光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2020年12月31日木曜日
追憶 3006
それは、目の前に導かれる状況がどのようなものであれ最善であるからだ。
最善に対して不平不満を吐くことは間違っている。
都合で考えるのであれば、最善を理解することは出来ない。
頭や心では、人生の意図(いと)は読み解けないのだ。
多くの人は、頭や心を信じて、自分の都合を生きている。
自分の都合で生きているから、思い通りにならない人生に対して苦しみを抱えなければならないのである。
2020年12月30日水曜日
追憶 3005
苦しみを抱えている霊は多い。
彼等は、生前の問題である心の汚れや歪みを、死後に直しているのである。
美しく磨かれるまでは、先へ進むことは出来ない。
不平不満などの歪んだ感情を抱えているから、霊になってまで苦しまなければならないのだ。
人生に対して、誰かや何かに対して不平不満を抱くことは間違っている。
2020年12月29日火曜日
追憶 3004
歳を取ると、心が美しく磨かれるのが自然である。
人は、死に向かう程に美しく成るのである。
そして、美しい心で死に至(いた)り、天国(中間生)に帰る。
美しい心でなければ、天国に入ることは出来ない。
心が汚れた状態であれば、成仏することが出来ないのである。
心が汚れた状態で死に至った人は、霊の状態で苦しまなければならない。
霊の状態で苦しむことによって、汚れを取り除くのである。
2020年12月28日月曜日
追憶 3003
心を美しく保つことが出来れば、病などの問題に苦しむこともないだろう。
それは、心が美しくあれば、不平不満などの歪んだ感情を選択することがないからだ。
歪んだ感情を選択しなければ、苦しむことはないのである。
目の前の問題を喜ぶことが出来れば、苦しむ必要はない。
苦しみに蹟(つまず)かず、豊かに生きるためには、健(すこ)やかで美しい心が必要であるだろう。
人生経験を積んでいくと、この仕組みに気が付くことが出来る人も増えてくる。
2020年12月27日日曜日
追憶 3002
弱く汚れた心が病などの問題を引き起こす。
そして、病などの問題が、結果的に弱く汚れた心を直すのである。
人の世から病が消えることはないだろう。
それは、人の心はいつの時代も弱く汚れているからである。
世の中から病を一つ取り除いても、新たな病が生じてしまう。
人類の歴史は、病の歴史とも言えるだろう。
病を解決するためには、心を美しく保たなければならないのである。
2020年12月26日土曜日
追憶 3001
本心をいちいち曝(さら)け出していては、人間関係というものは円滑(えんかつ)に回らない。
それは、すべての人が自尊心やら弱みやら、傷付く心を抱えているからである。
偽りで保護しなければ、簡単に怒りや悲しみを抱えてしまうのだ。
偽りで保護しなければならない程に、人の心は弱いのである。
わたしには、この世では、弱く汚れた心が互いを慰(なぐさ)め合っているように見える。
強く美しい心も存在するだろうが、世の中には圧倒的に弱く汚れた心が多いように思えるのだ。
2020年12月25日金曜日
追憶 3000
相手に喜んでもらうためや稼(かせ)ぐためには、頑張って笑顔を見せなければならないし、様々な気遣(きづか)いをしなければならないだろう。
ぶっきらぼうな態度で気遣いもしなければ、大抵の相手は喜ばないし、取引をしようとは思わないだろう。
大抵の人は、印象の良い、偽る努力をする方と取引を成立させるのである。
世の中を上手に渡るためには、本性を隠さなければならないだろう。
2020年12月24日木曜日
追憶 2999
人間は、苦しい時に本性(ほんしょう)を現すだろう。
穏やかな時の姿というのは、偽りの姿なのである。
穏やかな時には、誰もが思いやりのある優しい人格を演じることが出来る。
大抵の人は、思いやりのある優しい人格を演じながら他者との調和を保っている。
世の中には、偽りが溢れているのである。
例えば、経済というものは、基本的に偽りを抜きにしては成り立たないだろう。
お金を稼ぐためには、偽らなければならないのである。
2020年12月23日水曜日
追憶 2998
汚れていることを知って初めて、掃除することが出来るのである。
