光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2021年11月30日火曜日
追憶 3340
“神”の視点からでは、違いというものは存在しない。
“神”は、分離を生み出してはいないのだ。
違っているように見えても調和している。
頭と手と足は違うように見えるが、一つの肉体である。
自分の肉体の頭と手が違う存在であったり、分離していると考える人はいないだろう。
見た目や役割は違うが、それ等は一つの肉体として調和しているのである。
2021年11月29日月曜日
追憶 3339
“神”は、わたし達を調和するように作ったのである。
“神”の視点と人の視点は異なる。
それは、山頂からの景色と街並み程に違う。
“神”の考える調和と、人の考える調和は異なるのだ。
人が見たら不調和に思えることも、“神”が見ると調和しているのである。
2021年11月28日日曜日
追憶 3338
多くの人と同じ考え方や生き方では、麓(ふもと)を離れられない。
頂(いただき)を目指すためには、独特な考え方や生き方が必要なのである。
多くの人は、独特な考え方や生き方を嫌う。
それは、調和を乱すと考えるからだ。
彼等の考える調和とは、全体の中の小さな一部分の調和のことである。
しかしながら、彼等はそのことに気が付かない。
“神”とは、“すべては一つ”という調和そのものである。
2021年11月27日土曜日
追憶 3337
自分自身を目指すことと、頂(いただき)を目指すことは同じである。
頂に近付く程に、自分自身に近付くのである。
誰かや何かと同調している時には、自分自身を知る機会を失う。
自分自身を知らなければ、“神”を知ることは出来ないだろう。
なぜなら、頂に辿り着かなければ、そこに存在する“神”を知る機会はないからである。
頂に辿り着く過程において、人は自分自身を知ることになるのだ。
“神”を知ることと、自分自身を知ることは同じなのである。
2021年11月26日金曜日
追憶 3336
すべての意識は、孤高を目指さなければならないだろう。
それは、特別を目指すということである。
特別というのは、自分のことである。
人は、それぞれに異なる。
それが自然である。
この世界には、一人として同じ人はいない。
人は、それぞれに個性的であり、特別なのである。
人は、自分を目指す時、自然と特別を目指すのである。
2021年11月25日木曜日
追憶 3335
“神”に会うためには、山頂(さんちょう)へ辿り着かなければならない。
多くの人と一緒にいては、山頂へと向かうことすら出来ないのである。
山頂へ辿り着くためには、孤独を覚悟しなければならないだろう。
独りでも登頂するという強い意思がなければ、山頂に辿り着くことは出来ない。
残念ながら、多くの人と一緒に山頂に辿り着くことは出来ないだろう。
人は、人数が増える程に、その場にとどまろうとするからである。
2021年11月24日水曜日
追憶 3334
彼等は、親である“神”を信仰(しんこう)しようとして、子である富を崇(あが)めているのだ。
信仰の対象が違えば、辿り着く場所は異なる。
“神”に会うためには、多くの人と同じように崇めてはならない。
多くの人と同じようにすれば、多くの人と同じ場所にとどまることになる。
多くの人は“神”に会わない。
多くの人と同じ場所にいても、“神”には会えないのである。
2021年11月23日火曜日
追憶 3333
そのため、富を崇(あが)めたとしても、“神”を信仰(しんこう)することにはならない。
巨大な像や豪華絢爛(ごうかけんらん)な建物、古い書物や教師などを崇めても仕方がないのである。
“神”を信仰するためには、そういった簡単で複雑なものを手放さなければならないのだ。
皆と同じように崇めていても、“神”に会うことは出来ない。
なぜなら、彼等は意識の山を登ってはいないからだ。
多くの人は、麓(ふもと)の街から整地された山道を少しだけ登ったところで、巨大な像や豪華絢爛な建物や、古い書物や教師を崇めている。
2021年11月22日月曜日
追憶 3332
残念ながら、実体と虚像(きょぞう)はかなり異なる。
多くの人が崇(あが)めている富と、僅(わず)かな人が信仰(しんこう)している“神”は少しも似つかない。
なぜなら、富とは“神”が生み出した一つの概念(がいねん)に過ぎないからだ。
富は、海や空や風などの概念に等しいのである。
親と子は似ているように見えるが、中身は全くの別物である。
2021年11月21日日曜日
追憶 3331
本質的に生きることは、難しいのである。
そのため、多くの人は表面的に生きる。
麓(ふもと)の街で簡単に複雑に生きているのに、本質を知ったつもりの人が多い。
“神”に会ったこともないのに、本質を知ったつもりでいる人が多いのである。
彼等の言葉は虚言(きょげん)に過ぎない。
山頂で生活したこともないのに、山頂の暮らしを語るのである。
2021年11月20日土曜日
追憶 3330
基本的には、難しい程に本質的である。
難しいと複雑は異なる。
本質的なものは、単純で難しいのである。
多くの人は、簡単なものを欲する。
そして、複雑なものを受け入れる。
多くの人は、簡単で複雑な世界観を生きているのである。
山頂で生きることは難しい。
