光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2021年6月30日水曜日
追憶 3187
傲慢(ごうまん)な人は、いつか失わなければならない財産のために生きている。
それは、イソップ寓話(ぐうわ)の“アリとキリギリス”のキリギリスのような生き方なのである。
アリは、冬が来ることを知っていた。
そのため、冬が来た時のために働き続けていたのである。
キリギリスは、冬が来ることを知らなかったのであろう。
そのため、春と夏と秋を遊んで暮らしたのである。
キリギリスは、今が良ければ良いという刹那的(せつなてき)な生き方をしたのであった。
2021年6月29日火曜日
追憶 3186
この世で財産を貯(たくわ)えたとしても、あの世に宝を貯えることにはならない。
あの世に宝を貯えるためには、思いやりや優しさ、許(ゆる)しや愛情によって貢献(こうけん)しなければならない。
思いやりや優しさ、許しや愛情によって施(ほどこ)せば、あの世に宝を積むことが出来るのである。
この世の財産はいつかは必ず失わなければならないが、あの世の宝はどうやっても失うことは出来ないのである。
それは、誰も奪うことの出来ない宝なのだ。
2021年6月28日月曜日
追憶 3185
物質的な富を信仰(しんこう)している人は、嵐の海で船に助けを求めているようなものである。
船が沈みそうな時に、沈みそうな船に助けを求めるだろうか?
恐らく、多くの人は、船よりも“大きなもの”に助けを求めるだろう。
困った時の神頼みということである。
死を前にすれば、富への信仰など消え去ってしまう。
この世の財産をあの世で使おうという人はいないだろう。
それに、この世の財産をあの世に持っていった人など、恐らくはいないだろう。
この世の財産など、あの世では何の役にも立たないのである。
2021年6月27日日曜日
追憶 3184
富は大切なものに違いはない。
しかしながら、それは手段であって目的ではないだろう。
わたし達は、富を得るために生まれたのではないのだ。
富は、信仰(しんこう)の対象にはならないだろう。
それは、嵐の海で船に助けを求めるようなものだからである。
嵐の海で、今にも沈みそうな小さな船に助けを求めるだろうか?
2021年6月26日土曜日
追憶 3183
それは、以前にわたしも富を信仰していたからだ。
わたしは元来、富への信仰は持っていなかったが、高校生くらいから霊的な生き方に出会うまでは、富への信仰を持っていたように思う。
その信仰は、特別大きなものではなかったように思うが、富への信仰は抱いていた。
それは、“神”を知らなかったからである。
“神”への信仰というものがあることを知らなかったから、周りの人たちが行っている富への信仰をしていたのだ。
2021年6月25日金曜日
追憶 3182
誰かや何かのせいにするというのは、傲慢(ごうまん)である。
傲慢とは、恥(はじ)なのである。
しかしながら、多くの人はそのことに気が付かない。
富を信仰することは恥であるが、多くの人は富を崇(あが)める。
多くの人は、恥を恥とも思っていないのだ。
寧(むし)ろ、それを誇(ほこ)っている。
傲慢な人が横柄(おうへい)に振舞っているのを見ると、見ているこっちが恥ずかしくなってしまう。
2021年6月24日木曜日
追憶 3181
その経験が無駄ではないことに気が付くまでは、許(ゆる)せないことや不平不満は続く。
許せないことや不平不満が続くのは、あなたが偏見(へんけん)を抱えているからだ。
誰かや何かが変わらないからではない。
偏見を手放すことが出来れば、許すことが出来るし、不平不満を吐かなくても済むだろう。
許せないことや、不平不満を吐いている自分の愚(おろ)かさに気が付き、それに恥じ入るまでは、誰かや何かのせいにするという恥をかき続けなければならないのである。
2021年6月23日水曜日
追憶 3180
許(ゆる)すことが出来ないのも、不平不満を吐くのも偏見(へんけん)である。
なぜなら、人生には最善しか実現しないからである。
無駄に思えることはあっても、無駄ではないのだ。
それに気が付くのは後のことである。
様々な経験を通して成長した後に、無駄に思っていただけだと気が付くのである。
その時には、許せなかったことや不平不満を吐いていたことを恥じるだろう。
2021年6月22日火曜日
追憶 3179
本来ならば、自尊心は重荷である。
自尊心は、私たちを小さな価値観の中に閉じ込めてしまう囲(かこ)いなのだ。
人は、自尊心という小さな囲いの中で偏見を育てる。
傲慢な人程、自尊心が高い。
傲慢な人程、許(ゆる)すことが出来ないし、すぐに不平不満を吐くのだ。
2021年6月21日月曜日
追憶 3178
傲慢(ごうまん)な人は、問題を誰かや何かのせいにする。
それは、自分が正しいと思っているし、誰かや何かのせいにする方が簡単だからだ。
誰かや何かのせいにすれば、自分の考えや判断を改める必要がないのである。
傲慢な人は、誰かや何かを責め立てることで、自身を正当化する。
そうやって、小さな自尊心を守っているのである。
2021年6月20日日曜日
追憶 3177
