このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2020年2月29日土曜日

追憶 2701

努力しても叶(かな)わないのであれば、諦(あきら)めが足元に転がっていることに気が付くであろう。
それを拾(ひろ)い上げてみると、満足することに気が付くはずである。
理想とは違うものではあるが、理想よりも良かったと思えるようになるということを理解しなければならない。
人生は最高の実りをもたらすが、それを収穫するかどうかは自分自身の選択である。
残念ながら、そのままの状態では、最高の実りを手にすることは出来ない。
それは、多くの場合、自らの心を放置しているからだ。
大切なのは、荒地を整え、与えられた種を蒔(ま)き、丁寧に育てることである。

2020年2月28日金曜日

追憶 2700

避けられないことは、受け入れなければならない。
何もかもを受け入れろということではないが、懸命に努力しても避けられなかったことに対しては、受け入れるべきということである。
傲慢(ごうまん)や悲観などの、受け入れることを拒(こば)む意識を抱えている状態であれば、いつまで経っても避けられないことを避けられないとして受け入れることが出来ない。
努力によって挽回(ばんかい)することが出来るなどと、期待し続けてしまうのである。
残念ながら、努力ではどうすることも出来ないことが、この世界にはたくさん存在するのである。

2020年2月27日木曜日

追憶 2699

彼の腰痛は、避けることの出来ない宿命からの要求である。
どのように足掻(あが)いても、彼は腰痛を避けられないのだ。
それは、彼にとって都合の良い状況ではない。
彼は、多くの人と同様に、自由を奪う腰痛を受け入れることが出来ないのである。
しかしながら、それが宿命からの要求であれば、受けなければならない。
残念ながら、宿命からの要求に対して、選択権は与えられていないのである。

2020年2月26日水曜日

追憶 2698

わたし達は、自らの心に出向き、余計なものを取り除き、不足を補(おぎな)わなければならない。
荒地を整地するのである。
人生には、果たすべき目的が存在し、宿命がそれを伝える。
人生の目的を果たすためには、宿命に従わなければならない。
しかしながら、宿命は、あなたの都合に関係なく必要を求める。
そのため、多くの人は、簡単には宿命の要求を受け入れることが出来ないのだ。

2020年2月25日火曜日

追憶 2697

心の中には、余計なものが多過ぎる。
そして、不足も多いだろう。
わたし達は、純粋(じゅんすい)に受け取ることが出来ない。
与えられるものに対して、様々なものを付け足したり、様々なものを削り取る。
それで、受け取った時にそれは原型(げんけい)をとどめてはいないのだ。
そこで、わたし達は自分に与えられたものが何か分からずに、苦心惨憺(くしんさんたん)しなければならないのである。

2020年2月24日月曜日

追憶 2696

人は、理(ことわり)を理解するために様々な経験をしている。
すべての経験は、理を理解するために導かれるのだ。
しかしながら、理を理解するためには、心の汚れを取り除き、美しくする必要がある。
美しい心でなければ、偏見(へんけん)と誤解を離れることが出来ず、理を理解することは出来ないのだ。
それは、荒地を整えるのと同じことである。
わたし達は、理を理解するのに妨げとなる、偏(かたよ)ったり、歪(ゆが)んだ感情を取り除かなければならないのだ。

2020年2月23日日曜日

追憶 2695

耕された畑に種を蒔(ま)けば、簡単に芽吹く。
野草や岩などに妨げられることもないので、自由に根を伸ばし、十分に育つことが出来る。
そして、多くの実りをもたらし、収穫の喜びは大きいのだ。
それは、心にも同じことである。
人は、様々な経験という種を自分自身の心に蒔く。
そして、その収穫を楽しみにしているのだ。
収穫とは、理(ことわり)への理解である。



2020年2月22日土曜日

追憶 2694

収穫とは、理(ことわり)への理解である。
理を理解することは、“神”からの恵みを受け取ることだと理解すれば良いだろう。
整えられていない人の心は、理を理解することが出来ない。
種を蒔(ま)いても、野草や岩などが妨げになって、芽吹きにまで至(いた)らないのである。
例え芽吹いたとしても、十分に根を伸ばして成長することが出来ずに、収穫にまでは至らないのだ。
収穫を実現するためには、その心を整えなければならないのである。

2020年2月21日金曜日

追憶 2693

しかしながら、彼にはそのことを理解することは出来ないだろう。
なぜなら、霊的な知識と経験が不足しているからである。
彼は、今日初めてわたしと会った。
そして、30分くらい霊的な体験と話を聞いただけである。
それは、荒地で作物を育てようとするようなことなのである。
残念ながら、彼は、整えられていないのだ。
彼は、“収穫”の出来るような土地ではないのである。



2020年2月20日木曜日

追憶 2692

霊的な問題が解決すれば、肉体的な問題も解決する。
肉体である物質は、霊体という意識に起源するのだ。
それは、霊的(意識的)な問題が生じなければ肉体的(物質的)な問題が生じないということを意味している。
霊は肉体の原因なのである。
霊(意識)を無視して肉体(物質)を理解することは出来ないだろう。
今の彼の腰には、霊的な問題が存在しない。
そのため、腰痛が治るのも時間の問題だと思えるのだ。

