このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2020年8月31日月曜日

追憶 2885

大きく育ってしまった傲慢(ごうまん)は、簡単には取り除くことが出来ない。
表面的に取り除いたとしても、根が深くに残っていて、忘れた頃に再び芽吹(めぶ)くのである。
人は再び、知らず識(し)らずに傲慢に陥(おちい)ってしまうのだ。
根を掘ることは難しい。
それは、見えないからである。
わたし達に出来ることは、芽を欠くことである。
傲慢に陥る度に反省し、改善していくことである。

2020年8月30日日曜日

追憶 2884

傲慢(ごうまん)を取り除くことも、解決すべき課題の一つである。
しかしながら、傲慢を取り除くことは容易(ようい)ではない。
それは、とても深く心の中に根を張っているのである。
すべての人の心に傲慢の種が存在する。
それは少しずつ根を伸ばし、少しずつ枝を広げ、少しずつ成長していくのである。
傲慢は、歳を重ねる程に取り除くことが困難になる。
自然界の樹木と同じように、少しずつ強固になっていくのだ。

2020年8月29日土曜日

追憶 2883

人は、幅を与えられている。
それは、選択肢や可能性を与えられたということだ。
選択肢や可能性がなければ、人生の目的を果たすことは出来ない。
人間の人生における目的は、複雑怪奇(ふくざつかいき)なものなのである。
人間は、自然界の生物のように単純明快(たんじゅんめいかい)な作りをしてはいない。
人間は、様々な課題を抱えているのである。
それを果たすためには、選択肢や可能性が必要なのだ。
当たり前に生存を続けるだけでは、様々な課題を解決することは出来ないのである。

2020年8月28日金曜日

追憶 2882

残念ながら、人間だけが自分を知らない。
人間だけが、不自然なのである。
人間だけが、自分について考える必要がある。
それは、人間だけが、傲慢(ごうまん)と謙虚という幅を与えられているからだ。
自然な状態にある存在は、限定的に生きている。
決められた範囲でしか活動することが出来ないのである。
自然な状態にある存在は、決められた範囲のことしか考えることが出来ない。
また、決められた範囲の選択肢しかないのである。

2020年8月27日木曜日

追憶 2881

桜は、自然に存在している。
恐らく、桜は“自分とは何か?”ということを考えないだろう。
それは、既(すで)に自分であるからだ。
既に自分であるのに、自分について考える必要はないのである。
人間以外の存在は、自分について考えないだろう。
人間以外の存在は、自分について考える必要がないのである。
なぜなら、彼等は既に自然であるからだ。

2020年8月26日水曜日

追憶 2880

余計な意識を手放し、無意識に所有している状態が自然なのである。
当たり前過ぎて忘れていることが自然なのだ。
愛の状態にある人は、愛のことを気にしない。
愛とはどうあるべきか?ということを気にすることはないのだ。
桜が、自分は何の木だろう?などと考えるだろうか?
恐らくは考えないだろう。
なぜなら、桜は自然であるからだ。

2020年8月25日火曜日

追憶 2879

ありのまま、あるがままという状態は、あなたと真逆の状態である。
すべての人が、ありのまま、あるがままに存在してはいない。
すべての人が自然ではなく、すべての人が自分ではないのだ。
そのため、愛を知らない。
多くの人は、愛が何か分からないのである。
愛の状態にある人は、愛について考えたり、
努力したり、期待したり、喜んだり、悩んだり、苦しんだりはしないだろう。
もちろん、愛から遠く離れ過ぎている人も、そのようなことはしないのである。

2020年8月24日月曜日

追憶 2878

愛とは、自然なものである。
愛として考えたり、努力したり、期待したり、喜んだり、悩んだり、苦しんだりするのであれば、それは愛ではないのだ。
自然とは、認識すら出来ないものである。
多くの人の愛には、考えたり、努力したり、期待したり、喜んだり、悩んだり、苦しんだりすることが当然である。
それは、その愛が不自然であるということを意味しているのだ。
自然とは、あるがまま、ありのままなのである。

