光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2019年11月30日土曜日
追憶 2610
なぜなら、それが楽しかったからだ。
小学六年生のわたしには、学校でガムを食べることは悪いことだと分かっていた。
恐らくは、誰もがそのことを知っていたであろう。
なぜなら、誰もが教師に隠れてガムを食べていたからである。
後ろめたい気持ちがなければ、隠れて食べる必要など無いのだ。
しかしながら、わたし達は隠れてガムを食べた。
そこには、罪悪感と緊張感との葛藤(かっとう)があった。
そのような刺激は、人の心を魅了するのである。
2019年11月29日金曜日
追憶 2609
人は、長くその状態にいると、それがどのようなものであろうとも、親近感を覚えてしまうものである。
嫌悪から入ったとしても、いつの間にかに愛着に変わっていたりするのだ。
ブラック企業や歪んだ宗教から抜け出すことが出来ないように、万引きや飲酒運転や痴漢(ちかん)などの犯罪を繰り返してしまうように、それが悪いことだと知っていても、繰り返してしまうのである。
わたしは、小学生の頃に、友人達と校則を破って学校や登下校中にガムを食べるという行為をしたことがある。
わたしが始めたことではなかったし、それが悪いことだと知ってもいた。
しかしながら、表立って問題になるまでは、それを続けていたのである。
2019年11月28日木曜日
追憶 2608
人生における辛い状態というのは、人と自我意識を強制的に切り離すための状況なのである。
強制的に切り離すことをしなければ、人はそれを手放しはしない。
家庭内暴力の被害を受けているのに、相手と別れようとしない哀(あわ)れな人に似ている。
薬物に苦しんでいるのに、それを手放すことが出来ない哀れな人にも似ているのである。
多くの人は、自我意識に従(したが)って現状を維持しようとする。
自我意識の支配によって、いつの間にかにそれが良いと思い込んでしまうのである。
2019年11月27日水曜日
追憶 2607
もちろん、それは身体だけに限ったことではない。
自分自身や他者や、他の生命や道具に対しても、配慮(はいりょ)が足らなかった結果であるだろう。
優しさや思いやりを欠いた結果が、彼の場合は腰を痛めるという状態として現れたのであろう。
今回、彼が腰を痛めたのは、それが今の彼にとって最も辛いことだからではないだろうか?
最も辛い状態に陥(おちい)ることがなければ、人は自分を改めることがないであろう。
余裕がある状態では、同じことを続けようとするのが自我意識の働きというものなのである。
2019年11月26日火曜日
追憶 2606
彼の陥(おちい)っている傲慢(ごうまん)も、低い意識帯に属する状態であるだろう。
傲慢さには、優しさや思いやりは存在しない。
寧(むし)ろ、優しさや思いやりを欠いた状態こそが傲慢なのである。
優しさや思いやりを欠けば、どのようなものも傷んでしまう。
彼は、無意識の内に傲慢によって身体を痛めたのであろう。
身体に対して、優しさや思いやりが十分であれば、彼が腰を痛めることもなかったように思える。
2019年11月25日月曜日
追憶 2605
わたしが彼に伝えた言葉は、わたしのものではない。
わたしの心や頭から生み出され、口を使って出た言葉ではないのである。
それは、"天"からの言葉なのである。
"天"とは、高い意識のことだと理解すれば良いだろう。
高い意識とは、優しさや思いやりなどの温かいと感じる意識のことである。
残念ながら、多くの人は、どちらかといえば低い意識帯を生きているのではないかと思う。
優しさや思いやりを感じることは多々あるが、それよりも怒りや不安や心配の方が勝っているように思えるのである。
2019年11月24日日曜日
追憶 2604
完全な純粋ではないわたしには、誰かを救う力などない。
手助けをすることで精一杯である。
彼は、自分の選択によって自分を救わなければならないのだ。
彼だけが、唯一彼を救うことが出来るのである。
しかしながら、自分の考えだけでは自分を救うことは出来ない。
なぜなら、自分の考えによって選択した結果、現状に至(いた)ったからである。
腰を痛めたのは、自分の考えの結果である。
違う考えであれば、違う結果を得ていたはずなのだ。
2019年11月23日土曜日
追憶 2603
わたしを通して出る言葉のすべてを信用するのは危険なことだ。
なぜなら、わたしも未熟な存在であるからだ。
すべての人が未熟なのである。
他者を無条件に受け入れてはならない。
必ず、疑いを以(もっ)て信用しなければならないのである。
変な表現になってしまったが、人を通じて出る時点において、完全な純粋ではない。
どれだけ努めても、人を通してしまえば、完全な純粋を出すことは出来ないのである。
必ず不純物が混ざってしまう。
そのことは理解しなければならないのである。
2019年11月22日金曜日
追憶 2602
霊的な存在からの言葉を使って、自らの抱える傲慢(ごうまん)を手放すのも、保持するのも、彼の自由なのだ。
わたしには他者の人生を決める力は無い。
これは、仕方の無いことなのである。
わたしには、見守ることしか出来ない。
彼以外の誰も、彼を救うことは出来ないのである。
彼の反応を見ていると、霊的な存在からの言葉は響いていないように思える。
彼は、わたしを通して出た霊的な存在からの言葉を信用していないのではないだろうか?
