義することすら出来ないだろう。
“神”とは、最大であり最小である。
“神”とは、始まりであり終わりなのである。
2020年6月14日日曜日
追憶 2807
大切なのは、誠実であることだ。
誠実であることが、自力(本来の力)を発揮するための条件である。
金持ちであろうが、貧困者であろうが、誠実であれば良い。
しかしながら、金持ちや貧困者は環境によって歪んでしまう。
そのような環境では、誠実を保つことが難しいのである。
お金のために生きるという動機も、お金を批判(ひはん)する生き方も不純であるだろう。
2020年6月13日土曜日
追憶 2806
金持ちの方が性格上や立場上、傲慢(ごうまん)に陥り易いのである。
それは、意欲があり、権力を得るからだ。
貧困者は、例えば、劣等感によって歪(ゆが)む。
一方で金持ちは、優越感によって歪んでいるのである。
劣等感と優越感を比べると、劣等感の方が謙虚(けんきょ)さに近いだろう。
優越感は、傲慢に近いのである。
劣等感も優越感も、誠実には程遠いが、謙虚さに近い劣等感の方が誠実には近いだろう。
2020年6月12日金曜日
追憶 2805
より誠実なものが評価されるような世の中ではない。
この世は悪魔に任せられていて、その指示に従う者がより多くのものを手に入れるのである。
悪魔の指示とは、より自分勝手に、より傲慢(ごうまん)に生きることである。
より傲慢に生きた褒美(ほうび)が、この世の富だと思うのだ。
より多くを手に入れるためには、悪魔と契約(けいやく)し、より強く、より厚かましく、より傲慢にならなければならない。
金持ち程人格者という考えは誤解であるだろう。
もちろん、貧しい者が人格者であるということもない。
金持ちでも貧しくても、傲慢な者は傲慢である。
2020年6月11日木曜日
追憶 2804
多くの人は、優位な立場を欲する。
多くの人は、より良い地位や多くの財産を欲する。
それ等を手に入れるためには、狡猾(こうかつ)に振る舞わなければならない。
ルールを守って仲良くしていると、抜きん出ることが出来ないのだ。
同じことをしていては、同じ結果を得るだけである。
誠実に生きている人は、より良い地位や多くの財産を手に入れることは出来ないのである。
2020年6月10日水曜日
追憶 2803
自力を発揮しても、この世で優位な立場を得ることが出来るとは限らない。
例えば、イエスは誰よりも自力を発揮した人物であろうが、財産を持たずに生きて、最期は処刑されてしまったのである。
世の中の多くの人が恐れる人生を生きたのが、誰よりも自力を発揮したイエスなのだ。
世の中は、自力を発揮させないような構造になっているのではないかと思ってしまう。
自力を発揮しようとすると、この世では劣位な立場を得てしまうことの方が多いように思える。
2020年6月9日火曜日
追憶 2802
多くの人は、自力を知らない。
多くの人は、自分の本来の力を知らないのである。
それは、様々な要因によって、自分勝手に生きなければならないからだ。
自力で生きている人は少数派であるだろう。
“自分が何か?”、“人生が何か?”も分からないのである。
自力とは、自分が本来以(もっ)て生まれた力のことである。
それは、自分勝手に振る舞うことでは扱うことが出来ないものなのである。
2020年6月8日月曜日
追憶 2801
傲慢(ごうまん)な人間には、そのことが理解出来ない。
自力とは、自分独りの力だと思い込んでいるのである。
それは、傲慢だからそのような発想になるのだ。
自力は、自分独りの自分勝手な力のことではない。
互いに協力することによって生み出される力こそが自力なのである。
自力以外の存在と協力することによって、自分の本来の力が引き出されるのである。
本来の力とは、傲慢によってもたらされる破滅的な力のことではない。
本来の力とは、思いやりによってもたらされる建設的な力のことなのだ。
2020年6月7日日曜日
追憶 2800
善良な人間や霊的な存在は、自力を育てることを手助けしてくれる。
邪悪な人間や霊的な存在は、自力を奪おうとしているのである。
自然環境を破壊すれば、人間は自力では生存することが出来ない。
敵を作って争っても同じことである。
自力とは、自分勝手に振る舞う力のことではない。
自力とは、自分以外の存在と協力する力のことなのである。
2020年6月6日土曜日
追憶 2799
善良な人間や霊的な存在は、人を励(はげ)ます。
時には、強く導くこともある。
その声は力強く冷静であり、ドライな印象を受ける。
一見すると冷淡(れいたん)に思える程に粛々(しゅくしゅく)とした言葉を投げ掛けてくる。
恐らくは、多くの人は取っ付き難(にく)いと感じてしまうのではないだろうか?
