このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2019年9月30日月曜日

追憶 2549

この世では、傲慢(ごうまん)が美徳とされている。
いつの世にも、傲慢な者が幅を利かせているのである。
この世で成功を収めたければ、傲慢さに付き従(したが)えば良いだろう。
傲慢に身を委(ゆだ)ねれば、欲しいものは何でも手に入るだろう。
しかしながら、傲慢によって得られるもののリストの中に本質は存在しない。
傲慢に従えば、本質以外のものなら何でも手に入れることが出来るのである。



2019年9月29日日曜日

追憶 2548

人は、学びを得るために生きている。
人が自らの傲慢(ごうまん)さによって苦しむのは、それが学びだからである。
病も、大切な学びであるということを理解しなければならないのだ。
学びは避けられない。
どのような方法を用いても、人は学びの中に存在するのだ。
人は、どのような状況においても、学ばなければならないのである。
学びの目的は、謙虚(けんきょ)さを身に付けるためである。
すべての人は、謙虚さを身に付けなければならないのだ。

2019年9月28日土曜日

追憶 2547

傲慢(ごうまん)を手放すことは、認めることであり、受け入れることであり、許(ゆる)すことであり、愛することであり、喜ぶことであるだろう。
理想とは異なる目の前の現状を認め、受け入れ、許し、愛し、喜ぶことが出来れば、傲慢を手放すことが出来るだろう。
多くの人にはそれが出来ない。
多くの人は、現状を否定し、理想を追い求めるのである。
それが正しいことだと信じているのだろう。
しかしながら、現状を否定することは最善ではないと思える。
なぜなら、現状を否定すれば、現状から得られる大切な学びを放棄(ほうき)することになってしまうからである。

2019年9月27日金曜日

追憶 2546

傲慢(ごうまん)を手放すことは、あなたが想像するよりも遥(はる)かに難しいことである。
その証拠(しょうこ)に、大抵の人は傲慢を手放そうともしていないのだ。
多くの人は、自分を正当化する。
多くの人は、自分が間違っているとしても、自分が正しいと思いたいのである。
多くの人は、自分を美化している。
実際よりも良く見せようとするのだ。
多くの人は見栄を張る。
多くの人は、誇張(こちょう)するのである。
それは、傲慢の現れなのだ。



2019年9月26日木曜日

追憶 2545

理想を手放す時、傲慢(ごうまん)を手放すことが出来る。
理想の実現を掲(かか)げている内は、人生に最善が実現することはないであろう。
現状をあるがままに受け入れることが出来なければ、最善が実現することはないのである。
病は理想とは掛け離れた状態である。
大抵の人は病を嫌っているのだ。
しかしながら、訳あって病は存在している。
無意味に病が訪(おとず)れることはないのである。

2019年9月25日水曜日

追憶 2544

残念ながら、理想は最善ではない。
なぜなら、すべての人が未熟であるからだ。
未熟者の理想が最善であるはずがないのである。
理想とは幻想である。
そして、それは誤解なのだ。
どちらかと言えば、理想は実現しない方が良い。
未熟者の誤解である理想が実現すれば、世界には多くの問題が引き起こされてしまうからである。

2019年9月24日火曜日

追憶 2543

多くの人は理想を追い求める。
世間では、それが良いことだと認識されているだろう。
それは、この世には傲慢(ごうまん)な人が多いからである。
理想を追い求めることは傲慢である。
しかしながら、多くの人はそうは思わないだろう。
それは、正義を振りかざすことが良いことだと信じているエゴイストと同じである。
多くの人にとって、理想を実現することは良いことであり、それは幸福のために必要不可欠なことである。
理想を実現することが幸福を実現することだと信じているのだ。



2019年9月23日月曜日

追憶 2542

傲慢(ごうまん)に従(したが)うということは、与えられた能力を拒(こば)むということである。
人は、自らの能力を生かさなければならない。
与えられた能力によって、どのような状況を得るかは分からないが、それを拒むことは本当の人生を拒むことになるのである。
自然とは、そのままの自分ということだ。
能力に従う条件として、傲慢は手放さなければならない。
それは、理想を手放すということなのである。