2019年11月21日木曜日
追憶 2601
彼は相変わらず、第二匍匐(ほふく)のような体勢で座っている。
痛々しい姿に同情したが、わたしには仕事が残っていた。
わたしは、もう一度、彼等に霊的な存在からの言葉を伝えた。
霊的な判断によって、わたしはもう一度、霊的な存在からの言葉を伝えなければならなかったのである。
両親からは、大袈裟な程の相槌(あいづち)や返事が得られた。
しかし、彼からは、やはり薄い反応しか得られなかったように思える。
わたしの仕事は、霊的な存在からの言葉を伝えることだ。
彼を説得することや、彼を救うことはわたしの仕事ではない。
わたしには、そのような権限は与えられてはいないのである。
霊的な存在からの言葉をどうするか?は、それを受け取った本人の判断なのだ。
2019年11月20日水曜日
追憶 2600
天からの光は、わたしの手元に真っ直ぐに届き、刀を黄金色に照らしている。
わたしが彼に必要な言葉を伝えたことで、この刀の役目は終わったのであろう。
刀が軽くなった気がしたので手を離すと、刀がふわりと浮いて光に導かれるように高く昇っていった。
そして、刀が光の先に見えなくなった時に、天が閉じて一切の光が失われた。
わたしは暗闇に取り囲まれたような気分であったが、瞼(まぶた)の裏を見ていることに気が付いて、それを持ち上げた。
2019年11月19日火曜日
追憶 2599
わたしは、彼の腰から抜いた刀を持ったままで、彼の背中に淡々と語り掛けた。
彼の反応はとても薄いものであったが、気にせずに必要な言葉を伝えた。
そして、彼が病に陥(おちい)ってしまったのは彼の責任ではあるが、再び病に陥らないためには周囲の協力も必要であるということを両親にも伝えた。
人は、良いことを知っていても、良いことは出来ないものである。
知っていることと、出来ることは全く異なるということを理解しなければならないのだ。
彼に必要な言葉を伝え終えると、天から一筋の光が射した。
2019年11月18日月曜日
追憶 2598
人生は、あなたを成長させるためのアドバイスを授(さず)け続けている。
それを受け取るかどうかは、自分次第なのだ。
人生は、常にあなたに"謙虚(けんきょ)であれ"と伝え続けている。
わたし達は、傲慢(ごうまん)を手放し、謙虚さを手に入れなければならないのだ。
謙虚でなければ、人生からのアドバイスを聞き入れることは出来ない。
耳を澄まして聞こうとしない者には、山中の湧き水で喉(のど)の渇きを潤すことは出来ないのである。
謙虚な姿勢で人生を受け入れない者には、豊かさで心を満たすことが出来ないのである。
2019年11月17日日曜日
追憶 2597
山の中の湧き水は、常に音を響かせている。
そして、その音は耳の聞こえるすべての人に聞かされているのである。
問題は、それを認識することが出来るかどうか?ということであろう。
頭に眼鏡を乗せている人が、眼鏡を探すという古典的な笑いがあるが、人は、目の前に存在するものでも、それを見失ってしまうものなのだ。
山の中の湧き水の音は、誰にでも聞こえているが、それを認識することの出来る人は限られているのである。
2019年11月16日土曜日
追憶 2596
人生が直接的に何かを伝えることはない。
人生は、間接的にメッセージを伝えるのである。
そのため、人生からのアドバイスを受けられるかどうかは、人によって異なるのである。
人生からのアドバイスを受けようと思い、そのメッセージを悟ろうとしている人には、そのメッセージが届くだろう。
例えば、山の中で水の湧き出る音が聞こえたとしても、それを探そうとしない者には、見付けられない。
そして、実際に探さない者が水を飲むことはないのである。
2019年11月15日金曜日
追憶 2595
ただでさえ、多くの人は他者からの助言や忠告を受け入れることは出来ない。
他者がどれ程その人のことを思っていたとしても、それを受け入れることは難しいのである。
多くの人は、他者からの助言や忠告よりも、傲慢(ごうまん)を愛しているのだ。
目の前の相手が、理解することの出来るように分かり易く砕いた言葉さえ受け入れることが出来ないのである。
人生からのアドバイスは、自らが悟らなければならないものなのだ。
他者のように優しく教えてくれるようなことはないのである。
2019年11月14日木曜日
追憶 2594
