光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2021年10月31日日曜日
追憶 3310
宗教とは、意識の山頂に辿り着こうとして整備された“綺麗な”道である。
それは、広くてなだらかな道であるために、誰でも気軽に歩み始めることが出来る。
多くの人が“綺麗な”道に押し寄せて、渋滞(じゅうたい)しているのだ。
それは、正月に神社に参拝する人の波のようなものである。
彼等は、個人的な願望や欲望を満たすために方々(ほうぼう)から押し寄せる。
彼等は、小銭で願望や欲望を買おうとしているのである。
2021年10月30日土曜日
追憶 3309
しかしながら、“神”を信仰(しんこう)し始めた者にはそのことが分からないだろう。
それは、麓(ふもと)の街に近いからである。
街から来た人達は、登り易(やす)くするために、木を倒し、岩を掘って道を作る。
そこには、立派で“綺麗な”道路が出来上がるのだ。
街から来た者は、立派で“綺麗な”道路を誇(ほこ)る。
そして、後から来た者はそれが正しい道程(どうてい)だと思い、列を成すのである。
2021年10月29日金曜日
追憶 3308
富への信仰(しんこう)が抜け切っていない人は、拡大や発展を成功と思い込んでいる。
熱狂的な信者が集まる宗教程、大きくて有名である。
それは、“神”を信仰しているつもりで、富を信仰しているからだ。
実際、大きくて有名な宗教程、多くの財産を抱えている。
そのような仕組みなのである。
大きくて有名な宗教程、“神”からは遠いのである。
2021年10月28日木曜日
追憶 3307
“神”への信仰(しんこう)は、富への信仰とは方法が異なる。
富は受け取る程に豊かになるが、“神”は与える程に豊かになるのである。
富への信仰は集めることで完成し、“神”への信仰は与えることで完成する。
そのため、富への信仰を完成し、“神”への信仰を始めた人は間違えてしまうのである。
熱狂的な信仰心を抱く人は、仲間である信者や道具や環境など、様々なものを集めようとする。
2021年10月27日水曜日
追憶 3306
熱狂的な信仰心を抱える人達は、麓(ふもと)の町(唯物主義、富への信仰)から来て、登山を始めたばかりである。
依然として、彼等には富への信仰が強く残っている。
彼等は、富への信仰の癖(くせ)が抜けていない。
富は、熱狂的な人にこそ微笑む。
誰よりも富を求める人に、富は与えられるのである。
そのため、山を登り始めたばかりの人は、熱狂的に“神”を信仰するのである。
それは、熱狂的に求める程、多くを与えられると思い込んでいるからだ。
2021年10月26日火曜日
追憶 3305
信仰(しんこう)が極まる程に、信仰に対する意識は小さくなっていくのだろう。
例えば、宗教活動に熱心な“神”を信仰している信者の信仰は、とても大きく熱狂的である。
彼等は、“神”のために争うし、“神”のために人生や命を捧げる程である。
それは、信仰が大きく、持て余しているからだ。
彼等は、信仰心に翻弄(ほんろう)されているのである。
信仰心が熱狂的である程、山の麓(ふもと)であるということなのである。
2021年10月25日月曜日
追憶 3304
信仰(しんこう)は、それがどのようなものであれ、偏(かたよ)らなければ成立しない。
“神”を信仰するためには、“神”に偏らなければならないし、富を信仰するためには、富に偏らなければならないのである。
わたし達が信仰という山を登るのは、信仰を手放すためなのかも知れない。
頂上に近付く程に、面積が小さくなるのは、信仰の大きさを示唆(しさ)しているのだろう。
2021年10月24日日曜日
追憶 3303
わたしは、“神”を信仰(しんこう)しているが、やがてはそれもなくなるのかも知れない。
なぜなら、“神”とか富とかいう信仰の対象は、偏ったものであるからだ。
何かに対する信仰を失い、“すべては一つ”という状態に辿り着いたのであれば、“神”や富といった小競り合いを回避することが出来るだろう。
2021年10月23日土曜日
追憶 3302
