このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2021年4月30日金曜日

追憶 3126

“神”は、宿命によってわたし達を運ぶ。
わたし達は、宿命の流れの中にいるのである。
宿命の流れが存在するのは、人生には果たさなければならない目的が存在するからだ。
宿命は“神”の力なので、わたし達にとっては他力である。
猿や猫の親が子を運ぶように、わたし達も宿命によって運ばれる。
しかしながら、わたし達は、猫のように他力に依存し、宿命に流されるだけでは目的地には辿り着けない。

2021年4月29日木曜日

追憶 3125

わたし達は“神”を親に持ち、その庇護(ひご)を受けている。
“神”は、わたし達を愛し、守っている。
親が子どもに最善を与えるように、“神”はわたし達に最善を与えてくれる。
親が、我が儘(まま)な子どもの言う通りにするだろうか?
あなたが親であれば、どのような選択が子にとって視野の広いものであるか?ということは、子ども自身よりも分かるだろう。
その子よりも視野の狭い選択肢を与える親はいないのである。

2021年4月28日水曜日

追憶 3124

わたし達は、自分が何か?ということも知らない“何か”である。
そして、人生の目的も知らないだろう。
自分が何か?ということを知らなければ、自分が何をするべきか?ということも知らないのである。
子どもは、親の庇護(ひご)を受けることを当然のことだと思っているだろう。
大抵の子どもは、親の庇護を受けているという意識すら持たない。
子どもにとっては、親の庇護を受けるのは当たり前のことなのである。

2021年4月27日火曜日

追憶 3123

子は親に運ばれる。
猫も猿も人間も、親に運ばれなければ生きられない。
子猫のように親に頼りきるのが他力である。
小猿のように親にしがみ付くのが自力である。
しかしながら、どちらも親に運ばれていることには変わりがない。
わたし達人間も、“神”(宿命)に導かれているのは間違いないだろう。
しかしながら、そのことを忘れてしまうのである。

2021年4月26日月曜日

追憶 3122

人間は、“神”の子である。
“神”の庇護(ひご)がなければ生きられないのだ。
しかしながら、人間は親である“神”を軽んじる。
子は、親に庇護されることを当然のことのように思い、感謝することもない。
親が子に感謝してもらう必要も、子が親に感謝する必要もないとは思うが、感謝の気持ちを知らずに育つことは最善ではないだろう。
感謝の気持ちを知らずに育った子どもは、いつまでも子どものままである。
それは、感謝の気持ちを知らずに育った子どもは、傲慢(ごうまん)さも一緒に育ってしまうからである。

2021年4月25日日曜日

追憶 3121

人生が思い通りにならないのは、宿命という“流れ”が存在しているからだ。
宿命の流れを無視して生きることの出来る人はいない。
それは、小猿や子猫が親を無視して生きることが出来ないようにである。
小猿や子猫は、親がいなければ死んでしまう。
親が安全な場所に運び、適切に世話をするからこそ生きていられるのである。
子が生存していられるのは、親の庇護(ひご)のおかげなのだ。

2021年4月24日土曜日

追憶 3120

わたし達は皆、“神”の子である。
すべての人は、宿命という流れの中に存在し、それに逆らうことは出来ない。
傲慢(ごうまん)な人は、宿命に逆らい人生を切り開くことが出来ると思い込んでいるかも知れないが、避けられないことは避けられないのである。
人生を思い通りに生きられる人はいない。
誰もが、思い通りにならない人生を生きているのである。

2021年4月23日金曜日

追憶3119

強欲で傲慢(ごうまん)な人は、自分が正しいと思っている。
強欲で傲慢な人は、人生を自分で切り開くものだと考えているのである。
人生を自分で切り開こうとする姿勢は素晴らしいが、宿命が存在する以上それは不可能なことである。
もちろん、誰かや何かに頼り切って努力もせずに生きろということではない。
ヒンドゥー教の寓話(ぐうわ)に、自力と他力についてのものがある。
自力とは、猿の子が母の胸にしがみ付くことであり、他力とは、猫の子が母に咥(くわ)えられることという話だ。

2021年4月22日木曜日

追憶 3118

祖母と父親が良い人である理由は、前世におけるネガティブなカルマが少なかったことと、様々な苦労を経験することによって心が磨かれたからではないだろうか?
そして、人生(“神”)の意図(いと)をある程度正しく学習することが出来ているからではないかと思う。
恐らく、人生をある程度正しく生きていると、汚れや歪(ゆが)みが取れて善人に近付くのではないだろうか?
正しく生きるというのは、宿命に従(したが)って生きるということである。

2021年4月21日水曜日

追憶 3117

しかしながら、わたしの父親は、自分の都合を後回しにして他人(困っている人)を優先するような人物である。
父親の性格は、祖母譲りであるだろう。
彼等は所謂(いわゆる)“良い人”である。
特に祖母は、悪意の欠片(かけら)もない聖人のような人物であった。
わたしにはそのような良いお手本がいたのに歪んでしまった。
わたしの弱さが主な原因ではあるが、今になって思うのは、周囲の人達の汚れを肩代わりしていたことも影響していたのではないかと思う。