当然ながら、人生は言葉を持たない。
人生が言葉で話し掛けてくることはない。
人生の言葉とは、現状である。
人生は、現状によってあなたにメッセージを伝えているのだ。
人生からのアドバイスを受けるためには、現状を素直に受け入れなければならない。
現状を素直に受け入れることが出来ない者には、人生からのアドバイスを得ることは出来ないのである。
現状を受け入れることは容易(ようい)ではない。
誰にとっても、現状を受け入れることは難しいのである。
2019年11月13日水曜日
追憶 2593
人生は、信用に値する。
それは、人生だけがあなたの生まれた理由を知っているからである。
人生だけが、あなたの果たすべき目的を知っている。
人生に教えてもらわなければ、あなたが果たすべき目的を理解することは出来ないのだ。
人生に教えてもらうためには、人生を信用していなければならない。
人は、信用していない相手の話を聞き入れることをしないのである。
人生を信用していない者には、人生からのアドバイスを受け入れることは出来ないということを理解しなければならないだろう。
2019年11月12日火曜日
追憶 2592
だから、問題に対して本気で悲しみ、怒り、絶望し、恨(うら)むのである。
もしも、問題が傲慢(ごうまん)を砕くために導かれているということを理解していれば、そのようなことにはならないのである。
人生のシステムである、問題が導かれる目的を理解するのであれば、問題に対しては感謝の気持ちが芽生えるはずなのだ。
問題に対して、感謝の気持ちを抱くことが出来ないということは、問題が導かれる理由を理解することが出来ていないということである。
そして、人生を信用することが出来ていないということなのである。
2019年11月11日月曜日
追憶 2591
それは、岩を波で砕くようなものである。
岩を波で砕くことは、容易(ようい)なことではない。
それがとても大変であることは、誰にでも想像することが出来るだろう。
傲慢(ごうまん)を問題によって砕くことも、岩を波で砕く程に大変なことなのである。
しかしながら、多くの人はそのことを知らない。
問題が傲慢を砕くために導かれていることすら知らないでいる。
多くの人は、問題は自分を苦しめ、自分を不幸にすると本気で思っているのである。
2019年11月10日日曜日
追憶 2590
人生は、あなたに目的を果たさせようとする。
あなたは、人生において、目的を果たさなければならない。
しかしながら、あなたは傲慢(ごうまん)によって、人生の目的を否定するのである。
そこで、あなたには、軌道修正のための補助(ほじょ)が与えられるのだ。
それが、人生における様々な問題であり、苦しみなのである。
そうでもしなければ、軌道修正は実現しないのだ。
人の抱える傲慢とは、とても硬いものなのである。
2019年11月9日土曜日
追憶 2589
傲慢(ごうまん)であれば否定する。
傲慢であれば、受け入れることは出来ない。
傲慢であれば、感謝することは出来ないのである。
傲慢な者が、人生の目的を果たすという現状へと辿り着くことは出来ない。
人生が思い通りに展開するということは有り得ないが、傲慢な者は人生を自分の思い通りに展開しようとする。
自分の思い通りに展開させたところで、人生の目的を果たすことは出来ない。
自分の思い通りにすれば、人生の目的からは遠ざかっていくばかりなのである。
2019年11月8日金曜日
追憶 2588
それは、人生の目的を果たすためには、人生の目的を果たすという現状へと辿り着かなければならないからである。
人生の目的を果たすという現状へと辿り着くためには、プラスの状態を実現しなければならない。
プラスの状態とは、感謝の状態である。
人は、感謝することによって成長を実現する。
人は、成長することによって、人生の目的を果たすという現状へと近付くことが出来るのだ。
否定を続けるのであれば、マイナスの状態によって成長を実現することは出来ない。
感謝というプラスの状態でなければ、成長を実現し、人生の目的を果たすという現状へと辿り着くことは出来ないのである。
2019年11月7日木曜日
追憶 2587
受容(じゅよう)を無理なく行うことが出来るようになれば、感謝を行うことが出来るようになるだろう。
それは、受容というゼロの状態から、感謝というプラスの状態への移行である。