腐り、干からびたものに信仰心(しんこうしん)を持ち続ける人はいないだろう。
大抵の人はそれを手放すのである。
富を信仰している人に対して、それを手放した方が良いと言っても鼻で笑われるだけである。
それは、“神”を信仰する人に対して、それを手放した方が良いと言っても聞き入れないのと同じことである。
わたしは、“神”を信仰しているが、盲信(もうしん)してはいない。
それは、信仰の果実が青くはないからだろう。
しばらくすると、“神”への信仰心も熟して落ちるのかも知れない。
2021年10月22日金曜日
追憶 3301
つまりは、人が考えや価値観を改めるためには、信仰(しんこう)に対する成熟を待たなければならないのである。
本人がその信仰に満足しなければ、考えや価値観を改めることは出来ないのだ。
果実は、成熟を待てば簡単に枝から離れる。
成熟した果実は、自ずから枝を離れるのだ。
枝が望んでも、成熟した果実は自重によって枝を離れてしまう。
それでも、繋ぎ止めようとすると、そのままの状態で腐り、干からびてしまうのである。
2021年10月21日木曜日
追憶 3300
それは、誰もが自分の信じるものが正しいと信じているからだ。
信じるものに対して、それが正しいかどうか?という問いは力を持たない。
大抵の場合、信じているものは正しいという考えが勝る。
それは、枝にぶら下がる青い果実のように、揺らしても引っ張っても取れないものなのである。
青い果実を引き千切ることは出来るが、それでは、苦(にが)さを得なければならない。
甘味(かんみ)を得るためには、実が熟するまで待たなければならないのである。
2021年10月20日水曜日
追憶 3299
わたし達は、教わったことは正しいと信じてしまう。
それは、純粋である幼い内から教育されているからだ。
幼い頃から教育されているのであれば、それが“普通”だと信じてしまうだろう。
教育は、やがて信念を形成する。
そして、信念が人を導くのである。
正しさというものは見方や立ち位置に過ぎない。
人は、別々の立ち位置で正しさを主張している。
それは、それぞれの立ち位置から正しいと見えるからだ。
そのため、何が正しく、何が間違っているか?ということを議論しても意味のないことである。
2021年10月19日火曜日
追憶 3298
すべての人は、他者からの影響を受けている。
誰一人として、他者からの影響を受けずには生きられない。
あなたの考えや思いは、残念ながら、あなたのものではない。
それは、独自のもののように思えるが、他者からの影響によって築かれたものなのである。
姦淫(かんいん)をしたからといって、それが罪であるとは限らない。
姦淫を必要としている人には最善の選択なのである。
最善を罪として訴(うった)え、石で打つのは、誰かにそう教わったからである。
2021年10月18日月曜日
追憶 3297
姦淫(かんいん)の罪で捕らえられた女を訴(うった)えたのは、法律学者やパリサイ人(びと)である。
彼等は、それが正しいことだと信じているのだ。
正しいと信じない限り、人を石で打ち殺そうなどとは思わないだろう。
しかしながら、彼等も、生まれた時から姦淫が罪であり、その罰が石打ちなどとは知らなかった。
彼等は、そのように教えられたから、信じて行っているのである。
教えられなければ、信じることもないのである。
2021年10月17日日曜日
追憶 3296
すると、イエスの言葉を受けた人達は固まり、年寄りから順にすべての人が去り、その場には女とイエスだけが残った。
そこで、イエスが女に問いかけた。
「皆はどこへ行ったのですか?あなたの罪を罰する人はいなかったのですか?」
すると女は答えた。
「誰もいませんでした」
イエスは女に言った。
「わたしもあなたを罰しません。家に帰りなさい。もう罪を犯してはいけない」
2021年10月16日土曜日
追憶 3295
大抵の人は、欲望の渦(うず)に巻かれている。
多くの人は、欲望に翻弄(ほんろう)されてしまうのだ。
ヨハネの福音書の記述には、法律学者やパリサイ人(ひと)達が、姦淫(かんいん)の罪で捕らえた女をイエスの前に連れて来て、皆で石で打ち殺そうとする場面が描かれている。