2020年8月23日日曜日

追憶 2877

多くの人が愛と呼ぶものが、愛ではないことは明白である。
残念ながら、多くの人は愛に到達してはいない。
大抵の愛が歪んでいるのだ。
歪んだ何かを愛と呼んでいるのである。
それは、とても哀(あわ)れなことである。
多くの人は、愛ではない何かを得て喜び、そして、苦しむ。
しかしながら、それが愛だと思い込んだままで生きているのである。

2020年8月22日土曜日

追憶 2876

すべての人は苦しむ。
人生において、苦しみを避けて通ることの出来る人はいないのである。
それは、理解に乏しいからだ。
理解に乏しいために、何事に関しても大切に扱うことが出来ない。
人は、軽んじるのである。
本人は大切に扱っていると思い込んでいるかも知れないが、それは、本人の思い込みに過ぎないだろう。
二つの悪いものから、程度の軽い悪いものを選ぶ時には、それが良いものに思えるものである。
“一方よりは”良いという考えが、やがて良いということに摩り替わってしまうのだ。
大切に扱っていると思い込んではいても、その水準は低いのである。

2020年8月21日金曜日

追憶 2875

問い掛け続け、歩み続ける程に本質へと近くなる。
何かに対して、時間と労力を費やした分だけ理解は深まるのだ。
理解が深まる程、自然である。
理解が深まる程、傲慢(ごうまん)を手放すことが出来る。
理解が深まる程、何事も大切に扱うようになる。
理解が深まる程、思いやりや愛情を抱くことが出来るのだ。
理解が深まる程、問題や苦しみは縮小するのである。
理解から遠い程に、問題や苦しみは大きいのである。

2020年8月20日木曜日

追憶 2874

“自分とは何か?”という問いの答えを得るためには、その問いを自分に問い続けなければならない。
問い掛けを中断すれば、答えを得ることは出来ないだろう。
それは、目的地に向かって歩き続けているようなものなのである。
目的地に辿り着かなければ、答えを得ることは出来ない。
答えは、目的地に存在しているのだ。
問い掛けとは、歩みのことである。
問い掛け続けることは、歩み続けるということだ。
歩み続けなければ、目的地に辿り着くことは出来ない。
目的地に辿り着くためには、辿り着くまで歩み続けなければならないのである。

2020年8月19日水曜日

追憶 2873

自然とは、“自分とは何か?”という問いの答えである。
真(まこと)の自分こそが自然なのだ。
“自分とは何か?”という問いに淀(よど)みなく答えることが出来れば、それが自然な状態なのである。
真の自分、自然な状態に至(いた)ることは難しい。
“自分とは何か?”という問いに淀みなく答えることが出来る人などいないのである。

2020年8月18日火曜日

追憶 2872

人は、金儲(かねもう)けのために生まれたのではない。
もしも、そのような人がいるのであれば、悲しいことである。
人は、自然環境を破壊するために生まれた訳でもないのだ。
そのような人生は空しい。
人は、自然に近付き、思いやりや愛情を習得し、悟りを得るために生まれたのである。
“自分とは何か?”ということを悟ることが出来れば、人生は終了である。
“自分とは何か?”という問いの答えを得るためには、傲慢(ごうまん)や不自然を手放さなければならない。
本質とは、自然なものだと理解する必要があるだろう。


2020年8月17日月曜日

追憶 2871

傲慢(ごうまん)や不自然に陥(おちい)ると、何かしらの問題や苦しみが生じる。
それは、あなたの辿り着くべき目的地とは異なる。
問題や苦しみは、それがどのようなものであれ、途中に過ぎないのだ。
傲慢や不自然に陥っている人は、道の途中にある問題や苦しみに立ち止まっているようなものである。
歩むことは疲れるものである。
疲れた人は、途中で道草を食うことに喜びを感じるだろう。
それは、進行を遅くするが、いつまでも進まないでいると、いつの間にかに当初の目的がすり替わってしまうのである。

2020年8月16日日曜日

追憶 2870

人が、自然に目覚めるためには、不自然に陥(おちい)る必要がある。
不自然に陥らなければ、自然の大切さを理解することは出来ないのである。
失うまでは、その有り難みが分からないものだ。
傲慢(ごうまん)で不自然な者は、傲慢や不自然がもたらす結果を経験する必要がある。
残念ながら、人は、失敗からしか学ぶことが出来ない。
程度の悪いものから始めなければならないのである。
初めから良いものを得ることは出来ないのだ。