2020年2月19日水曜日

追憶 2691

わたしは、彼に伝えるべきことをすべて伝え終わったことを悟った。
そして、斜(なな)めに座る彼の背中を軽く押して、わたしの仕事が終わったことを告げた。
両親は、わたしに対して、大袈裟(おおげさ)に感謝を現した。
彼は、小さな声と仕草でわたしに感謝を伝えてくれた。
わたしは、彼等に、今の自分に出来ること、許されていることは”完璧”に行ったことを伝えた。
そして、心配せずに経過を観察するようにも伝えた。
霊的には、彼の腰に問題は無いように見える。
そのため、次第に回復していくように思えるのである。

2020年2月18日火曜日

追憶 2690

しかしながら、多くの人は、そのことを忘れている。
多くの人は、自分が正しいと思い込んでしまっているのだ。
自分が強い立場の時には、弱い立場の時のことを忘れている。
自分が許(ゆる)される立場であった過去を覚えているのであれば、自分自身や相手を許すことが出来るはずなのである。
過去を忘れてしまえば、人は傲慢(ごうまん)に陥(おちい)り、自分勝手に振る舞ってしまう。
そうなれば、問題ではないことを問題とするような歪んだ状態を生きなければならないのである。

2020年2月17日月曜日

追憶 2689

人は、自らの過去を忘れている。
人は、様々な人生を生きて、様々な立場を経験し、様々な感情を抱いたことがあるのだ。
それは、今世においても経験していることである。
人は、生まれてから今までに、様々な立場と感情を経験している。
強い立場の時もあれば、弱い立場の時もあったはずである。
許(ゆる)す立場の時もあれば、許される立場の時もあっただろう。
助ける立場の時もあれば、助けられる立場の時もあったはずだ。
そのことを思い出せば、傲慢(ごうまん)にいられるはずがないのである。

2020年2月16日日曜日

追憶 2688

もちろん、映画の印象的な場面は覚えているし、自分自身に大きな影響を与えているだろう。
しかしながら、それを常に覚えている訳ではないし、思い出すまでは忘れている。
前世の体験も同じように、常に覚えている訳ではないし、思い出すまでは忘れているのである。
新しい映画の撮影に入ると、以前の映画のことや、その役のことなど忘れているだろう。
新しい映画を観る時にも、以前の映画のことなど忘れているのである。
何から何まで覚えていられる程、人は、記憶力が良いものではないのだ。

2020年2月15日土曜日

追憶 2687

映画の上映が終わることは、人生が終わることである。
多くの人は、死を以(もっ)て人生を離れなければ、人生や自分自身を客観視することが出来ないのだ。
人生における様々な出来事は、シナリオに従って展開する必要であり、何一つとして偶然などではない。
人生を離れると何とも思わない体験をしているのである。
前世の体験をほとんど覚えていないのは、わたし達が今までに観てきた映画をほとんど覚えていないのと同じなのだ。



2020年2月14日金曜日

追憶 2686

映画の中では、様々な問題が生じ、主人公は苦しんでいる。
しかしながら、それは、主人公が苦しんでいるのであって、それを演じている役者が苦しんでいるのではない。
役者にとっては、作中の問題や苦しみは幻想なのである。
問題や苦しみを経験しているように見えるが、それを主人公として体験してるのである。
映画を観ている観客達は、主人公に感情移入して、主人公の問題や苦しみを間接的に体験する。
映画を観ている時には、それはとても現実的な体験であるが、映画を観終わってしまえば、それが自分の現実ではなかったことに気が付く。

2020年2月13日木曜日

追憶 2685

本来ならば、人生に問題というものは起きない。
人生における問題というものは、人間の主観によって創り出された概念(がいねん)でしかなく、端的(たんてき)に言えば偏見(へんけん)であり、誤解に過ぎない。
問題というものは、思考の中の存在であり、出来事でしかないのだ。
なぜなら、同じ問題というものは存在しないからである。
人間が共感していると思い込んでいる問題は、決して同じものではない。
思考の中で、同じ問題として自分勝手に認識しているだけなのである。

2020年2月12日水曜日

追憶 2684

人生におけるスポンサーとは、“神”のことである。
“神”という存在が無ければ、人生という映画は撮影も上映も出来ないのである。
しかしながら、“神”が口煩(くちうるさ)く人生に口を出すことはない。
“神”は、あなたとその人生を見守るだけなのだ。
映画の撮影が始まったら、すべてを監督に任せるという立ち位置なのである。
そのため、“神”に祈っても意味が無い。
残念ながら、“神”が助けてくれることなど無いのである。

2020年2月11日火曜日

追憶 2683

人生における監督とは、宿命のことである。
宿命は、人生の目的に沿(そ)った指導をする。
宿命は、あなたが人生の目的から逸脱(いつだつ)しないようにしているのだ。
すべての人生には、避けることの出来ないシナリオが用意されている。
役者がどのように抵抗し、反発しても、映画のシナリオを書き換えることは出来ない。
役者は、与えられた配役を懸命に演じなければならないのだ。
それ以外には、何の権限も与えられてはいないのである。