2021年4月20日火曜日

追憶 3116

霊的な感覚が芽生える前は、都合の良いように生きたいと願っていた。
わたしは利己的に生きていたのである。
人は、誰もが自己の利益を求めるものだと思っていた。
当時は、それが“普通”だと思い込んでいたのである。
世の中を見渡しても、利己的に生きている人が多い。
多くの人が、都合の良いように生きているのである。

2021年4月19日月曜日

追憶 3115

やはり人生というのは映画みたいなもので、生まれ変わりとは、物語や配役が変わっているに過ぎない。
今回は、自分という役を演じているだけである。
わたしは今回、“松岡 真”を演じているのだ。
自分という役が、金持ちだろうと貧乏だろうと、健康だろうと病気だろうと、人に囲まれていようと孤独だろうと構わないのである。
その役でしか学べないことがあるのだ。
その役を演じている時は、その役から学べることを学べば良いのである。

2021年4月18日日曜日

追憶 3114

わたしは前世で人に殺されたこともあるし、恐らくは殺したこともある。
様々な立場を経験すると、相手の立場を考えることも出来るようになる。
幾つかの前世を思い出したわたしは、今とは異なる立場のこともあったのだから、現状に対して不平不満を吐くことはない。
誰かを羨(うらや)ましく思うことも、嫉妬(しっと)することもないのだ。
様々な立場の人を見ても、“その立場を学んでいるのだな”と思うだけである。

2021年4月17日土曜日

追憶 3113

傲慢(ごうまん)な人は、人生を思い通りに生きようと考えるだろう。
我が思う儘(まま)に生きようとして、不平不満や心配に陥(おち)いる。
傲慢に躓(つまず)く人は、人生が一度きりだとしか考えられないだろう。
人生が一度きりだと考えているから傲慢でいられるのである。
わたしは、様々な人物として、様々な時代の様々な人生を生きた。
有り余る富と権力を与えられたこともあったし、貧しさと空腹を与えられたこともあった。

2021年4月16日金曜日

追憶 3112

他に、東南アジアのどこかのスラムの薄汚れて痩せた少女だったこともある。
他に、地中海の辺りで正しい教えを解いた反逆者だったこともある。
他に、恐らくトロイ人の兵士で、寝込みを襲われて死んだこともある。
北欧の切り立った山々に囲まれた湖畔(こはん)で穏やかに暮らしたこともある。
仏教?の僧侶(そうりょ)だったこともある。
思い出せない前世もたくさんあるだろうが、様々な人生を思い出すと、今回の人生もその中の一つに過ぎないと思えるのだ。

2021年4月15日木曜日

追憶 3111

他に、今の中国のある場所のどこかの王族だったこともある。
当時のわたしは美しい黒髪を腰まで伸ばした容姿端麗(ようしたんれい)の男で、様々な刺繍(ししゅう)が施(ほどこ)された白い光沢のある服を着て、贅沢(ぜいたく)に暮らした。
他に、恐らくは古代ローマの兵士だったこともある。
当時のわたしは白い麻布のような服に革のサンダルのようなものを履(は)いて、闘技場のような場所で大きな剣を持って闘ったが、相手に胸を突かれて絶命した。

2021年4月14日水曜日

追憶 3110

わたしは、多くの人と同じように自由を求めていた。
当時のわたしにとっては、死よりも自由の方に価値があった。
わたしは鎖(くさり)で手足を繋がれていたが、隙(すき)を見て海に飛び降りた。
その先には死が待っていたが、不自由よりは良いと考えたのであろう。
黒人男性であった頃のわたしは、誇(ほこ)り高く死んだのである。

2021年4月13日火曜日

追憶 3109

わたしは、霊的な体験を通じて、様々な前世の記憶と向き合ったことがある。
それが前世の記憶だと証明することは出来ないが、わたしの性格や興味関心や体験と照らし合わせると納得のいくものなのである。
ある人生でわたしは、恐らく現在のブラジルのある辺りの場所から連れ去られた黒人男性であった。
わたしは、奴隷(どれい)として、多くの人と共に大きな船に乗せられていたのである。

2021年4月12日月曜日

追憶 3108

一度きりの、何も残らないことのために、わざわざこの世界を築くだろうか?
あなたがこの世界の創造者だとして、そのような無駄なことのために世界や人を生み出すだろうか?
目的が明確である程に、計画は緻密(ちみつ)なものになる。
目的が崇高(すうこう)である程、より複雑な機構(きこう)が必要となるだろう。
人生には緻密な計画が存在し、この世界には複雑な機構が備わっている。
人生が一度きりのものであるということは有り得ないことなのである。

2021年4月11日日曜日

追憶 3107

わたしの感情が人生に対して弱くなっていったのは、幾つかの前世について思い出したことも要因であるだろう。
前世とは、以前の人生のことである。
人は、様々な人生を経験している。
人は死ねば何も残らないとか、人生は最初で最後だとか言う人がいるが、冷静に考えてそのようなことはないだろう。
一度きりの人生のために、この広大で複雑な世界が築かれたと思うのだろうか?