2020年8月15日土曜日

追憶 2869

傲慢(ごうまん)に陥(おちい)り、物質主義(資本主義)を信仰(しんこう)し、不自然に生きる人達の生き方も許されている。
自然環境を保全するという経験を得るためには、自然環境を破壊するという経験を得る人が必要である。
この世界には、陰陽(いんよう)の仕組みが存在する。
それは、すべてが相対的(そうたいてき)であるということだ。
光を生み出すためには、闇を生み出す必要がある。
闇を生み出すためには、光を生み出す必要があるのだ。

2020年8月14日金曜日

追憶 2868

幸せの形は、人それぞれに存在する。
本人が幸せと思えば、それが幸せなのである。
そのため、他者の幸せを否定することは出来ない。
どのような思想の人も存在を許(ゆる)され、この世界に必要であるから存在するのである。
この世界に不要なものは、存在することを許されないのだ。
存在するということは、必要なのである。
それがどのようなものであれ、必要なのである。

2020年8月13日木曜日

追憶 2867

 残念ながら、人類は強欲と傲慢(ごうまん)に陥(おちい)っているのが現状だ。

現文明は不自然を好み 、自然環境を破壊している。
自然環境を破壊して得られる“強奪品”を集めて飾(かざ)り、苦しみで汚れた空気を呼吸し、苦しみで汚れた土の上に贅沢(ぜいたく)に暮らし、苦しみで汚れた水で祝杯をあげる。
強欲な者達は、それを幸せだと思っているのである。

2020年8月12日水曜日

追憶 2866

 それは、人が自然を愛するように仕向けるためであるだろう。

愛情を深くするためには、苦しみの助けが必要である。
不自然な状態に陥らなければ、自然な状態を理解することは出来ないのだ。
人間は、他の生命とは異なり、自然環境を左右する程の力を与えられている。
人間が不自然に近付けば自然環境を破壊するし、自然に近付けば自然環境を保護するだろう。
自然環境の保全は、人間の人生における目的の一つである。
自然環境を保全しながら、豊かに暮らすことが人生の課題の一つなのである。

2020年8月11日火曜日

追憶 2865

 人間以外の存在は、自然であることに努めている。

それは、有りの儘(まま)であるということである。
人間は、不自然であることに努める。
それは、我が儘であるということである。
自然は、調和することが自然であり、不調和という状態は不自然である。
人間は、自然界の調和を崩す唯一の存在だ。
自然界に負の影響を与えるのは、人間だけなのである。

2020年8月10日月曜日

追憶 2864

 人間は、生まれながらに欲深いのか、状況が欲深くさせるのかは分からないが、大抵の人は欲深くなる。

それは、物質的に最も合理的で“優れている”からである。
人は、他の生き物が欲深くないことを良いことに、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に振る舞う。
人間以外の生き物は、自然から必要以上に奪い取ることをしない。
より多くを集めて、より多くを貯(た)めて、より拡大し、より膨張(ぼうちょう)することはしないのである。

2020年8月9日日曜日

追憶 2863

 人間の身体構造と、植物の身体構造が異なるのは、活動内容と役割が異なるからである。

異なっているために、異なった役割を果たすことが出来るのだ。

身体構造が異なっているように、精神構造も異なっている。

人間は、他のどの存在とも精神構造が異なっている。
それが自然だ。
そして、残念ながら、物質的な世界観においては、人間の身体構造や精神構造が最も合理的で“優れている”ように思える。
そのため、人は自分を特別な存在だと思い込み、傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ってしまったのである。

2020年8月8日土曜日

追憶 2862

風も水も石も活動している。

それは、そこに命が存在するということである。植物や動物、太陽や風などは、人と同じ命を持っている。

同じ命を持っているが、精神的な活動は異なっている。

人間とその他の存在では、役割が異なっているのだ。

役割が異なれば、活動内容や範囲も異なるのである。
人は人として存在しなければならない。
植物は植物として、太陽は太陽として存在しなければならないのである。

2020年8月7日金曜日

追憶 2861

 意識が潜在していなければ、物質は存在することが出来ない。

すべての物質には意識が潜在しているのである。

無機物でさえ、意識を潜在する物質である。

石や水や風にも意識が潜在するということである。

太陽という物質は、熱を放って輝いている。
これは、意識の活動である。
意識が活動することによって、物質は活動する。
それは、命を宿しているということであろう。
意識の活動が命である。
それは、太陽も生きているということなのである。