彼等の目的は自立である。
一方、邪悪な人間や霊的な存在は、人を陥(おとしい)れようとする。
時に強く叱(しか)ることがある。
その声は囁(ささや)くようだが感情的であり、粘着質な印象を受ける。
一見すると親しみ易(やす)く、魅力的な言葉を投げ掛けてくる。
恐らくは、多くの人には好印象に思えるのではないだろうか?
彼等の目的は依存(いそん)である。
2020年6月5日金曜日
追憶 2798
傲慢(ごうまん)に肥え太った者には、善良な人間や天使などの善良な霊的な存在の声は聞こえない。
傲慢な者は、邪悪な人間や悪魔などの邪悪な霊的な存在の声を聞く。
傲慢な者は、邪悪な人間や霊的な存在の声を聞き、それを理解することは出来ても、善良な人間や霊的な存在の声を聞き、それを理解することは出来ない。
善良な人間や霊的な存在の声を聞き、それを理解することが出来なければ、人生の目的を果たすことは出来ないだろう。
2020年6月4日木曜日
追憶 2797
自然災害や人生における様々な問題は、肥大(ひだい)した傲慢(ごうまん)を削ぎ落とし、小さくするためのものである。
大きいままでは、天国の扉を通ることは出来ないのだ。
わたしは、死後に苦しんでいる人を何人も知っている。
彼等の死後の状態を見ていると、可哀相(かわいそう)に思う。
しかしながら、彼等は、自分でその道を選んだのだ。
わたしは彼等と知り合いであったが、彼等に天使からの言葉を伝える機会は無かった。
彼等には、それを聞く機会も与えられはしなかったのであろう。
2020年6月3日水曜日
追憶 2796
“神”への信仰を失い、お金や欲望を信仰して自分勝手に生き、自然環境や他者を傷付けるような者には、天国の扉は閉ざされるのである。
イエスは、“金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が簡単”と述(の)べたと記されている。
“神”への信仰を失い、傲慢(ごうまん)を増長させた者は、天国に招き入れられることはないのだ。
そのように肥大(ひだい)して汚れた者は、天国には相応しくないのである。
天国に入ることが許(ゆる)されるのは、この世で小さな者だけである。
天国の扉は、針の穴程に小さいものだと理解しなければならないだろう。
2020年6月2日火曜日
追憶 2795
お金に余裕があれば、暮らしに余裕が生まれる。
お金に余裕があれば、好きなだけ肉体的な欲求を満たすことが出来る。
お金で買えるのは、本質以外の詰まらないものだけだ。
お金では、天国へのチケットを手に入れることは出来ないのである。
全財産を注ぎ込んでも無駄である。
天国では、物質になど価値が無いからだ。
本質的で、愛のある生き方をしていなければ、天国に入場することは出来ないのだ。
それは、天国の住人は、本質的で愛のある人でなければならないからである。
2020年6月1日月曜日
追憶 2794
中国の武漢の病院では、新型コロナウイルスに感染した多くの人達が押し寄せた。
中には、札束を抱えて診察をせがむ男性もいたが、結局、彼は診察を受けることが出来ずに、廊下で札束をばら撒いたまま亡くなってしまった。
死が間近に迫る時、多くの人はお金に救いが無いことを理解する。
彼は、恐らくはお金持ちの部類であったに違いない。
恐らくは、お金を価値基準に置いていたであろう。
そのため、死の間際になってもお金に縋(すが)り、お金で命を買おうとしたのだろう。
しかしながら、死が間近に迫った時に、お金が救いにならないことを理解し、絶望の中で死んだのではないだろうか?
お金で救われる命もあるが、その時にお金に感謝することは少ないのではないだろうか?
お金よりも、命が助かったことを“神”に感謝するのではないかと思うのである。
死を間近にした時には、お金に対する信仰は薄れてしまうのではないだろうか?
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