それは、当時の法律でそう決められていたからである。
これは、イエスを訴(うった)える口実を得るためであった。
そこでイエスは、「あなた方の中で罪の無い者が、この女に石を投げなさい」と言った。
2021年10月15日金曜日
追憶 3294
自分自身の欲望ならば、何とか制御することが出来るだろう。
それでも、容易(ようい)なことではない。
しかしながら、多くの人の欲望が集まれば、それを制御することは不可能である。
それは、大きな渦(うず)となって襲うのである。
人は、そこに浮かぶ小舟であり、一本の櫂(かい)を持っているに過ぎない。
欲望の嵐の中では、簡単に翻弄(ほんろう)され、どうすることも出来ないのである。
2021年10月14日木曜日
追憶 3293
“神”を信仰(しんこう)する人は、金持ちにはなれない。
それは、思い通りや愛情を優先するからである。
思い通りや愛情を優先する人は金持ちにはなれないのだ。
それは、富とは離れたところにいるからである。
そのため、多くの信者を抱える大きな宗教組織程、“神”への信仰からは遠ざかってしまう。
人が集まるところには金も集まる。
それは、人が集まるところには欲望が生じるからである。
2021年10月13日水曜日
追憶 3292
富を信仰(しんこう)する人は、豪華な建物を建てることが良いと信じている。
彼等は、文明は経済を中心に発展すれば良いと信じているのである。
例え、それが自然環境を犠牲にしたとしても、発展するためには仕方のないことだと考えているだろう。
なぜなら、彼等は富を信仰しているのであり、“神”を信仰している訳ではないからだ。
彼等にとって優先すべきは“神”ではない。
“神”への信仰である思いやりや愛情を優先していると、富への信仰である金儲けや発展が疎(おろそ)かになるために、彼等はそれを軽んじるのである。
2021年10月12日火曜日
追憶 3291
土台を崩すのであれば、どのような建物も傾いてしまう。
贅沢を尽くした建物も、土台が傾けば崩れてしまう。
どのように文明が発展しても、自然という土台を顧みない文明は滅びてしまうのである。
白蟻のように柱を貪(むさぼ)るのであれば、どのように大きな柱も意味を成さない。
見た目は良くても、価値は無いのである。
2021年10月11日月曜日
追憶 3290
自然環境の悪化なのか、争いの結果なのか、他の星への移住なのかは分からないが、文明の発展が不自然な方向に進むと、結果的には滅びてしまうのである。
わたし達の文明も、自然環境を蔑(ないがし)ろにして、傲慢(ごうまん)に強欲にいつまでも不自然さを追い求めるのであれば、文明を維持していくことは出来ないだろう。
どのような文明も、自然環境の上に成り立っているのである。
どのような文明も、自然を克服することは出来ないのである。
2021年10月10日日曜日
追憶 3289
その後に、恐らくは人為的に現人類が“置かれた”のだろう。
恐らくは、昔にピラミッドなどの巨石を扱う人類か何かがいたが、文明の発展と共に滅びてしまったのではないだろうか?
自然環境を保つような文明なら、滅びてはいないだろう。
現存していないということは、恐らくは自然環境を破壊してしまった結果、住めなくなってしまったのだろう。
2021年10月9日土曜日
追憶 3288
しかしながら、ピラミッドを建設する程のレベルの文明でも、庶民(しょみん)の暮らしは豊かなものではなかったようである。
それは、ピラミッドを建設したのが、現状の人類とは別の人類か何かであったからなのかも知れない。
現状の人類は、恐らくピラミッドを建設してはいない。
ピラミッドを建設した人類か何かは、文明の発展によって自然環境を破壊し、環境の悪化によって住めなくなって移住したか?、滅びてしまったのではないだろうか?
2021年10月8日金曜日
追憶 3287
ピラミッドを建設することが出来る程の優れた文明だから、人々の暮らしも豊かなものであっただろう。
しかしながら、当時の庶民の暮らしは豊かなものではなかったようだ。
ピラミッドを建設することが出来る程の優れた文明が、庶民に貧しい暮らしを強いるだろうか?