2020年8月6日木曜日

追憶 2860

植物には、知性が与えられている。
少なくとも、わたしが会話した皐月には知性があった。
植物は生きているから知性や意識を持つことも不思議ではないだろう。
それでは、太陽には知性や意識があるだろうか?
わたしは太陽と会話をしたことがないが、そこには知性や意識が存在するように思えてならない。
太陽が熱を放って輝いているのは、そこに知性や意識が存在するからであろう。
太陽が無駄に熱を放って輝いているとは思えない。
太陽は、地球の自然環境にとって、生物にとって、わたし達人間にとって都合が良過ぎるのである。

2020年8月5日水曜日

追憶 2859

樹木には、過去の記憶がある。
少なくとも、わたしと話をした皐月(さつき)は、過去のことを覚えていた。
そして、感情や思考や意志もある。
天使や仏や霊と話している時と同じような感覚で会話をすることが出来るのだ。
多くの人は、物言わない植物を軽んじる。
動物でさえ軽んじている人もいる。
それは、彼等が人間が理解する言葉を使わないからであろう。
植物が話をするのだから、動物なら尚更(なおさら)のことである。
動物が人間の言葉を話したら、動物を軽んじる人は減るだろう。
他人を軽んじる人もいるのだから、すべての人が軽んじることをやめる訳ではないだろうが、動物が人間と同じ感情や思考や意志を持っていることを知れば、対応は大きく変わるはずなのである。

2020年8月4日火曜日

追憶 2858

なぜなら、少し前に剪定(せんてい)した他の皐月(さつき)の木は泣き叫んでいたからである。
話を聞くと、わたしに訴(うった)えている皐月は、元々が長い間盆栽として仕立てられていた過去があり、わたしの祖父が知人から貰(もら)い受けて庭に植えたという経歴があったのだ。
皐月は、枝葉を整えて欲しいと懇願(こんがん)を続けた。
それは、過去にこの皐月を盆栽として愛(め)でていた人が喜んでいたからだそうだ。
この皐月は、人が喜ぶ姿を見ることが嬉しいのである。

2020年8月3日月曜日

追憶 2857

ある日、日課の盆栽への水遣(みずや)りのために皐月(さつき)の横を通り過ぎた時に声が聞こえた。
それは、鳥のさえずりのような、水のせせらぎのような、そよ風に揺れる木の葉のような、透き通る声であった。
わたしは呼び止められたのである。
声の方に向くと、皐月が話し掛けているのが分かった。
わたしが理由を尋(たず)ねると、皐月は剪定(せんてい)をせがんできたのである。
しかしながら、わたしは皐月の要求に戸惑(とまど)った。

2020年8月2日日曜日

追憶 2856

そこには、自然界を計画して運用する知性のようなものがあると思えるのだ。
植物が自分で考え、進化したとは思えない。
とはいえ、植物自体にも知性はある。
なぜなら、わたしは、以前に庭木の剪定(せんてい)をしている時に、彼等と会話をしたことがあるからだ。
家の庭には、元々は盆栽(ぼんさい)として仕立てられたが、後に庭に地植えにされた皐月(さつき)の古木があった。
時期は、枝が四方八方に伸びている頃である。
わたしは、庭木の剪定をしなければならないと考えながら、忙(いそが)しさを理由に実行することが出来ないでいた。
 

2020年8月1日土曜日

追憶 2855

学問では、進化の過程でそのようになったという説明がされるが、どうやって植物が昆虫に似せて花を作るのだろう。
昆虫が仲間や異性と見間違う程に精巧(せいこう)な作りの花なのである。
偶然に突然変異した個体があり、偶然に瓜二つの昆虫がいて、偶然にそのような結果になったのであろうか?
苦しい説である。
植物には目がない。
耳も鼻も口もない。
もちろん、脳もないのである。
どのように認識して、どのように工夫して、どのように実行して、どのように実現したのであろう?