このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2019年6月30日日曜日

追憶 2457

すべての人は、未熟に生まれる。
未熟であるが故(ゆえ)に生まれなければならないということを理解しなければならないだろう。
多くの人は、この世界を良いものだと考えているかも知れない。
どうせ生きるのであれば、良いものだと思って生きた方が精神衛生上は良いと言えるだろう。
しかしながら、この世界は必ずしも良いとは言えないのではないだろうか?
わたしには、この世界が病院のように思える。
わたしを筆頭(ひっとう)に、すべての人は病人である。
わたし達は、病を癒(いや)すために生まれてくるのではないかと思えるのだ。

2019年6月29日土曜日

追憶 2456

道から外れることや、道に停滞することが、人生における問題の原因であるということを理解しなければならない。
誰かや何かなどの外的な要因は、あなたが道から外れることや、道に停滞することには関係がないのである。
誰かや何かには、あなたの道を妨げる力はない。
そのような権限は与えられてはいないのである。
人生を映画に例えると、あなたは主人公であるが、そこには当然監督も存在する。
人生の監督は、人生を始める前の自分自身であり、魂と呼ばれる本質なのである。

2019年6月28日金曜日

追憶 2455

人は、後悔を覚えて、初めてやり直そうと考える。
後悔することがなければ、方向転換は出来ないのである。
人は、自分自身の愚(おろ)かさに苦しむ。
例えば、病という状態も、自分自身の愚かさの現れなのである。
愚かさを抱えていなければ、病を抱えることもないのだ。
人は、愚かであるが故(ゆえ)に、自我意識や非我(ひが)に偏る。
愚かでなければ、道を外れることも、寄り道をして立ち止まることもないのである。

2019年6月27日木曜日

追憶 2454

病は、罪という訳ではない。
病とは、後悔である。
それは、魂の後悔なのだ。
人には、果たさなければならない目的がある。
しかしながら、それを忘れているのであれば、後悔が生じてしまうのだ。
目的を忘れ、違うことをしていても、どこかには目的が残っている。
何かをしなければならないが、それが何か分からない。
しかしながら、後になって、当初の目的が別にあったことを思い出す。
そこに、後悔が生じるのだ。

2019年6月26日水曜日

追憶 2453

当初の目的を果たすこと以上に重要なことはない。
当初の目的を見失い、本当は必要のない良いものを集めて偽りの満足に浸(ひた)っていることは、決して良い状態ではないのだ。
買い物を頼まれたのに頼まれたものを買わずに、自分が良いと思うものを自分勝手に買ったとしても、依頼主は満足しないだろう。
あなたにとって、それがどのように良いものであったとしても、依頼主が喜ぶことはないのだ。
寧(むし)ろ、あなたを責(せ)めるだろう。
そこには、問題と苦しみが生じるのである。
例えば、それが病として現れるということを理解する必要があるだろう。

2019年6月25日火曜日

追憶 2452

目的を見失った人は、自我意識と非我(ひが)のどちらかの誘惑(ゆうわく)に従って立ち止まってしまう。
それは、声を掛けられて、実演販売のブースに立ち寄るようなものである。
実演販売で売られているものは、買い物の目的ではない。
そこで売られているものは、必要のないものなのである。
しかしながら、話を聞いている内に、それが必要のないものであったとしても、次第に欲しくなってくる。
それは、とても良い商品かも知れない。
その商品によって、生活は華やかなものになるかも知れない。
しかしながら、目的を果たすことがなければ、どのように華やかな生活を送ることが出来たとしても、その生活に対して満足を得ることは出来ないのである。



2019年6月24日月曜日

追憶 2451

自我意識と非我(ひが)は、ある意味で詐欺師のようなものである。
人は、自我意識と非我に騙(だま)されないように歩まなければならないのだ。
目的地に辿り着くためには、目的を見失わないことである。
目的地までの道程(どうてい)には、様々な誘惑(ゆうわく)が待ち構えている。
それは、快楽を刺激する誘惑であるかも知れないし、苦悩を刺激する誘惑であるかも知れない。
どちらにしても、人は様々な誘惑によって目的を見失ってしまうのである。

2019年6月23日日曜日

追憶 2450

人生には、様々な問題が生じる。
それは、とても苦しいものであるが、それに騙(だま)されてはならない。
それは、”詐欺師”があなたを不安にさせたり、喜ばせたりして、自らの目的を果たすことに似ているのである。
冷静さを失えば、あなたは”詐欺師”の手中に落ちてしまうのだ。
”詐欺師”は、必要のないものをあなたに必要と思い込ませる。
あなたが必要のないものを必要と思い込むためには、冷静さを奪えば良いのである。
冷静さを失えば、人は簡単に騙されてしまう。
それが、”詐欺師”の目的なのである。

