大きく育ってしまった傲慢(ごうまん)は、簡単には取り除くことが出来ない。
表面的に取り除いたとしても、根が深くに残っていて、忘れた頃に再び芽吹(めぶ)くのである。
人は再び、知らず識(し)らずに傲慢に陥(おちい)ってしまうのだ。
根を掘ることは難しい。
それは、見えないからである。
わたし達に出来ることは、芽を欠くことである。
傲慢に陥る度に反省し、改善していくことである。
残念ながら、人類は強欲と傲慢(ごうまん)に陥(おちい)っているのが現状だ。
それは、人が自然を愛するように仕向けるためであるだろう。
人間以外の存在は、自然であることに努めている。
人間は、生まれながらに欲深いのか、状況が欲深くさせるのかは分からないが、大抵の人は欲深くなる。
人間の身体構造と、植物の身体構造が異なるのは、活動内容と役割が異なるからである。
異なっているために、異なった役割を果たすことが出来るのだ。
身体構造が異なっているように、精神構造も異なっている。
風も水も石も活動している。
それは、そこに命が存在するということである。植物や動物、太陽や風などは、人と同じ命を持っている。
同じ命を持っているが、精神的な活動は異なっている。
人間とその他の存在では、役割が異なっているのだ。
意識が潜在していなければ、物質は存在することが出来ない。
すべての物質には意識が潜在しているのである。
無機物でさえ、意識を潜在する物質である。
石や水や風にも意識が潜在するということである。