それは、山頂には何も無く単純だからである。
対照的に、麓(ふもと)の街で生きることは簡単である。
麓の街には、多くの人工物が混在し、複雑だからである。
2021年11月19日金曜日
追憶 3329
有名なカウンセラーや霊能者や占い師を疑う人は少ないだろう。
大抵の人は、有名だから信用するのである。
それは、多くの人が信用しているのだから大丈夫という何の根拠もない理由である。
何度も先述(せんじゅつ)しているが、有名だから良いというのであれば、某(ぼう)ファーストフードが最良の食事になってしまうのである。
大抵の人は、某ファーストフードを最良の食事とは思わないだろう。
2021年11月18日木曜日
追憶 3328
ほぼ全てのカウンセラーや霊能者や占い師は、敵が存在すると信じているし、争いや金が必要だと信じている。
大抵のカウンセラーや霊能者や占い師は、存在すると信じている敵や争いに対して、また、必要だと信じている金に対して真剣に向き合う。
中には、騙(だま)そうとしている者もいるだろう。
しかしながら、大抵のカウンセラーや霊能者や占い師は無知で真剣なのである。
そのため、大抵の人は、カウンセラーや霊能者や占い師が無知であろうとも、その真剣な姿勢に信用する。
どの世界にも質というものがあるのに、看板や態度を見て無条件に信用するのである。
2021年11月17日水曜日
追憶 3327
それは、高い程、辿り着くのが難しいからだ。
都合の悪い人物を否定し、霊を悪霊と呼んで争い、悪運や悪い気や悪い方角があると言っているカウンセラーや霊能者や占い師という人達も、低い意識の段階にいる。
それは、彼等が“すべては一つ”という“神”から遠く離れているからだ。
彼等は、“神”を信仰(しんこう)していると見せ掛けて、富を信仰している。
彼等は、争いが存在すると見せ掛けることで依頼者の心に不安を植え付ける。
不安を抱えた人は、どうにかしてそれを取り除きたいと思うだろう。
不安を解決するためには、金が必要だと言われたら、不安を植え付けられた人は請求に対して素直に応じるのである。
2021年11月16日火曜日
追憶 3326
宇宙から地球を見ると、何の区別もなく一つの星である。
視点が低い程に分離し、視点が高い程に統合する。
そのため、“神”への信仰(しんこう)を謳(うた)いながら争っている宗教は、とても低い意識の段階にあるということである。
宗教に多くの人が群がるのは、麓(ふもと)の街から近い場所であるからだ。
頂(いただき)に近付く程に、人は少なくなるのである。
2021年11月15日月曜日
追憶 3325
“神”は、頂(いただき)に辿り着いた時に見える景色や心境のことである。
頂に辿り着いた時に見える景色や心境とは、“すべては一つ”というものだ。
麓(ふもと)の街では視点が低く、それぞれが分離しているように思える。
しかしながら、頂からの視点は、空と山と街と海が一つに見えるのである。
街の中では、それぞれの家や人物が個性的に見えていたが、頂から見ると区別が付かず、一つの街にしか見えないのだ。
2021年11月14日日曜日
追憶 3324
登山は、一歩一歩の積み重ねである。
一歩一歩を積み重ねなければ、頂(いただき)に辿り着くことは出来ない。
一歩を踏み出せば、その分だけ苦しみが増す。
山は登る程に険(けわ)しく、厳(きび)しいのである。
頂に辿り着くためには、苦しみを繰り返さなければならない。
苦しみを繰り返さなければ、“神”に会うことは出来ないのである。
2021年11月13日土曜日
追憶 3323
また、自己批判(じこひはん)や自己憐憫(じこれんびん)に陥(おちい)り、鬱(うつ)を抱えていたり、自殺を試みるような人も、人生経験が浅く幼い。
彼等には、問題や苦しみの意味や価値が分からない。
そのために、受け入れることが出来ずに抵抗するのである。
意味や価値が分からなければ、それが分かるまで繰り返す必要がある。
それは、繰り返していれば、いつかはその意味や価値が分かる時が来るからだ。
2021年11月12日金曜日
追憶 3322
それは、問題や苦しみを繰り返すことである。
山を登るということは、問題や苦しみを繰り返し経験するということなのだ。
例えば、人生経験の浅い人は、問題や苦しみを悪いものだと信じている。
精神年齢の幼い人は、問題や苦しみを頑(かたく)なに拒(こば)む。
クレーマーと呼ばれる人や煽(あお)り運転をするような人は人生経験が浅く、聞き分けのない子どものように幼いのである。
2021年11月11日木曜日
追憶 3321
麓(ふもと)の街(富への信仰(しんこう))から来た人達には、山の歩き方が分からない。
頂(いただき)には何もないということを知れば、登ることをやめるだろう。
登る程に苦しいと聞けば尚更(なおさら)である。
彼等には、“神”への信仰がどのようなものか分からない。
しかしながら、それは仕方のないことである。
“神”への信仰がどのようなものであるかは、少しずつ登る過程において、それぞれが学ばなければならないことなのである。
2021年11月10日水曜日
追憶 3320
“神”を信仰(しんこう)することは、問題や苦しみを受け入れるということである。
麓(ふもと)の街から来た人達は、問題や苦しみを遠ざけるために“神”を信仰する。