2019年9月22日日曜日

追憶 2541

すべての人には、最高の能力が与えられている。
しかしながら、それに気が付いていないのである。
多くの人は、大空を飛べるにも関わらず、小さな鳥籠(とりかご)の中で与えられる餌(えさ)に満足し、空しく歌っているのである。
多くの人は、能力を封(ふう)じられていることに気が付かない。
しかも、多くの人は、自らに与えられた能力に目覚めることを恐れているのである。
長く鳥籠の中にいれば、衰(おとろ)えた翼で空を自由に飛ぶことは出来ないかも知れない。
何よりも、外には危険が待ち構えている。
鳥籠の中にいれば餌に不自由することはないし、安全は確保される。
翼を手放せば、平和と安心が手に入るのである。
そして、偽りの幸福で自らを慰(なぐさ)め続けていれば、波のように押し寄せる空しさを忘れることが出来る。
そうやって一生を終えることが出来れば良いと考えるのである。

2019年9月21日土曜日

追憶 2540

最高の贈り物を受け取っても、中身を見なければ受け取ったことにはならないだろう。
多くの人が人生に空しさを感じるのは、最高の贈り物である自らの能力を理解してはいないからだ。
鳥は、空を行くために翼を与えられた。
鳥にとって翼は、最高の能力であり、最高の贈り物なのである。
鳥籠(とりかご)の中で一生を終える鳥は、空しさを感じるのではないだろうか?
それを幸福だと思う鳥もいるかも知れないが、籠を開けていれば大抵の鳥は飛び立って行くだろう。
それは、鳥が自らの能力を選んだということなのである。

2019年9月20日金曜日

追憶 2539

残念ながら、多くの人は、”神”からの贈り物の中身を見ずに生涯を終える。
多くの人は、自分という存在の能力や役割を理解することなく死を迎えるのだ。
多くの人は、人生に対して空しさを覚えるだろう。
残念ながら、満足のいく人生を生きることの出来る人は少ない。
多くの人が、人生に不満を抱かなければならないのである。
多くの人にとって、人生は空しい。
それが”普通”なのである。

2019年9月19日木曜日

追憶 2538

自分という存在に何が出来るかは分からない。
しかしながら、何かを果たすために生まれて来ているのである。
自分を身体だと思い、傲慢(ごうまん)に振る舞っている内は、自分という存在が何によって世界に貢献(こうけん)することが出来るかを知ることは出来ないだろう。
大切なのは、身体から離れて、自分という存在と向き合うことである。
自分という存在の能力や役割というものは、自分という存在と向き合わなければ理解することは出来ないのだ。
身体が重なっていると、包装されている贈り物のように、大切な中身が見えないのである。

2019年9月18日水曜日

追憶 2537

歳を重ねると、身体は言うことを聞かなくなってしまう。
そこで、多くの人は漸(ようや)く自分が身体でなかったことに気が付くのである。
そこからが、本当の人生であるだろう。
人は、自分が身体でないことを理解して初めて、本当の人生に向き合うことが出来るのである。
年老いてまで、身体のために人生を捧げてはならない。
これは、身体ではなく、自分の人生であることを理解しなければならないのだ。
そして、身体ではない自分という存在が、この世界に貢献(こうけん)することが出来るようにしなければならないのである。

2019年9月17日火曜日

追憶 2536

人は、成長するに従って、自分を放棄(ほうき)しなければならないだろう。
自分のことに夢中なのは、幼い子どもだけなのである。
生まれた後は自分を気にする。
物心がつけば他者を気にする。
思春期に至(いた)れば異性を気にする。
社会に出れば世間を気にする。
成熟すれば、人生を気にするのである。
成長するに従って、自分を中心とする利己から離れていくことが自然であるだろう。

2019年9月16日月曜日

追憶 2535

身体は、老化によって機能が衰(おとろ)える。
すべての人には、いつか身体を労(いたわ)らなければならない時が来る。
これは自然の成り行きであるが、身体は、いつまでも治癒力を維持することが出来ない。
人は、いつまでも、自分勝手に生きることは出来ないのである。
自分勝手に生きることが出来るのは、子どもの時だけであるということを理解しなければならないだろう。
成長するに従(したが)って、人は利他的(りたてき)に生きなければならないのである。
身体は、治癒力を弱めることによって、精神を突き放す。
それは、身体が精神を自立させようとしているのである。