2021年4月10日土曜日

追憶 3106

以前は、わたしも多くの人と同じように、人生に対して現実的な感覚があった。
人生のみが現実だと思っていたのである。
それは、人生以外の現実を知らなかったからだ。
以前のわたしには、人生だけが現実であった。
しかしながら、霊的な感覚が目覚めてからは、人生に対する感情は小さくなっていったのである。
わたしの興味は次第に人生から離れ、霊的な世界に向けられることになった。
そのため、多くの人のように人生に対して感情的になることはない。
人生がこうでなければならないというような理想や傲慢(ごうまん)さは少ないのである。

2021年4月9日金曜日

追憶 3105

わたしにとっては、人生も夢も映画も現実であり、幻想である。
わたしには、霊的な視野と肉体的な視野がある。
どちらも現実的であり、幻想的であるが、わたしにとっては霊的な世界の方が現実的に思える。
わたしの中では、人生に対するよりも、霊的な世界に対する感情の方が勝っているのだ。
わたしは人生に対して、多くの人のように感情移入が出来ないのである。

2021年4月8日木曜日

追憶 3104

恐らく、多くの人は、人生を現実だと思っているだろう。
客観視しなければ、人生に対して大半の感情を注ぎ込むことになるから、人生を唯一の現実世界だと思ってしまうのである。
そのような人には、人生だけが生きる範囲になってしまう。
それは、映画マトリックスで幻想を見ながら眠っている多くの人達のようなものなのである。
映画の中のマトリックスの世界は、それを見ている者にとっては現実的ではあるが、彼等の現実とは程遠い世界であった。
マトリックスは映画という作られた世界観ではあるが、それが幻想であるとは限らないだろう。

2021年4月7日水曜日

追憶 3103

残念ながら、人生は現実ではないだろう。
現実的ではあるが、幻想なのである。
夢と映画と人生に違いはあるだろうか?
違うと思っているのは、感情移入の量の差に過ぎないのではないだろうか?
感情の量が多い世界観を現実だと思い込んでいるだけである。
わたし達が体験しているものは幻想であり、“胡蝶(こちょう)の夢”のようなものであるだろう。

2021年4月6日火曜日

追憶 3102

小説や映画に対しては、善悪を受け入れることが出来る人も、人生に対しては受け入れることが出来ない。
それは、小説や映画は他人事であり、人生は自分の事だからであろう。
小説や映画に対しては客観的にいられる人も、人生に対しては主観的にしか考えられないのである。
それは、小説や映画は幻想だと思っているが、人生は現実だと思い込んでいるからであろう。

2021年4月5日月曜日

追憶 3101

都合の悪い状況に対して、不平不満を吐いている人には、その状況がもたらす今後の意味や価値が見えてはいない。
都合の悪い相手を敵にして争っている人も同じである。
良いことも悪いことも、本来ならば一つに繋がっている。
小説や映画などには主人公が存在する。
そして、主人公にとっては都合の悪い状況や人物も存在するのである。
しかしながら、それを鑑賞(かんしょう)する人は、何の疑問もなく受け入れている。
それは、都合の悪い状況や人物が登場しなければ、物語が成り立たないことを知っているからである。

2021年4月4日日曜日

追憶 3100

天使や守護者は、“すべては一つ”だと教えてくれる。
何一つ分離してはいないと教えてくれるのである。
分離しているように見えているのは、繋がりを理解することが出来ない未熟さのためなのである。
残念ながら、わたし達は、盲目的(もうもくてき)に生きている。
何かが見えているように思っている傲慢(ごうまん)な人は多いが、そのような人程見えてはいないだろう。

2021年4月3日土曜日

追憶 3099

どのような状況においても、天使や守護者が敵を作り争えとは言わない。
今までに数え切れない程の天使や守護者に会って来たが、一人としてそのようには言わなかった。
天使や守護者には、敵という概念(がいねん)がないようにも思える。
彼等は、助けることしか考えていないし、そのようにしか行わないのである。
天使や守護者は、悪魔や悪霊や悪人を助けようとはしても、敵として争うことはない。
これは、15年以上の間、天使や守護者と一緒に“仕事”をしてきたわたしの経験から導き出す答えである。

2021年4月2日金曜日

追憶 3098

残念ながら、それに答えられる人は少ない。
わたしは10年以上、多くの人に聞いたが、その問いに自信を以(もっ)て答えられる人はいなかった。
“分からない”というのが多くの人の答えである。
わたしを含(ふく)め、多くの人は真に到達してはいない。
天使や守護者は、わたし達が真に到達していないから問い掛けるのであろう。
それは、わたし達を真へ到達させるための問い掛けなのである。

2021年4月1日木曜日

追憶 3097

本質とは、真(まこと)のことだ。
真とは、正体のことである。
真の時間や教育、視野や経験、余裕や健康、夢や希望、友人や家族を得ている人は少ない。
多くの人が、常識的に正しいとされている時間や教育、視野や経験、余裕や健康、夢や希望、友人や家族を目指したり、それを得ている。
霊的な仕事をする時、天使や守護者が必ず投げ掛ける質問がある。
それは、“人生とは何か?”、“自分とは何か?”という質問である。