2019年6月22日土曜日

追憶 2449

残念ながら、人は、自分が何をしているか分かってはいない。
人は、自分がしているように思ってもしておらず、自分がしていないように思ってもしているのである。
人は、自我意識と非我(ひが)に左右される。
それは、自我意識と非我が、あなたを手中に収めようとする働きなのだ。
自我意識と非我は、あなたを必要としている。
それは、自分(自我意識と非我)が存在するためなのである。
自我意識と非我は、自分を存在させるために、例えば病を利用しているだけなのだ。

2019年6月21日金曜日

追憶 2448

病は、それを必要とする人にとって都合の良いものなのである。
しかしながら、そこには歪みが生じていることを忘れてはならないだろう。
誰もが、病など必要とは思っていない。
医療に携わる人達の大半は、病を根絶しようとしているし、病人は病に苦しんでいる。
しかしながら、病を必要としているために、病と付き合っているのだ。
そこには矛盾が存在しているが、病を必要としているのは、自我意識と非我(ひが)なのである。
自我意識と非我は、目的は異なるが、互いに病を必要としているのだ。

2019年6月20日木曜日

追憶 2447

病人にとっても、病は都合が良いのである。
病によって、病人は他者からの関心を得ようとしている。
病によって、病人は他者からの同情を得ようとしている。
病によって、病人は他者からの思いやりを得ようとしている。
病によって、病人は他者からの愛情を得ようとしているのである。
健康ならば、放って置かれる人も、病を得れば気に掛けてもらえる。
病人であれば、誰もが特別扱いしてくれるのだ。
病人にとっては、それが都合が良いのである。

2019年6月19日水曜日

追憶 2446

病は、人の心の中で作られている。
風邪の菌や、額(ひたい)に出来る小さな腫れ物、そして、指先に刺さる棘(とげ)さえも、心の中で作られているのだ。
人は、病を必要としている。
医療に携わる人達にとって、病とは生活の糧(かて)である。
医療に携わる人達には、病は必要不可欠なものなのである。
医療に携わる人達は、病で飯を食っているのだ。
医療に携わる人達にとって、病が消滅することは都合が悪い。
医療に携わる人達にとって、病は都合の良いものなのである。

2019年6月18日火曜日

追憶 2445

多くの人は、病が外に存在していると思い込んでいる。
そのため、外のものを使って病を退治しようと試みる。
例えば、薬剤によって病を退治しようとするのだ。
薬剤によって、病の原因か結果と思われるものを攻撃して、その働きを失わせる。
それは、病に対する勝利のように思うだろう。
しかしながら、病を根絶することが出来ただろうか?
医学や医術は進歩したように思えるが、病(病人)は増えているようにさえ思える。
医療費が増え続けていることに矛盾(むじゅん)を覚えなければならないだろう。
そこには、医療に携わる人達(病人も含めて)が、内に病を抱えているという現実が存在するのである。

2019年6月17日月曜日

追憶 2444

このように言うと、細菌によって病が引き起こされると反論するだろうが、それでは、すべての人が同じ病に侵(おか)されることになるだろう。
しかしながら、実際には、人はそれぞれに異なった病に侵されるのである。
同じような問題を抱える人はいるが、それは決して同じ問題ではない。
人が、それぞれの病や問題や苦しみを体験するのは、その原因が内側に存在しているからなのである。
病は決して外に存在するのではない。
例えば、細菌が病の原因ではないのである。
病の原因は、自分であるということを理解しなければ、それを解決することは出来ないのだ。

2019年6月16日日曜日

追憶 2443

多くの人は、病を悪いことだと思い込み、それを"退治"しようとする。
多くの人は、病と争うのである。
そして、病に打ち勝つことを正義と考えている。
これは、あまりに傲慢(ごうまん)な思考回路であることを知らなければならないだろう。
なぜなら、病は、内側から生じたのである。
外から生じる病が存在するだろうか?
少なくとも、わたしはそのような病を知らない。
どのような病も、必ず内側から生じるということを理解しなければならないだろう。