心が汚れていることを教えるのが問題の役割であり、苦しみの仕事なのだ。
人は、問題によって自らの心の状態を知るのである。
問題が無ければ、沈殿(ちんでん)している泥に気が付かずに、水が澄んでいるから美しいと思い込んでしまうのである。
問題こそが、人に自分自身のありのままの姿を教えてくれるだろう。
問題を前にした時に、その人の本質が見えるのである。
2020年12月22日火曜日
追憶 2997
汚れを取り除くためには、汚れていることを認識しなければならない。
澄んでいるからといって、その水が美しい訳ではない。
水は澄んでいたとしても、泥(どろ)が沈殿(ちんでん)しているのであれば泥水なのである。
大切なのは、心の中には様々な破滅的な感情が潜在しているということを知ることだ。
あなたは決して、自らの心が美しいなどと考えてはならない。
美しく見える心も、揺さぶられると濁(にご)ってしまうのである。
2020年12月21日月曜日
追憶 2996
病があろうがなかろうが、破滅的な感情は潜在しているのである。
澄んでいるように見える水溜りも、足を踏み入れると泥水に変わってしまう。
多くの人は、平常時には穏やかな心持ちでいられるが、病などの問題が生じた時には穏やかな心を保つことは出来ない。
多くの人は、問題が生じた時には心を乱し、苦しんでしまうのである。
破滅的な感情は、どのような人物の心の中にも潜在している。
すべての人は、その汚れを取り除くために苦しむのである。
2020年12月20日日曜日
追憶 2995
病は、多くの人にとって悪いことである。
多くの人がそこから得るのは、怒りや悲しみや苦しみといった破滅的な感情であるだろう。
病が破滅的な感情の原因ではないが、多くの人はそのように考えてしまう。
それは、病によって自らの抱える破滅的な感情が引き出されたのであるが、そのようには思えないところに誤解の原因があるだろう。
多くの人は、病が生じなければ、破滅的な感情に苦しむ必要は無かったと考える。
しかしながら、それは自らを正当化しているに過ぎないのだ。
2020年12月19日土曜日
追憶 2994
それは、様々な経験を通じて少なからず成長しているからだ。
何も知らない時よりは、何かを知っているのだ。
何かを知ることは、何も知らないことよりも優れているのである。
それが、どのような知識や知恵であれ、それを知った者を本質へと近付ける。
例えば、それが“悪いこと”であったとしても、知らないよりは知っている方が良いのである。
2020年12月18日金曜日
追憶 2993
小学生の幸福と、中学生の幸福は異なる。
多くの人は、過去の幸福に対して思いを馳(は)せるが、残念ながら、過去に幸福というものは存在しない。
なぜなら、過去の幸福というものは、幼稚(ようち)な幸福感に過ぎないからである。
幼稚な幸福感を幸福と思うのは、成長の過程に問題が生じていると考えなければならないだろう。
過去に幸福を見出すことは、不自然な行為なのである。
冷静に考えてみると、現状がどのように悲惨(ひさん)なものであれ、過去よりはましなのである。
2020年12月17日木曜日
追憶 2992
中学生に対して、小学生の価値観や常識は通用しない。
それは、学びが異なるからだ。
人は、学びに従って自らの価値観や常識を改めなければならないのである。
環境や文化や時代などの、外的な要因に対して、自らを順応させる必要があるのだ。
病に対抗することは、病が促(うなが)して“くれている”変化を否定することになる。
それでは、病から得られるはずの大切な学びを得ることが出来ないのだ。
2020年12月16日水曜日
追憶 2991
すべての人は、成長を実現する。
すべての人は、ゆっくりとでも確実に成長してしまうのである。
それは、生きている以上、経験を避けることは出来ないからだ。
どのような選択も経験に繋がってしまう。
経験を有していない状況というものは存在しないのである。
そのため、すべての人が成長しなければならない。
成長すれば、これまでの価値観は価値を失う。
成長すれば、これまでの常識は通用しないのである。
2020年12月15日火曜日
追憶 2990
病が悪いものだと聞かされて育った人間は、病を悪とするのが普通であるだろう。
幼い子どもは素直であるのが普通だから、大抵の人間は教育のままに価値観を形成するのである。
