光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2021年5月31日月曜日
追憶 3157
イエスは、こうも述(の)べている。
イエスが寺院にいる時、金持ち達が献金箱に献金しているのを見ていた。
すると、貧しい未亡人が来て、小さな硬貨を二つ投げ入れた。
イエスは、“この未亡人は、他の誰よりも多くを捧げました。金持ちは有り余る中からほんの少しを捧げただけだが、この貧しい未亡人は少ない中から多くを捧げたからです”と言ったのである。
恐らくは、貧しい未亡人よりも、金持ちの方が多くの献金を捧げたであろう。
金持ちは、自分は貧しい未亡人よりも多くを捧げたのだから、多くの徳を積んだと思うだろう。
2021年5月30日日曜日
追憶 3156
意識の山を登るためには、富を顧(かえり)みてはならない。
“神”への信仰(しんこう)である優しさや思いやり、許(ゆる)しや愛情を実行しようとする時に、富を顧みてはならないのである。
見返りを条件とすることは、真(まこと)の優しさや思いやり、許しや愛情ではない。
それは、偽善(ぎぜん)なのである。
多くの人は、偽善によって徳を積んだつもりでいるだろう。
2021年5月29日土曜日
追憶 3155
富という重荷を背負って意識の山を登ることは出来ないし、里に置いて来た富を惜しんで振り返っていては、足元が疎(おろそ)かになって滑落(かつらく)してしまうのである。
イエスはこうも言った。
“鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧(かえり)みる者は、神の国に相応(ふさわ)しくない”。
鋤とは、牛に引かせる耕作機のことである。
鋤に手をかけているのに後ろを向いていると、牛はあらぬ方向へと歩みを進めてしまうだろう。
それでは、畑を耕(たがや)すことが出来ないのである。
2021年5月28日金曜日
追憶 3154
富を信仰(しんこう)しながら意識の山を登ることは出来ない。
なぜなら、様々な財産は重荷であるからだ。
“神”へと近付くためには、富に対する執着(しゅうちゃく)を手放さなければならない。
蓄(たくわ)えた財産は里に住む誰かに譲渡(ゆずりわた)し、自身は身軽になって登らなければならないのである。
イエスは、“金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易(やさ)しい”と述(の)べている。
富への信仰という重荷を背負ったままでは、山頂へと続く険しい道を登ることは出来ないのである。
2021年5月27日木曜日
追憶 3153
傲慢(ごうまん)なままでは、意識の山を登ることは出来ない。
謙虚(けんきょ)であっても、それだけでは意識の山を登ることは出来ないであろう。
傲慢でもなく、謙虚でもなく、どのような時にも優しさや思いやり、許(ゆる)しや愛情を保たなければならないのである。
そして、それを一層(いっそう)強くしていかなければならないだろう。
険(けわ)しい道である程、心が試される。
険しい道である程、心を保つことが難しいのである。
2021年5月26日水曜日
追憶 3152
残念ながら、すべての人が未熟に生まれる。
故(ゆえ)に傲慢(ごうまん)である。
大抵の人は、自分が正しいと思っている。
どのように謙虚(けんきょ)な人も、どのように弱気な人も、どのように自虐的(じぎゃくてき)な人も、自分が正しいと思ってそうしているのである。
自分が間違っていると思い込んでいる人も、自分が間違っていることは正しいと思い込んでいるのだ。
どのような人も未熟であり、傲慢なのである。
2021年5月25日火曜日
追憶 3151
それは、人生が思い通りにはならないからだ。
どのような人物も、人生を思い通りにすることは出来ない。
思い通りにならないのが人生なのである。
もしも、思い通りになるのであれば、生まれた意味がないだろう。
思い通りにならないからこそ学びが生じ、思い通りにならないからこそ意味があるのだ。
思い通りになるのなら、それを体験する必要はないのである。
2021年5月24日月曜日
追憶 3150
意識の山を登ることは難しい。