今日(こんにち)の日本でも格差は大きいが、社会保障は充実しているように思う。
大勢の不平不満を吐く人はいるが、日本で生活している以上、簡単に死ぬようなことはない。
今日の日本“程度”の文明であっても、国民は豊かに暮らしているのである。
2021年10月7日木曜日
追憶 3286
ピラミッドを建設することが出来る程の優れた文明も、巨大な建造物と謎を残して消えた。
彼等が滅びたのか、違う星にでも移住したのか、文明を放棄(ほうき)して狩猟や農耕からやり直したのか?は分からない。
しかしながら、ピラミッドを建設する程に発展した文明が継続されることはなかった。
彼等が繁栄(はんえい)していたのかは分からないが、恐らくは、ピラミッドだけを建設した訳ではないだろう。
今は砂漠の中にあるピラミッドも、当時は今とは異なる環境であったのではないだろうか?
2021年10月6日水曜日
追憶 3285
彼等は、何千年も前にピラミッドを建設した人達である。
彼等は、野蛮(やばん)でもなければ、猿でもないのである。
彼等には、わたし達が知らない技術力と知識があったはずである。
そうでなければ、石だけの巨大な建造物を築くはずがないだろう。
そこには、文明規模か地球規模の理由があるはずである。
あれは、気まぐれで作れるようなものではないのだ。
2021年10月5日火曜日
追憶 3284
しかしながら、わたし達の文明に巨石の文化はない。
わたし達の文明は、鉄と石油である。
ピラミッドを残して消えた文明とは異なる発展をした。
それは、恐らく、彼等とわたし達が違う人類や文明であるからだろう。
彼等は、ピラミッドを建設する程に発展した文明である。
しかしながら、滅びてしまった。
それは、彼等も恐らくは富を信仰(しんこう)したからであろう。
2021年10月4日月曜日
追憶 3283
恐らく、昔の人は、ピラミッドを建設する程に優れていた。
シュメール文明のように、太陽系の惑星配列のことまで知っていた文明もある程である。
彼等がわたし達の文明よりも劣っているとは思えない。
彼等がわたし達と同じ人類なのかは分からないが、彼等の文明が大きく発展していたことは間違いないだろう。
しかしながら、彼等もピラミッドや遺跡を残して消えてしまった。
わたし達が彼等の子孫なら、何かしらの技術力や知識は継承(けいしょう)されているはずである。
2021年10月3日日曜日
追憶 3282
わたし達には、エジプトに住んでいた過去の人類が、どこからどうやって巨石を切り出して運び、どうやって積み上げたのかも分からない。
それに、何のためにピラミッドを建設したのかさえ分からないのである。
わたしには、昔の人類が野蛮(やばん)で劣(おと)っているとは考えられない。
ピラミッドを建設したのが人類であるのならば、彼等が優れた技術力と知識を持っていたことは否定することの出来ない事実であるだろう。
2021年10月2日土曜日
追憶 3281
人間が猿から進化し、今の方が上等であるのならば、何千年も前の技術や知識を容易(たやす)く凌駕(りょうが)していなければならないだろう。
しかしながら、現状の人類には、巨石文明のような技術力も、シュメール文明のような知識もないように思える。
現状の人類は、過去の人類よりも劣(おと)っているのではないだろうか?
何千年前か分からないが、彼等の方が野蛮(やばん)で劣っているのであれば、技術力や知識に謎は存在しないはずである。
わたし達にとって、何百年か前の人類の技術力や知識を謎とは思わないだろう。
しかし、それよりも古い人類の技術力や知識は謎なのである。
2021年10月1日金曜日
追憶 3280
真実は分からないが、恐らく学校で教わることは間違っているだろう。
ピラミッドや巨石群、インカの石垣などの巨石建造物の技術レベルや、シュメール文明などの知識レベルをどう説明するのだろう?
過去の人類が、本当に野蛮(やばん)で劣っていると言えるのだろうか?
現代の技術力や知識を人類が一丸となって費やせば、例えば、クフ王のピラミッドを建設することが出来るだろうか?
出来るかも知れないが、恐らくは難しいだろう。
しかしながら、何千年か前の人類(その地域の人達)は、それを達成したのである。
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