考え方や判断を変えることは、道を変えることである。
それは、道を塞ぐ問題と争わず、より良い方法や道を見付けて進むことだ。
考え方や判断を変えるためには、傲慢(ごうまん)さを手放さなければならない。
自分自身が折れなければ、考え方や判断を変えることは出来ないのである。
傲慢な人にとって、それはとても難しいことだろう。
そのため、傲慢な人は自分自身を改める前に、道を塞ぐ問題をどうにかしようと努めるのである。
2021年6月19日土曜日
追憶 3176
道を変えても、目的地が変わる訳ではない。
扉は、押して開かなければ引かなければならないのである。
思い通りに道を進むことは出来ない。
思い通りに進もうとすれば、必ず問題が生じ、道を塞いでしまうからだ。
問題が生じた道を進もうとすれば、更なる問題が生じる。
問題を引き起こした原因は、その道を進もうとした考え方や判断にある。
考え方や判断が違えば、それ以上の問題は生じないのである。
2021年6月18日金曜日
追憶 3175
傲慢(ごうまん)な人は、問題を突破して進もうとするだろう。
傲慢な人は、問題の先に道が続いていると思い込んでいるのである。
しかしながら、問題は進むべき本来の道に誘導(ゆうどう)しようとしているのである。
壁を突き破って進もうとすれば、やがて力は失われてしまう。
目的地に辿り着くためには、壁を避けて進まなければならないのである。
2021年6月17日木曜日
追憶 3174
多くの人は、何かしらの問題が進むべき道を塞いでいると考えるかも知れない。
しかしながら、人生は、あなたの邪魔をするために問題を導く訳ではないのだ。
人生に起きる問題は、あなたを正しい道へと戻すための誘導(ゆうどう)なのである。
目的地を見失っているなら、教えてもらうしかない。
人生における様々な問題は、あなたを目的地へと導く案内なのだ。
人生は、様々な問題によって、間違って進もうとしている道を塞いでいるのである。
2021年6月16日水曜日
追憶 3173
人生の汚染とは、本来の進むべき道を逸(そ)れることだと理解すれば良いだろう。
すべての人は、人生に目的を以(もっ)て生まれる。
すべての人生には、果たさなければならない目的が存在しているのである。
すべての人には、辿り着かなければならない目的地が存在する。
人は、目的地に向かって進まなければならないが、道を逸れてしまうのが人の性(さが)なのだ。
それは、辿り着かなければならない目的地を見失っているからである。
2021年6月15日火曜日
追憶 3172
自然災害は、自然界の浄化作用なのである。
自然界に起きることは、人生にも起きている。
同じ法則の世界に存在しているのだから当然である。
自然界で起きることの規模を小さくしたものが、人生にも起きているのだ。
人生における様々な災(わざわ)いは、あなたがバランスを欠いたことで生じる。
バランスを欠くことで、人生が汚染されてしまうのである。
2021年6月14日月曜日
追憶 3171
自然界には、最善のバランスというものがある。
それが崩れると汚染が始まる。
自然界には、汚染を解決するために何かが増減する。
そうやって浄化されるのである。
傲慢(ごうまん)な人は、それを問題として扱うだろう。
自然災害は、自然界がバランスを取り戻すための浄化作用である。
それ以外の理由で、傲慢な人が自然災害と呼んでいるものが生じることはない。
2021年6月13日日曜日
追憶 3170
傲慢(ごうまん)な人程、都合の悪いことを嫌う。
傲慢な人程、都合の良いことが美しいと思うだろう。
しかしながら、自分に都合の良いことを追求すると、偏(かたよ)りが生じてしまう。
それは、都合とは好みのことだからである。
好みで選んでいると、必ず問題が生じる。
それは、バランスが保てないからだ。
2021年6月12日土曜日
追憶 3169
自然界は、様々な生命の営(いとな)みの繋がりによって豊かさを紡(つむ)いでいる。
無数の生命が、それぞれの役割を果たすことによって豊かさという結果が導かれるのである。
自然界は、常に浄化(じょうか)を目指している。
美しさこそが、自然界の目指すところである。
自然的な美しさこそが豊かさなのである。
人間の考える美しさは、自然的な美しさには到底及ばない。
それは、人間的な美しさとは異なるのだ。
自然的に美しくなければ豊かではなく、豊かでなければ美しくはないのである。
2021年6月11日金曜日
追憶 3168
草木が少ない方が都合が良い。
昆虫や動物がいない方が都合が良い。
食品は腐らない方が都合が良い。
病気は薬で抑(おさ)える方が都合が良い。
嫌いな相手はいなくなる方が都合が良い。
傲慢(ごうまん)な人間にとって害のあるものを排除(はいじょ)しようと努めた結果が、現代の便利で“豊かな”暮らしなのである。
2021年6月10日木曜日
追憶 3167
しかしながら、意識の山の低い所にいる人程、そのことが分からない。
物質的で、傲慢(ごうまん)な人程、理想を強く求めるのである。
そのため、都市部では、人の暮らしは便利なものになっていく。
それは、願望を実現する気持ちが強いからだ。
その結果、都市とそこで生活する人々は、自然から離れていく。