それは、登山と同じようなものである。
意識の山を登る程に、道は険しくなる。
“神”へと近付く程に、より大きな優しさや思いやり、許(ゆる)しや愛情が必要になってくるのである。
相手や自分に対して優しくすること、思いやりや許しや愛情を選択することよりも、それ等を見失う方が簡単なのである。
2021年5月23日日曜日
追憶 3149
多くの人は、富に対する信仰を抱く。
それは、簡単だからである。
多くの人がそうしているのだから、同じように振る舞えば良いだけだ。
それに、富への信仰は霊的には堕落(だらく)である。
下ることは、登ることよりも簡単なのだ。
“神”への信仰によって、意識の山を登る人は少ない。
多くの人は、富への信仰によって意識の山を下るのである。
2021年5月22日土曜日
追憶 3148
それは、心を保つためであったのだろう。
彼等は、誘惑の世界で見事に心を保った。
彼等の周りには多くの信奉者がいた。
地位も富も好きに出来る立場にあったのである。
大抵の人なら、立場を利用して地位や富を貪(むさぼ)るだろう。
しかしながら、彼等には、富よりも価値のあるものが見えていたのだろう。
彼等は、“神”に対する信仰を捨てなかった。
富に対する信仰は抱かなかったのである。
2021年5月21日金曜日
追憶 3147
イエスもゴータマもガンディーも、その気になれば簡単に大金を手に入れることが出来ただろう。
それは、彼等にはたくさんの弟子や信奉者(しんぽうしゃ)がいたからである。
現代の宗教や宗教家のように、金を集めることは難しいことでは無かったであろう。
しかしながら、彼等はそのようにはしなかった。
恐らく、イエスは財産というものを所有してはいなかったであろう。
ゴータマは、王子という地位と名誉と財産、妻と子ども(自分の道と妻子の幸福を考えた結果なのかも知れない)さえ捨てた。
ガンディーは、眼鏡やサンダルや糸巻き機など、数点の物しか所有していなかった。
彼等は、“貧乏(びんぼう)”だったのである。
2021年5月20日木曜日
追憶 3146
お金持ちの中にも尊敬することが出来る人は数え切れない程いるだろうが、それを極める程に尊敬からは遠去かるように感じる。
大き過ぎる金額や組織に飲み込まれて、翻弄(ほんろう)されているからかも知れない。
大き過ぎる金や組織には、人を狂わす魔力のようなものがあり、多くの人がそれに引き込まれてしまうだろう。
多くの人が、金で思いやりや優しさや愛を売る。
金を得るためには、思いやりや優しさや愛が邪魔なのである。
人間というものは、金を持つ程、心を失ってしまうのではないだろうか?
2021年5月19日水曜日
追憶 3145
人生において、金は大事なものではあるが、それによってより大事なものを見失ってはならないだろう。
人生においては、金で買えないものを追い求めるのが良いのではないだろうか?
金に支配されない価値観を見出すのが良いだろう。
ゴータマもイエスもガンディーも、金に支配されない価値観を見出した。
彼等が幸せであったかは分からないが、尊敬することが出来るのは確かである。
2021年5月18日火曜日
追憶 3144
金では、本質的なものは買えない。
満足や友情や愛情や人生の目的などは、どれだけ金を積んでも買うことが出来ないものである。
本当に大切なものは、無料で手に入るものなのだ。
満足も友情も愛情も人生の目的も、本物は無料で手に入る。
金で買えるものは偽りの満足であり、偽りの友情であり、偽りの愛情であり、偽りの人生の目的なのである。
2021年5月17日月曜日
追憶 3143
大抵の人は、より大きなもの、より刺激的なものを求めるだろう。
多くの人は、幼い頃に楽しく思っていたことを楽しいとは思えないのである。
それは、刺激が少ないと感じるからだろう。
多くの人は、当たり前のことに感謝することが出来ない。
当たり前は、当たり前だと思い込んでいるからだ。
金を持つと、金で買えるものに価値を見出すだろう。
値段が高い方が価値があるとも思い込むのである。
2021年5月16日日曜日
追憶 3142
金持ちは、“神”への信仰を保つことが出来ない。
それは、金を持つことによって傲慢(ごうまん)さが増してしまうからだ。