2019年9月15日日曜日

追憶 2534

身体が若い時には、治癒力に優れている。
子どもが親に頼るように、体調管理は身体に頼っていれば良いだろう。
しかしながら、身体が老いてくれば、体調管理を身体に任せておく訳にはいかない。
親が老いれば、次第に子どもの面倒を見ることが出来なくなってくる。
同じように、身体もあなたの面倒を見ることが出来なくなってしまうのである。
わたし達は、身体が老いるに従って、身体の面倒を見なければならない。
それは、子が親の面倒を見ることと同じことであるだろう。

2019年9月14日土曜日

追憶 2533

子どもが、いつまでも親に頼りきっているのであれば、いつまでも子どものままであろう。
子どもは、親に頼ることが当たり前である。
子どもは、親に頼れば良いと思う。
しかしながら、いつまでも親を頼っていれば、子どもという意識状態からは抜け出すことが出来ないのである。
わたし達は、変化、成長していかなければならないだろう。
そのためには、当たり前を当たり前とする価値観や考えを手放さなければならない。
わたし達は、当たり前が当たり前ではないことを理解しなければならないのである。

2019年9月13日金曜日

追憶 2532

飲み食いせずに働いてくれる身体があるだろうか?
睡眠を与えずに働き続けられる身体はないだろう。
身体は、食事や睡眠のために働く。
食事や睡眠という見返りがあるからこそ、身体は懸命に働いてくれるのである。
そのことを理解しなければならないだろう。
それは、当たり前であり、改めて認識することは難しい。
しかしながら、当たり前が当たり前ではないことを認識しなければならないのである。
当たり前を当たり前と思っているのであれば、その状態を抜け出すことは出来ないだろう。
それは、停滞を受け入れるということなのである。

2019年9月12日木曜日

追憶 2531

勝手に調整しているからといって、蔑(ないがし)ろにして良いというものではない。
蔑ろにすることによって、働きは弱まり、やがては働かなくなってしまうからだ。
感謝の気持ちもなく、厚かましい態度の者のために努力したり協力しようとする者はいないだろう。
多くのものを欲することはなくても、感謝の気持ちくらいは欲しているのである。
見返りもなく努力や協力を行う人はいない。
見返りが無ければ、努力や協力を行うことは出来ないのだ。
この世界は、取引によって成り立っている。
見返りが無ければ、努力や協力をしようと思っても出来ないのである。

2019年9月11日水曜日

追憶 2530

被災地から帰ると、当たり前の生活がどれ程満たされていたものであったのかを理解することが出来る。
当たり前は、当たり前には存在しない。
多くの人の努力や協力によって、当たり前を支えているのである。
身体が健康であることは、決して当たり前のことではない。
身体の内側では、自然治癒力や様々な細菌や微生物が働き続けているのである。
多くの人は、身体を自分だと思い込み、自分勝手に扱っているが、自分自身の意識では何もしていないのが現実であるだろう。
身体は、自分自身の意思に反して、勝手に調整してくれているのである。

2019年9月10日火曜日

追憶 2529

わたし達は、満たされていることが当たり前となっている。
不足している状態に陥(おちい)ることは滅多(めった)にないであろう。
今日(こんにち)の日本では、豪雨や地震による自然災害が目立っているように思う。
災害によって命を失ったり、住む場所や生活を失う人も多い。
わたしもボランティアで被災地に出向いたことがあるが、そこでは、当たり前が当たり前ではなかった。
電気も水道も使えないのが当たり前なのである。
便利に慣れてしまった現代人にとって、それは大変な状況なのである。

2019年9月9日月曜日

追憶 2528

当たり前を当たり前と誤解すれば、自動車が目的地へと辿り着くことは出来ないだろう。
メンテナンスを怠(おこた)れば、故障や事故などの問題によって、停滞しなければならないのである。

日本で暮らすわたし達の生活はとても便利なものとなった。
不足していることは何も無いと思える。
贅沢(ぜいたく)を追求すればきりがないかも知れないが、生きていくための不足というものは存在しないだろう。
わたし達の生活は、生きていくための不足が存在しない状態が当たり前となったのである。