富を信仰(しんこう)すると、都合の良い便利な暮らしが手に入る。
しかしながら、それと引き換えに、都合の悪い不便な暮らしを受け入れる謙虚(けんきょ)さが失われてしまうのである。
2021年6月9日水曜日
追憶 3166
どこで何を得ても、それが自分にとって相応(ふさわ)しいということを理解しなければならないだろう。
相応しいものを断ち切るのは不自然である。
多くの傲慢(ごうまん)な者には、自分に相応しい都合の悪さを受け入れることが出来ない。
この世には、陰陽(いんよう)の仕組みによって必要悪というものが存在するのだ。
すべてを都合の良いもので揃(そろ)えることは不自然だし、そんなことは出来ないのである。
2021年6月8日火曜日
追憶 3165
人は、意識の山の段階に相応(ふさわ)しいものを得る。
都合に関係なく、縁(えん)のあるものは今の自分にとって相応しいのである。
意識の山の低い所にいる者には、金や物が手に入る。
しかしながら、同時に争いや空しさも手に入る。
それが相応しいのである。
意識の山の高い所にいる者には、心や気付きが手に入る。
しかしながら、同時に孤独も手に入るのである。
2021年6月7日月曜日
追憶 3164
それは、人生には、必要だけが実現するからである。
人は、自分に相応(ふさわ)しい縁(えん)を得る。
都市には都市の暮らしがあるし、山には山の暮らしがあるのだ。
都市では、山の暮らしを得ることは出来ないし、山では、都市の暮らしを得ることは出来ない。
どれだけ再現しようとしても不可能なのである。
都市でも山でも、それに相応しい経験を得る。
それが縁である。
その縁を断ち切ることは出来ないのである。
2021年6月6日日曜日
追憶 3163
山頂に近付く程に、人々は助け合わなければならない。
他者を蹴落(けお)としているような者は、山頂へと続く険(けわ)しい道を登ることは出来ないのだ。
助け合うためには、思いやりや優しさ、許(ゆる)しや愛情が必要である。
他の物や別の相手がいると思えば、思いやりや優しさ、許しや愛情を育もうとは思わないだろう。
それは、他の物や別の相手に乗り換えれば良いと、自己を正当化するからである。
自己啓発や宗教などは、縁(えん)を断ち切る方法を教えている。
それは、気に入らなければ別を探せば良いという合理的な考えであるだろう。
しかしながら、縁を断ち切ることなど出来るはずがないのである。
2021年6月5日土曜日
追憶 3162
山頂に向かう程に、文明の利器(りき)からは遠ざかる。
山頂に向かう程に不便になる。
山頂に向かう程に、自然と共存するような暮らしになるのだ。
そこでは、金や富への信仰(しんこう)よりも、“神”や愛情への信仰の方が価値がある。
都市では、“神”や愛情を軽んじたとしても、人や物は溢れている。
そのため、いくらでも代わりが効く。
しかしながら、山村では限られた人や物を大切にしなければならないのである。
2021年6月4日金曜日
追憶 3161
多くの人は、富に執着(しゅうちゃく)する。
それは、物質に執着しているということだ。
物質は、意識の山の麓(ふもと)である。
意識の山は、物質から始まる。
実社会も、山から遠く離れた場所に都市が存在している。
物質を重んじれば、意識を軽んじてしまうだろう。
山の中腹や頂上に都市を築くことはないのである。
2021年6月3日木曜日
追憶 3160
金持ちの善行は偽善である。
残念ながら、彼等が損をしてまで徳を積むことはない。
彼等は、先に見返りを考えてから行動するのである。
そうでなければ、金持ちではいられないのだ。
しかしながら、人の世には金持ちも必要なのだろう。
なぜなら、富に執着(しゅうちゃく)する人がいなければ、“神”へと続く意識の山は存在することが出来ないのである。
富に執着する人達は、意識の山を支える大切な土台なのである。
2021年6月2日水曜日
追憶 3159
資本主義者は、金持ちが多くの税金や寄付(きふ)を払っているから素晴らしいと褒(ほ)めているが、多くの金や資源を奪ったのだから、それを還元(かんげん)するのは当然のことであろう。
しかしながら、金持ち程、金の取り扱いにはシビアである。
彼等は、自分が得をすることにしかお金を使わない。
金持ちは、金を増やしたいと考えているから金持ちなのである。
金持ちは、無償(むしょう)で施(ほどこ)そうなどとは考えないのだ。
2021年6月1日火曜日
追憶 3158
しかしながら、イエスは貧しい未亡人の方が、金持ちよりも多くを捧げたと言った。
これは、“神”に対する信仰(しんこう)の大きさのことを言ったのである。
全体の量や捧げた量に関係なく、自分にとって少しの割合を捧げるよりも、多くの割合を捧げる方が信仰は大きい。
“神”は献金など求めていない。
“神”は、信仰を求めているのである。
意識の山を登るためには、信仰が必要である。
より大きな思いやりや優しさ、許しや愛情が必要なのである。
イエスは、貧しいながらも献金という形で多くの財産を手放した未亡人にこそ、大きな信仰を見たのだろう。
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