金が無ければ、小さなことにでも感謝することが出来るだろう。
幼い頃は、道端に落ちている木の枝や石ころでも楽しく遊んだものである。
しかしながら、成長と共にそのような気持ちは薄れていく。
多くの人は、より大きなものを求め、小さなことには有り難みを感じなくなってしまうのである。
2021年5月15日土曜日
追憶 3141
キリスト教の教典には、“
誰も、二人の主人に兼ね仕えることは出来ない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなた方は、神と富とに兼ね仕えることは出来ない。”というものがある。
心とは、“神”への信仰である。
心を保つ人というのは、“神”への信仰を保つことの出来る人のことだ。
“神”への信仰とは、分際を弁(わきま)え、宿命を受け入れ、思いやりを尽くして生きるということである。
傲慢(ごうまん)な者は、心や“神”への信仰を保つことが出来ないだろう。
2021年5月14日金曜日
追憶 3140
金持ちは、争わなければならない。
争うつもりが無くても、争いが発生してしまうだろう。
争いの中で心を保つことは難しい。
争いの中では、心は簡単に汚れ、歪んでしまうのである。
しかしながら、金持ちは自分が正しいと思う傲慢(ごうまん)な考えの人が多いため、心を保っていると思い込んでいるだろう。
しかしながら、金持ちで心を保っていられる人はいないのである。
2021年5月13日木曜日
追憶 3139
この世では、傲慢(ごうまん)な者が金持ちに成る。
傲慢さがなければ、金持ちに成ることは出来ない。
優しい人やお人好しなどの与える人は、他者との競争の中で奪い取ることが出来ないのである。
奪い取ることが出来なければ、金持ちには成れない。
世の中には、金持ちの美談が多く存在するが、それは、金持ちやそれに憧れる人が正当化し、美化した話に過ぎない。
雇用を生んだり、税金を納めたり、寄付をしたりと素晴らしい側面はあるが、それは一部のプロモーションに過ぎないだろう。
それは、奪って集めたものを自身の功績にしているに過ぎないからである。
2021年5月12日水曜日
追憶 3138
メディアにはスポンサーがいて、彼等の不利になることを発信することは出来ない。
金を持っている者が情報を操作することが出来るのである。
もちろん、政治を動かすのも金の力である。
金以外の力では政治は動かない。
時々、政治と金の問題で議員が辞職しているが、あれは“トカゲの尻尾切り”であり、ただのパフォーマンスである。
多くの人は給料という金で飼われている。
民主主義とはいうが、多くの人はそれを無視することが出来ないだろう。
もしも、選挙や投票の仕組みが公正であったとしても、票など金で買えるし、政治家が票を持っている金持ちを軽んじるはずがないのである。
2021年5月11日火曜日
追憶 3137
金持ちは、心を保つことが出来るだろうか?
残念ながら、それは難しいだろう。
なぜなら、金の元には多くの欲深く傲慢(ごうまん)な者が集まるからである。
金の集まるところには欲も集まる。
金を多く集めれば欲も大きくなり、そのような者との関係が深まるのである。
金持ちは、欲深く傲慢な者との関係の中でより欲深く傲慢に成り、その柵(しがらみ)からは容易(ようい)には抜け出せないのである。
2021年5月10日月曜日
追憶 3136
世の中は、便利になった。
しかしながら、心は失われた。
個人主義や自己責任論が強くなっている。
互いに助け合うということが減り、自己の利益を追求するような人間が増えた。
金持ちはより金持ちになり、貧しい者はより貧しくなっていくだろう。
経済格差は広がり、取り返しがつかないことになるだろう。
傲慢(ごうまん)な者達は、心すら金に変えたのである。
2021年5月9日日曜日
追憶 3135
しかしながら、自然環境や人間社会を顧(かえり)みなかった結果、自然環境や人間社会は疲弊(ひへい)していった。
自然環境から奪うものが無くなると、次は人から奪うようになる。
そうやって競争は激化し、最後の独りになるまで競争は続くのである。
どの業界でも統合が進み、権力や財力は集まる。
それは、多様性のない詰まらない社会の始まりなのである。