感謝を行うことによって、人は豊かさを得ることが出来る。
感謝することが出来なければ、豊かさは得られないのだ。
人生には、果たさなければならない目的というものが存在する。
人生の目的を果たすためには、感謝する必要があるのだ。
2019年11月6日水曜日
追憶 2586
人は、難しいことを遠ざける。
多くの人は、現状に問題を抱え、不満と共に生きている。
不満は文句となり、心に汚れを蓄積するのだ。
心の在り方を改善しなければ、現状の問題が解決することはない。
心の在り方を改善するためには、先ずは文句を吐くことをやめなければならない。
文句を吐くことをやめることが出来なければ、不満から逃れることは出来ないのである。
不満から逃れなければ、心の在り方を改善することは出来ないのだ。
例えば、不満を受容(じゅよう)に改めることである。
不満とは、否定の形である。
受容とは、不満とは真逆の行為であるだろう。
それは、不満というマイナスの状態から、受容というゼロの状態に現状を移行させるということである。
2019年11月5日火曜日
追憶 2585
嫌なことを続けていては、心の在り方を改善することは出来ないだろう。
同じことを続けていたとしても、思考や感情の選択を変えれば良いのである。
楽しいことを始めるか、楽しむことを始めることが大切であるだろう。
それが努力なのである。
問題を解決するためには、問題を引き起こした思考や感情を手放さなければならない。
それ等とは別の思考や感情を用いなければ、問題が解決することは無いと考えなければならないだろう。
多くの人は、嫌なことを続けている。
それは、惰性(だせい)であったり、恐れであったりする。
新しく思考や感情を取り入れ、それを用いるのは、想像以上に難しいことなのである。
2019年11月4日月曜日
追憶 2584
努力とは、積み重ねのことである。
無理を強いることは努力とは呼べないだろう。
多くの人は、苦行によって成果が現れると思っているが、苦しんだからといって成果が現れるという訳ではないだろう。
"好きこそ物の上手なれ"という言葉がある。
嫌なことを無理して行うよりも、ただ好きなことをする方が、よっぽど良い結果を得られるということであろう。
好きなことや楽しいことには、自然と熱中して、無理なく勉強や工夫を続けることが出来る。
それが努力なのである。
2019年11月3日日曜日
追憶 2583
覚えておかなければならないのは、投げ入れた石の数だけ取り出さなければならず、取り出した石の数だけ投げ入れなければならないということである。
多くの人は、心の在り方が簡単に変わると考えるかも知れない。
しかしながら、人は長い年月を掛けて、心の在り方を築いてきたのである。
長い年月を掛けて築いたものを簡単に取り壊し、再建することが出来るだろうか?
残念ながら、それは難しいことなのである。
心の在り方を変えるためには、想像を超えた努力が必要であるということを理解しなければならないだろう。
2019年11月2日土曜日
追憶 2582
わたし達は、籠の中にどのような石を投げ入れるかを決めることが出来る。
小さな石を入れることも、大きな石を入れることも出来るし、土に塗(まみ)れた石を入れる
ことも出来るし、美しく輝く石を入れることも出来る。
目の前の状況に対して、どのように考え、どのように思うかは、自分次第なのだ。
思考や感情をある程度操作することは出来ても、心の在り方を操作することは出来ない。
わたし達に出来ることは、既(すで)に投げ入れてある籠の中の石を取り出し、他の石を
投げ入れることだけだ。
あなたが天の国の近くに住みたければ、例えば、傲慢(ごうまん)を取り出し、謙虚(けんきょ)を投げ入れなければならないだろう。
2019年11月1日金曜日
追憶 2581
心の在り方とは、思考や感情の累積(るいせき)の結果である。
わたし達は、小石を動かすことは出来るが、それを大きな籠(かご)に入れたものを動かすことは出来ない。
思考や感情は小石のようなものである。
そして、心は籠のようなものと考えれば良いであろう。
わたし達は、日々心の籠に思考や感情の小石を投げ入れている。
石の大きさは、思考や感情の大きさによってまちまちである。
しかし、毎日それを投げ入れているのだ。
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