白は白だし、黒は黒なのだ。
大抵の人間は、当たり前の価値観を疑うことをしない。
そこでは、その価値観
で上手くいっているからである。
一部の範囲では、歪んだ価値観でも上手くいく。
しかしながら、そこから出た途端(とたん)に、その価値観では問題を引き起こしてしまうのである。
2020年12月14日月曜日
追憶 2989
病を悪とするのが一般的な価値観であるだろう。
大抵の人が病を悪だと考えている。
大抵の人は、災難と思えることを悪だとしか思えないのだ。
なぜなら、周囲の人がそのように考えていたし、そのように対応していたからである。
大抵の人は、周囲の人がしていたように対応する。
大抵の人の対応は、教育の結果なのである。
教育が異なれば、対応も変わるだろう。
家庭や地域、言語圏や文化圏によって、価値観は違うものなのである。
2020年12月13日日曜日
追憶 2988
しかしながら、自由に動けないことによって、自分自身と向き合う時間を与えられたことに気が付いた。
腰痛は、わたしに内省(ないせい)することの重要性を教えてくれたのである。
腰痛によって強制的に休むことがなければ、わたしは外ばかりに目を向けていただろう。
それでは、霊的な道に進むことは出来なかったのである。
わたしは、腰痛のおかげで霊的な道を始めることが出来た。
腰痛という苦しみがなければ、わたしは霊的な道に進んではいないかも知れないし、ここに文章を記していないかも知れないのである。
2020年12月12日土曜日
追憶 2987
わたしの抱える傲慢(ごうまん)さは、心の奥深くにまで根を伸ばしており、上物(うわもの)を切り倒したくらいではすぐに復活してしまうのである。
恐らくは、わたしと同じように、多くの人も根深い傲慢さを抱えているのではないだろうか?
そして、わたしと同じように苦しんでいるのではないだろうか?
わたしは何度も腰痛によって動けなくなった。
症状(しょうじょう)が重い時には、一カ月以上も寝て過ごすという生活をしていた。
それは、労働を善と思っていたわたしにとっては、とても辛いことだったのである。
2020年12月11日金曜日
追憶 2986
わたしはずっと腰痛に悩まされてきたから、毎日のように腰痛について考えていた。
腰痛の意味や原因を考え続けて、その原因が傲慢(ごうまん)にあると思い至(いた)ったのである。
それからは、出来る限り傲慢さに陥らないように努めた。
しかしながら、それは決して簡単なことではない。
謙虚(けんきょ)である時には、腰痛は和(やわ)らぐ。
痛みが消えて暫(しばら)くは謙虚さを保つことが出来た。
しかしながら、痛みがないことが通常となると、いつの間にかに傲慢さが芽を出し、いつの間にかに蔓延(はびこ)っているのである。
2020年12月10日木曜日
追憶 2985
彼や彼の家族は、腰痛を喜ぶことが出来ない。
彼等は、腰痛を悪いことだと考えているのだ。
残念ながら、喜ばなければいつまで経っても苦しいのである。
腰痛の原因は傲慢(ごうまん)さであるから、腰痛を治すには謙虚(けんきょ)でなければならない。
腰痛に対する謙虚さとは、与えられた腰痛を喜ぶことである。
腰痛を喜ぶことが出来れば、回復に向かうということを理解しなければならないだろう。
わたしも10代の後半頃から腰痛には悩まされてきたが、腰痛を喜ぶことによって悩まされることは無くなった。
それに気が付くのに6、7年は掛かっている。
2020年12月9日水曜日
追憶 2984
精神的な苦しみも、肉体的な苦しみも、誤解を手放すことで消え去っていくのである。
誤解を手放すことが出来れば、苦しみも手放すことが出来る。
例えば、技術や体力や精神力の向上を理由にしている人は、過酷(かこく)な環境を喜ぶ。
しかしながら、そのような理由を持たない人にとって、そのような環境は苦しみ以外の何でもないだろう。
病を喜ぶ人にとって、それは苦しみではない。
病を苦しむ人にとってのみ、それは苦しみなのである。
2020年12月8日火曜日
追憶 2983
幼い頃には感じていた精神的な苦しみも、成長に伴(ともな)って薄れていく。
若い頃の精神的な苦しみも、歳を重ねる程に消え去ってしまうだろう。
悩みや苦しみも、慣(な)れや練習によって大半が無くなってしまうのである。
半年前に悩んでいたことを今でも同じように悩んでいるだろうか?