2021年5月8日土曜日
追憶 3134
多くの人は、自分が競争の中にいることを知らない。
欲が強く、傲慢(ごうまん)な者は、競争を喜んでさえいる。
欲深い者達の競争の結果が、現状の自然環境や人間社会である。
多くの人は、自然環境や人間社会を金に変えた。
その結果、懐(ふところ)は潤い、贅沢(ぜいたく)な暮らしが出来た。
多くの人は、それが豊かさだと思っていただろうし、今でもそう思っているだろう。
2021年5月7日金曜日
追憶 3133
多くの人は、肉体の欲求を満たすことを人生の目的としている。
衣食住の充実は、肉体的な欲求の現れである。
多くの人が求めている良い衣服や良い食事や良い住居というのは、極端に言えば見栄えの良いものである。
多くの人は見栄を張る。
多くの人は、他者と競(きそ)っているのである。
競争は肉体的な欲求である。
肉体の欲求は、弱肉強食の仕組みの中に生じるのである。
2021年5月6日木曜日
追憶 3132
もちろん、それは悪いことではないだろう。
肉体を自分と思い込まなければ肉体を大切にする気持ちが薄れてしまうし、肉体を通じて得られる学びや気付きも失ってしまうだろう。
すべての人は、意味があって肉体に宿っているのである。
しかしながら、肉体を自分の本質と思い込むことは、人生の本来の目的を見失うことにもなってしまう。
本来ならば、肉体に宿る意識や魂と呼ばれるものが持つ目的を果たさなければならないだろう。
しかしながら、肉体を自分だと思い込んでいる者は、肉体の目的を果たすことに専念してしまうのである。
2021年5月5日水曜日
追憶 3131
多くの人は、肉体が自分であると思い込んでいる。
母の腹の中からの付き合いである肉体が自分だと思うのは仕方のないことだろう。
すべての人は、生まれた瞬間から肉体を使いこなそうと努めてきた。
肉体と向き合う内に肉体が自分だと思い込んでしまったのである。
それに、肉体を自分と思い込まなければ、生存することが難しいだろう。
生存戦略として、肉体が自分だと思い込むように仕組まれているのである。
2021年5月4日火曜日
追憶3130
肉体は他力である。
しかしながら、喉(のど)の渇(かわ)きを潤すことも、空腹を満たすことも、怪我や病を遠ざけることも自力によって行わなければならない。
当たり前に生存することも、他力と自力の協力が必要なのである。
人間は、肉体という他力に宿った意思である。
それは、霊というかも知れないし、魂というかも知れない。
肉体が人間の本質でないことは明確である。
2021年5月3日月曜日
追憶 3129
人生は、自力だけでは完成しない。
他力と自力の両方を大切にしなければならないのである。
人間は、独りでは生きていくことすら出来ない。
他者がいて、他者の働きがあって、環境があって、他の生命がいて、他の生命の働きがあって、様々な恩恵を与えてくれるからこそ生きていられるのである。
人は、他力の中に生かされているのだ。
実は、肉体すら他力である。
なぜなら、わたし達は誰一人として心臓を自分の意思によって動かすことが出来ないからだ。
2021年5月2日日曜日
追憶 3128
多くの人が、人生を思い通りにしようとして宿命に逆らう。
多くの人は、宿命に逆らっても進んでいけると思い込んでいるのだ。
しかしながら、人が宿命に逆らって進み続けることは出来ないだろう。
川の流れに逆らい続けることの出来る人はいないのである。
あなたの体力や気力が尽きたとしても、川の流れが尽きることはない。
それと同じように、宿命が途絶えることはないのである。
2021年5月1日土曜日
追憶 3127
わたし達は、宿命に運ばれながらも、親にしがみ付く子猿のように自力で宿命に従(したが)わなければならないのだ。
川の流れに任せているだけでは、船は目的地に辿り着くことが出来ない。
船を目的地に辿り着かせるためには、川の流れという他力を活用した上で、自力によって船を操縦しなければならないのである。
思い通りにしようとして、流れに逆らうことは無謀(むぼう)であるだろう。
なぜなら、流れが途絶えることはないからだ。
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