2020年2月10日月曜日

追憶 2682

役者には、台詞と動作が与えられている。
役者は、与えられた台詞と動作をこなさなければならない。
多少のアレンジやアドリブは許されるが、シナリオに干渉(かんしょう)することは許されない。
それは、映画には監督が存在するし、その上にはスポンサーが存在するからである。
役者は決して、監督に逆らうことは出来ない。
監督に逆らって自分勝手に演じてしまえば、映画のシナリオ自体が崩壊(ほうかい)してしまうからである。
当然のことながら、スポンサーに逆らうことなど出来ないのである。

2020年2月9日日曜日

追憶 2681

人生は、映画のように考えれば良いであろう。
人生には、目的が存在している。
すべての人は、目的を果たすために生まれてくるのである。
人生の目的を果たすために宿命という道筋が設(もう)けられ、すべての人がそれを歩んで行く。
人生のシナリオは、人生を始める前に決められていると考えた方が自然であるだろう。
人は、人生を演じる役者なのである。



2020年2月8日土曜日

追憶 2680

そこに必要性や価値や意味を理解すれば、それに不安や心配を抱えることはない。
結末を知っていることに対して、不安や心配を抱えることはないだろう。
人生におけるすべての状況は、そのすべてが結果として必要や価値や意味と成る。
必要や価値や意味と成ることが分かっているのだから、不安や心配を抱える必要が無いということなのである。
どう成るか分からないことに対しては、不安や心配を抱えることも良いであろう。
しかしながら、人生は必ず必要や価値や意味へと辿り着くのである。

2020年2月7日金曜日

追憶 2679

苦しみを苦しみとしていれば、人は傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ってしまう。
それは、苦しみを抱えている人は、不安や心配に怯(おび)えているからだ。
不安や心配を手放すことが出来ないからこそ、苦しみを楽しみに変えることが出来ないのである。
必要性や価値や意味を理解すれば、苦しみは苦しみとしての形を保つことは出来ない。
苦しみは、必要性や価値や意味を理解することによって、楽しみへと変わるのである。

2020年2月6日木曜日

追憶 2678

振り返っても、そこに必要性や価値や意味を見出すことが出来なければ、もう少し歩みを進めてみれば良い。
そうして振り返ってみた時には、それが必要であること、価値や意味があることが分かるはずである。
わたし達は、人生というものを信用しなければならない。
人生を信用しなければ、人生は詰(つ)まらないものになってしまうのである。
人生は、本来ならば楽しいものである。
基本的には苦しいことばかりではあるが、苦しみも、振り返ってみれば楽しいものなのである。

2020年2月5日水曜日

追憶 2677

残念ながら、人生には、不要や無価値や無意味は実現しない。
どのような状況も必要であり、価値があり、意味があるのだ。
どうしても、そうなってしまうのである。
どれだけ自暴自棄(じぼうじき)に生きたとしても、それが必要であり、価値であり、意味になってしまう。
人生とは、そのような場所なのである。
人生を振り返ってみた時には、そのことを理解することが出来るだろう。

2020年2月4日火曜日

追憶 2676

人生を信用していないから、人生に対して不安や心配を抱えるのである。
信用することの出来ない人に対しては、不安や心配を抱えてしまうだろう。
それと同じことなのだ。
人生を信用していない人は、人生に不要や無価値や無意味が実現すると信じている。
人生に不要や無価値や無意味が実現することを信用しているのだ。
それが、傲慢(ごうまん)であることを理解しなければならないだろう。
自分が正しいと思っていなければ、人生を正しいと思い、信用することが出来るはずなのである。

2020年2月3日月曜日

追憶 2675

自分が正しいと思っている人が、不平不満を吐くことは分かり易(やす)い心理である。
しかしながら、不安や心配を抱えている人が自分が正しいと思っているということは理解し難い心理であるだろう。
不安や心配を抱えている本人でさえ、自分が正しいとは思ってはいないのである。
しかし、不安や心配を抱えている人も、自分が正しいと思い込んでいると理解しなければならない。
なぜなら、人生を信用してはいないからである。

2020年2月2日日曜日

追憶 2674

多くの人は、何かに噛(か)み付いている。
不平不満を吐き、不安を抱えているのである。
大抵の場合、それは、目の前の他者や取るに足らないことに対して向けられるのであるが、それは間接的に人生(神)に噛み付いているということだと理解する必要があるだろう。
人生(神)に噛み付く者が、人生において満たされる訳がないのである。
それは、当たり前のことであるが、そのことに気が付くのは難しい。
なぜなら、大抵の人は自分が正しいと思い込んでいるからだ。

2020年2月1日土曜日

追憶 2673

傲慢(ごうまん)に陥(おちい)った心は、守ることや分け与えることが出来ない。
満たされていないので、自分自身で得ようとするのだ。
満たされていないと、欲深くなってしまうのである。
欲深い人というのは、満たされてはいない。
そして、弱さを抱えている。
それは、とても苦しいことなのである。
噛(か)み付かなければならない犬は、苦しんでいるということを理解しなければならないだろう。