2019年6月15日土曜日

追憶 2442

しかしながら、苦しみを経験することによって、苦しまない方法を理解することが出来る。
人と付き合うこと、社会を生きることは苦しい。
しかし、他者や社会と向き合い続け、苦しみ続けていれば、その特徴(とくちょう)を理解することが出来るのである。
特徴を理解すれば、それを苦しみにしない方法を理解することも出来るだろう。
それは、他者や社会を通じて、自分自身を理解することが出来るからである。
自分自身を理解すれば、人間関係や社会を生き抜く処世術(しょせいじゅつ)を身に付けることも出来るだろう。
それは、道と自動車の特性を理解することによって、安全に進んで行くことが出来るのと同じことであるだろう。

2019年6月14日金曜日

追憶 2441

自動車が安全に道を曲がるためには、ニュートラルステアリングに近い弱アンダーステアリングが良いとされている。
人が自己を磨くためには、自動車と同じように、少しだけ自我意識に偏(かたよ)った状態が良いのかも知れない。
なぜなら、人は、社会で生きていかなければならないからだ。
非我(ひが)に偏ってしまえば、社会からは剥離(はくり)してしまうだろう。
社会という人間関係の坩堝(るつぼ)を生きることがなければ、自己を磨くことは出来ないのである。
それは、人間関係を経験することによって、人間心理を学ぶことが出来るからだ。
他者を知らなければ、自己を知ることは出来ないのだ。
人間関係は苦しいものであるが、苦しいからこそ磨くことが出来るのである。

2019年6月13日木曜日

追憶 2440

苦しみを避けようとすれば、自我意識か非我(ひが)のどちらかに偏(かたよ)ってしまうだろう。
ある程度の苦しみを受け入れることによって、苦しみの助けを借りて、軌道修正を行うことが出来るのである。
自動車に乗って道を曲がる時には、オーバーステアリングとアンダーステアリングが現れる。
オーバーステアリングとは、自動車が内側に切り込んでしまう特性のことである。
一方、アンダーステアリングとは、自動車が外側に膨れてしまう特性のことである。
自動車がコーナーを安全に曲がるためには、アンダーステアリングでもオーバーステアリングでもならないのだ。

2019年6月12日水曜日

追憶 2439

"普通"でいることは、必ずしも良いことではないだろう。
それは、"普通"とは、自我意識に偏(かたよ)った不自然な状態であるからだ。
しかしながら、"特別"でいることも、必ずしも良いことではないだろう。
それは、"特別"も"普通"と同じく、非我(ひが)に偏った不自然な状態であるからだ。
"特別"とは、俗世間から離れて、特定の価値観や世界観の中に生きることである。
何かを強く信仰している人が陥(おちい)り易(やす)い状態であるが、それも、偏りである。
それでは、歪みに拍車がかかってしまうだけなのだ。
そこにも苦しみが実現してしまうのである。

2019年6月11日火曜日

追憶 2438

苦しみを悪いことだと考え、それを遠ざけることは、必ずしも最善の選択ではないだろう。
苦しみを利用しなければ、人は自我意識から離れることは出来ないのである。
人は、それぞれの形で苦しみを受け取る。
どのような人物にも、必ず苦しみは襲う。
この世界においては、苦しみを避けることの出来る人物など存在しないのである。
それは、自我意識の支配を受けない人物など、どこを探しても存在しないからである。
大抵の人物は、自我意識に偏(かたよ)っている。
そして、それが”普通”となっているのである。

2019年6月10日月曜日

追憶 2437

苦しみに導かれなければ、人は自我意識と非我(ひが)の中間に位置することは出来ない。
それは、大抵の人が自我意識に偏(かたよ)り、その支配を受けているからである。
多くの人が苦しみと呼ぶものは、自我意識にとっての苦しみのことである。
自我意識にとっての苦しみは、人を自我意識から遠ざける。
大抵の人は、苦しみによって自我意識を離れ、非我へと近付かなければならないのだ。
そうすることで、自我意識と非我の中間に位置することが出来るのである。

2019年6月9日日曜日

追憶 2436

人生において、苦しみを避けることは出来ないだろうが、苦しみを和らげることは出来るだろう。
それは、苦しみの経験を通じて、自我意識と非我(ひが)の中間に位置することによって実現する。
人は、死を得るまで未熟である。
誰一人として、苦しみを避けることは出来ない。
わたし達に出来ることは、苦しみを和らげることだけである。
人生は、苦しみによって道を示す。
わたし達は、苦しみに導かれる存在だと思えるのである。