一年後はどうだろうか?
五年後には、そのような悩みがあったことさえ忘れているかも知れないだろう。
2020年12月7日月曜日
追憶 2982
経験を積んでいく内に肉体や精神が鍛(きた)えられ、苦しみに耐(た)えることが出来るようになっていくのである。
中国の少林寺の修行僧が、尋常(じんじょう)ではない肉体の強靭(きょうじん)さを示すのを見れば、苦しみが思い込みであるということを理解することが出来るだろう。
喉(のど)に槍(やり)を突き立てて、そのまま槍を折ってしまうというような、通常では考えられないようなことをやってのけるのだ。
経験を積めば、それ程までに強くなるということであろう。
2020年12月6日日曜日
追憶 2981
苦しいことも、それを経験し続けると楽しくなる。
もちろん、虐待(ぎゃくたい)などのように、短時間で度を超えるような苦しみは例外である。
少しずつ慣らしていけば、やがては楽しみとも成るということである。
始めた頃は苦しいと思っていたことも、続けているといつの間にかに楽しみとなっているものだ。
例えば、マラソンを趣味にしている人は、始めから楽しく走っていた訳ではないだろう。
始めた頃は、長い距離を走ることは苦しいものである。
2020年12月5日土曜日
追憶 2980
どのように難しいものであっても、向き合い続けると理解は深まる。
どのように理解の遅い者であっても、向き合い続けると理解することが出来るのである。
理解が浅いと、難しく苦しいことも、理解が深まれば簡単であり、楽しいのだ。
分からない時には詰(つ)まらなくても、分かってくると楽しくなるものである。
多くの人は、人生における様々な問題に対して苦しむ。
それは、楽しめる程に理解が深まってはいないからである。
2020年12月4日金曜日
追憶 2979
慣(な)れによって、苦しみが薄まるのは、理解が深まってくるからだ。
何度も向き合っていると、程度の差はあるが、どのようなものに対しても順応する。
何度も向き合っていると、どのようなものにも理解が深まり、偏見(へんけん)や誤解も薄れてくる。
多くの場合、苦しみというのは偏見や誤解によって引き起こされる。
偏見や誤解は、無知によって引き起こされるのである。
無知を手放すためには、向き合わなければならないのである。
2020年12月3日木曜日
追憶 2978
人生に同じような問題や苦しみが続くのは、その問題や苦しみを喜び、平和を実現することが出来ていないからである。
その問題や苦しみを喜び、平和を実現することが出来れば、それを問題や苦しみとは思わないだろう。
それを問題や苦しみと思わなければ、それは問題や苦しみではないのである。
どのようなものに対しても、それと何度も向き合っている内に嫌悪感は薄まる。
それは、何度も向き合っていると、少しずつではあるが理解が深まるからである。
2020年12月2日水曜日
追憶 2977
正しい回答とは、否定しないということである。
どのような状況にも意味や価値を見出し、喜びと平和を実現することだ。
目の前の状況に対して意味や価値を見失い、嫌って争うのは正解ではないのである。
それでは、試験に合格することが出来ないだろう。
試験に合格することが出来なければ、追試験を受けなければならない。
追試験で合格するために、再びテスト範囲を勉強しなければならないのである。
それは、あなたが合格するまで続けられるのだ。
2020年12月1日火曜日
追憶 2976
人が病などの様々な問題や苦しみによって深めるべきなのは、自分自身やこの世の理(ことわり)に対する理解である。
人は、自分自身や理を理解するために様々な問題や苦しみを経験しているのだ。
自分自身や理に対する理解不足が、問題や苦しみの本質なのである。
これは、試験と同じようなものであろう。
試験には様々な問題が出題される。
そこには決められた正解が存在し、あなたは正しく回答しなければならない。
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