2019年9月8日日曜日

追憶 2527

病の苦しみが存在しなければ、健康の喜びが存在することを知ることは出来ないだろう。
病を体験したことのない者には、健康の有難さを理解することは出来ないのである。
健康は、多くの人にとっては当たり前のことである。
そのため、健康の有難さを理解している人は少ない。
多くの人は、健康の有難さを理解することなく、利己的な生き方を選択してしまうのである。
当たり前という安定した状態というものは、当たり前には存在しない。
例えば、自動車が安全に目的地へと辿り着くためには、日頃のメンテナンスが必要であり、重要なのである。

2019年9月7日土曜日

追憶 2526

苦しみを苦しいと感じるのは、喜びが存在するからである。
暑さがなければ寒さを感じることは出来ないだろう。
夜空の闇が存在しなければ、星々の繊細(せんさい)な瞬(またた)きを見ることは出来ないのである。
逆を考えれば、喜びが存在するからこそ苦しみが存在すると言えるだろう。
苦しみと喜びは共に存在するということを理解しなければならないだろう。
星空の美しさを喜ぶためには、夜の闇を迎えなければならないのである。



2019年9月6日金曜日

追憶 2525

苦しみこそが人を動かす。
やる気が無くても、苦しければ動かなければならないだろう。
苦しみは心強い味方であり、追い風のようなものなのである。
追い風は原動力と成り得る。
しかしながら、それを上手く扱わなければ足止めを食らうことにもなり兼(か)ねないのだ。
残念ながら、多くの人は、苦しみを敵や足枷(あしかせ)のように扱っている。
それを上手く利用しようとは考えず、否定を続けているのである。

2019年9月5日木曜日

追憶 2524

人は、いつまでもその場に立ち止まっている訳にはいかない。
いつかは、その苦しみに耐(た)えられなくなってしまうのである。
一歩を踏み出すということは、悔い改めるということだ。
人は、後悔しなければ、これまでの考え方や生き方を捨てることは出来ないであろう。
苦しみ悔やむまでは、そこを立ち去ることは出来ないのである。
苦しみは、決してわたし達の敵では無い。
後悔は、わたし達の足枷(あしかせ)では無いのである。

2019年9月4日水曜日

追憶 2523

苦しみは、人を強制的に歩かせる。
苦しみが存在しなければ、歩かない人が多いのだ。
例えば、部屋の中に閉じ籠(こも)り、他者に触れないことは快適である。
部屋の中で独りでいれば、嫌なことを言われることも無いし、傷付けられることも無い。
嫌なことを言うことも無いし、人を傷付けることも無いのである。
それは、とても気楽であり、心地好い空間なのだ。
しかしながら、それも初めの内だけである。
しばらくすると、孤独や自己批判や自己憐憫(じこれんびん)などに襲われる。
それは、耐(た)え難い苦しみなのである。

2019年9月3日火曜日

追憶 2522

この世界には、退屈から逃れる方法がたくさん用意されている。
その一つが病なのである。
人が退屈から逃れるためには、苦しみの手助けを必要とする。
苦しみは、人を退屈にはさせない。
苦しみの中で退屈を感じている人は、恐らくはいないだろう。
誰もが、苦しみの中で忙(せわ)しなく考え、忙しなく行動しているのではないだろうか?
絶望感を味わっていたとしても、退屈には陥(おちい)っていないのである。

2019年9月2日月曜日

追憶 2521

この世界には、多くの問題が存在している。
すべてが問題と言っても過言ではないだろう。
この世界は、問題が存在してこそ自然である。
問題が存在しなければ、この世界には価値が無い。
なぜなら、わたし達は、問題を経験するために生まれたからだ。
天国には、恐らく問題は存在しないだろう。
天国に問題が存在するのならば、それは退屈(たいくつ)だけなのではないだろうか?
わたし達は、退屈から逃れるために生まれるのである。

2019年9月1日日曜日

追憶 2520

病は、人生を楽しくするための演出なのである。
悪役が一人もおらず、何の問題も起きない映画は、それを観ている人は退屈で眠ってしまうだろう。
わたし達は、皆”天国”からやって来たが、それは天国が退屈であったからではないだろうか?
天国には、恐らく悪人はいない。
そして、恐らくは何の問題もないであろう。
すべてが満たされているのが天国なのではないだろうか?
それは、とても素晴らしいことのように思うが、もしも、満たされていることが最善であるのならば、わたし達はわざわざこの問題だらけの世界には生まれて来ないだろう。