2019年6月8日土曜日

追憶 2435

人は、偏(かたよ)ることによって、偏っていたことを知る。
実際に偏っていなければ、偏っていたことを知ることは出来ないのだ。
そのため、どのような人も必ず偏らなければならない。
それは、自我意識への偏りかも知れないし、非我(ひが)への偏りかも知れない。
人は、どちらにしても、傲慢(ごうまん)か虚無(きょむ)のどちらかに陥(おちい)らなければならないのである。
それは、人生の失敗である。
しかしながら、人は失敗という苦しみから人生を学ぶことが出来るのである。

2019年6月7日金曜日

追憶 2434

自我意識に偏(かたよ)れば、人は傲慢(ごうまん)や怠惰(たいだ)に陥(おちい)る。
そこでは、傲慢による苦しみを受け取らなければならない。
非我(ひが)に偏れば、人は虚無(きょむ)に陥る。
そこでは、虚無による苦しみを受け取らなければならないのである。
偏ることでは、苦しみを避けることは出来ない。
しかしながら、人は、偏らなければならないのである。
それは、すべての人が未熟であり、それを克服(こくふく)しなければならないからだ。

2019年6月6日木曜日

追憶 2433

わたし達が知らなければならないのは、苦しみには大きく分けて二種類があるということだ。
一つは、自我意識にとっての苦しみであり、一つは、非我(ひが)にとっての苦しみである。
自我意識にとっての苦しみとは、あなたが非我に向かうことである。
非我にとっての苦しみとは、あなたが自我意識に向かうことだと理解すれば良いだろう。
自我意識と非我のどちらかに偏(かたよ)ることが苦しみという状態なのである。

2019年6月5日水曜日

追憶 2432

多くの人は、噂話や憶測(おくそく)を真実だと思い込み、そのように信じてしまう。
それは、虚像(きょぞう)を実像だと思い込んでしまうのと同じことである。
しかしながら、虚像を実像だと思い込んでしまえば、問題を引き起こさなければならないのだ。
問題は必ず苦しみを実現する。
多くの人は苦しみを嫌うために、虚像を離れて実像を探すようになるだろう。
自我意識にとって、虚像を離れて実像を探されることは都合が悪い。
それは、自我意識にとっての苦しみとなって襲うのである。

2019年6月4日火曜日

追憶 2431

苦しみを嫌うことは、決して悪いことではない。
それは、自我意識の虜(とりこ)になっているということであるが、自我意識と親密に付き合っていなければ、自我意識を理解することは出来ないのである。
部外者には、内情や実情を理解することは出来ないのだ。
多くの人は、部外者であるにもかかわらずに、他者への判断を下している。
それは、噂話(うわさばなし)や憶測(おくそく)による判断に過ぎない。
しかしながら、それをいつの間にかに真実だと思い込んでしまうのである。

2019年6月3日月曜日

追憶 2430

それが、様々な形で訪(おとず)れる苦しみである。
彼の場合、今回は腰の痛みという形で苦しみが訪れている。
腰の痛みという形の苦しみが、今の彼にとっての最善である。
今の彼にとっては、腰の痛みが最も骨身に染みることなのであろう。
苦しみの目的は、自我意識を整えることだ。
それ以外の目的は存在しない。
多くの人が苦しみを嫌うのは、苦しみの目的を理解していないか、自我意識の虜(とりこ)になっているかのどちらかであるだろう。

2019年6月2日日曜日

追憶 2429

髪の毛や爪は大切なものであるが、それを切り落とさなければ生きていくことは難しい。
大切に思えるものであっても、それを手放さなければならないのである。
人は、自分に都合良く生きていくことは出来ないと知るべきだろう。
人生は、決して都合の良いものではないのである。

彼にとっては、腰の痛みは都合の悪いものである。
しかしながら、彼はそれを受け入れなければならない。
髪の毛や爪を切り落とすのに痛みは生じないが、自我意識を整えるためには痛みが生じることもあるのである。

2019年6月1日土曜日

追憶 2428

しかしながら、苦しみを受け入れることは容易(ようい)ではない。
それは、多くの人が自我意識を自分であると思い込んでいるからである。
石や木を自分だと思うのであれば、それを打つことも、削(けず)ることも出来ないだろう。
言っておくが、自我意識とは自分ではない。
自分の歪みであり、髪の毛や爪のようなものなのである。
髪の毛や爪は身体の一部である。
しかしながら、それは、切り落とすべきものだ。
髪の毛や爪を大切に思い、それを保護するのであれば、日常生活に支障を来すであろう。