宗教に携わっている人達は、“神”が問題や苦しみを遠ざけてくれると思い込んでいるだろう。
しかしながら、実際には逆である。
“神”は、問題や苦しみを受け入れる強さを与えるのだ。
2021年11月9日火曜日
追憶 3319
意識の山は、登る程に不便さを増す。
そこには、気楽さなど皆無(かいむ)である。
快楽や欲望を貪(むさぼ)ることなど出来ない。
頂(いただき)に近付く程に、気楽さからは遠ざかってしまうのだ。
意識の山は、登る程に大変なのである。
問題や苦しみを受け入れなければ、意識の山を登ることは出来ない。
問題や苦しみを受け入れなければ、“神”を信仰(しんこう)することは出来ないのである。
2021年11月8日月曜日
追憶 3318
“神”を必要としない人は、富と共に気楽に暮らす。
彼等は、富によって目の前の快楽や欲望を貪(むさぼ)ることを喜ぶのである。
彼等は、問題や苦しみが嫌いである。
それは、気楽を損うからだ。
彼等は、問題や苦しみの存在しない世界に幸福を見出す。
問題や苦しみの存在しない気楽さを幸せだと思い込んでいるのである。
2021年11月7日日曜日
追憶 3317
頂(いただき)に近付く程に、道は険しく環境は悪くなる。
これは、信仰(しんこう)と同じことである。
気楽な人は、“神”を信じないし認めない。
それは、“神”などいなくても気楽だからである。
気楽な人は、麓(ふもと)の街で宴(うたげ)に酔い痴(し)れるような人達である。
彼等には、“神”は必要ない。
“神”を信仰していると、快楽や欲望を貪(むさぼ)ることが出来ないからだ。
彼等は富を信仰し、“神”を必要とはしない。
同じように、“神”も彼等を必要とはしないのである。
2021年11月6日土曜日
追憶 3316
麓(ふもと)にいる人に頂(いただき)の話をしても理解することが出来ない。
暖かい麓にいる人に、頂には雪が積もっていることを伝えても信じないのである。
また、頂には木が生えていないことを伝えても信じないのだ。
そのため、宗教に熱心な人に“神”のことを伝えても、それを信じることが出来ない。
彼等は、宗教の教義や教師の話は信じても、例えば、他の宗教の教義や教師の話は受け入れることすらない。
他の宗教も同じ場所にいるのだが、それでも受け入れることが出来ないのである。
彼等は、麓(低い場所)にいるために視野が狭く、多くのことを受け入れられないし、信じることが出来ないのである。
2021年11月5日金曜日
追憶 3315
余計な荷物を背負っている人は、その重さに耐え兼ねて滑落(かつらく)してしまう。
意識の山を下ることは、“神”から遠ざかるということである。
“神”から遠ざかる程に、“神”への確信からは遠ざかる。
富を信仰(しんこう)している人は、“神”を信じていない。
それは、山に登ったことがないからだ。
宗教に熱心な人も、“神”を信じてはいない。
山の麓(ふもと)と頂(いただき)では、全く違う場所なのである。
2021年11月4日木曜日
追憶 3314
それは、山頂に近付く程に、道は険しいからである。
山は、頂(いただき)に近付く程に道が険しくなる。
なだらかな道を進む時には、大きな荷物、余計な荷物を背負っていても良いだろう。
なだらかな道では余裕があるのだ。
しかしながら、険しい道では大きくて余計な荷物は命取りである。
崖(がけ)を登らなければならないような道を進もうとする時に、大きな荷物を背負っていれば風に煽(あお)られてしまう。
そして、余計な荷物を背負っていると、その重量が仇(あだ)となるのである。
2021年11月3日水曜日
追憶 3313
イエスが、“金持ちは天の国に入ることは出来ない。金持ちが天の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が容易い。”と言ったのはそういう意味なのである。
わたし達は、様々な重荷を背負ったままで意識の山を登ることは出来ない。
ある程度までなら大きなバックパックが必要だが、登頂する時には小さなアタックザックを使う。
それは、重荷は危険だからである。
登頂を実現するためには、余計な荷物は持ち運べないのである。
2021年11月2日火曜日
追憶 3312
金を追い求める人は欲深く、傲慢(ごうまん)である。
富に価値を置く人は、様々な重荷を背負って肥大(ひだい)している。
整地された綺麗な道を進むのであればそれでも良いが、自然の中を進もうとするには無理がある。
重荷を背負って肥大した状態では、険しくて樹々が覆(おお)い茂る山道を進むことは出来ない。
進もうとしても体力が続かないか、樹々に引っ掛かって進めないのである。
2021年11月1日月曜日
追憶 3311
しかしながら、“神”が個人的な願望や欲望の実現を売ることはない。
どれだけの金額を提示しても、“神”と経済的な取引を実現することは出来ないのである。
金持ち程、問題を金で解決しようとするが、残念ながら、“神”には金など必要ないのである。
金で買えるのは本質以外のものであるが、“神”が求めるものがあるとするなら、それは本質的なものであろう。
そのため、“神”に対して金を交渉材料に使っても仕方ないのである。
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