光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2020年1月31日金曜日
追憶 2672
弱さとは、傲慢(ごうまん)のことである。
傲慢であることは、強いように見えるが、その本質は弱さなのだ。
恐れに支配された犬は吠えるし噛(か)み付く。
満たされているのであれば、思い遣(や)りが芽生えるはずである。
複雑さは異なるが、人の心もそれと同じような変化を見せる。
強さは守ろうとする。
強さは分け与える。
守り、分け与えることが出来るから強いのである。
2020年1月30日木曜日
追憶 2671
不自然や破滅的な性質は、弱さとして理解すれば良いだろう。
すべての人は、不自然や破滅的な性質という弱さを抱えているのである。
誰もが自分自身の弱さに苦労する。
それは、逆風のように進路を塞ぐのである。
真っ直ぐに歩もうとしても、弱さによって真っ直ぐに歩むことが出来ない。
そのため、すべての人が、理想とは異なる現実を生きなければならないのだ。
2020年1月29日水曜日
追憶 2670
わたし達は、自然と不自然を抱えている。
それは、建設的な性質と破滅的な性質を抱えているということなのである。
しかしながら、すべての人が恐怖による支配を受けている。
すべての人が、恐怖によって教育されてしまうのである。
そのため、自然よりも不自然、建設的な性質よりも破滅的な性質の方が幅を利かせている状態であると理解するべきだろう。
大切なのは、不自然や破滅的な性質とどのように付き合うか?ということである。
2020年1月28日火曜日
追憶 2669
恐らくは、猿が人間に進化することは出来ないだろう。
人間と猿は、全く異なる性質を持ち、全く異なる世界観を生きているのである。
恐らくは、猿を何等かの形でカスタムしたものが人間であるだろう。
シュメールの粘土板に書かれていることが恐らくは事実なのではないかと思う。
人間は、自然界に半分くらい属(ぞく)し、後の半分くらいは不自然に属しているのではないだろうか?
2020年1月27日月曜日
追憶 2668
これは、明らかに人間と他の生物が異なる性質を持っていることの証(あかし)であるだろう。
基本的には同じものであっても、人間だけ異常にカスタムされているような感覚なのである。
個人的には、進化論を受け入れることが出来ない。
人間は、猿から進化したと教えられたが、いつまで経っても猿は猿のままである。
進化論が正しければ、他の猿や生物も火を扱うことくらいはしそうなものである。
チンパンジーが言葉を理解したとか、スマートフォンを操作したとか、幼稚(ようち)なことを大騒ぎしているが、猿が人間に進化することは、それとは全く次元の違うことなのである。
2020年1月26日日曜日
追憶 2667
これは、人間が特別に優れているということではない。
なぜなら、何が優れているか、わたしには判断することが出来ないからだ。
人間は、他の生物に比べて、意識の範囲が異常に広くて深いように思える。
人間以外の生物とのバランスが明らかにおかしいのである。
人間に最も近いと言われているボノボというチンパンジーも、森の中で原始的?に暮らしている。
彼等は、どこからどう見てもチンパンジーである。
ボノボに最も近い人類は、ロケットを飛ばして宇宙へと到達し、別の惑星を調査しているのである。
ボノボは、恐らくは他の惑星のことなど考えたことも無いだろう。
2020年1月25日土曜日
追憶 2666
わたし達人間は、地球上に当たり前に存在しているが、わたしは違和感を感じてしまう。
人間だけが、自然界から切り離されているように思えて仕方ないのである。
人間だけ、異質な存在であるように思えるのだ。
人間だけ、生き方が異質である。
人間だけが、無理矢理自然界に存在しているような違和感なのである。
本来の居場所とは異なる世界を生きているような、不思議な感覚を拭(ぬぐ)い去ることが出来ない。
2020年1月24日金曜日
追憶 2665
それは、自然界に存在する生命が謙虚(けんきょ)であり、調和を保っているからである。
自然界に存在する生命が、自然を壊すことはない。
それは、傲慢(ごうまん)を与えられてはいないからである。
傲慢を与えられた人間だけが、自然を壊してしまうのである。
人間は、自然界にとって、不自然な存在である。
人間だけが自然界と調和していないのだ。
2020年1月23日木曜日
追憶 2664
自分を満たすというのは、自分勝手に貪(むさぼ)るということではない。
傲慢(ごうまん)に陥ることは、結果的に自分を苦しめ、人生を乏(とぼ)しくする行為だからである。
自分を満たすためには、謙虚(けんきょ)でなければならない。
謙虚でなければ、この世の理(ことわり)に一致(いっち)することは出来ない。
謙虚でなければ、出過ぎてしまうのである。
自然界には、理を離れることの出来る生命は存在しない。
そのため、自然界は調和が取れている。
自然界を放っておけば、それは自ずと豊かになるのである。
2020年1月22日水曜日
追憶 2663
傲慢によっては、真(まこと)の愛情を紡ぎ出すことは出来ない。
自分に対する愛情は、歪(ゆが)んでいるのが普通なのである。
それは、欲求不満が自己愛を紡(つむ)がせるからだ。
自らの心が満たされていないのであれば、先ずはそれを満たさなければならない。
自分が満たされていないのに、他者を満たそうとするのは不可能であり、偽善(ぎぜん)であるだろう。
残念ながら、人は、自分が満たされていなければ、他者を満たすことは出来ないのである。
2020年1月21日火曜日
追憶 2662
傲慢(ごうまん)によっては、愛情を紡(つむ)ぎ出すことが出来ない。
自己を中心とする傲慢を抱いている心には、他者を思い遣(や)る気持ちである愛情を紡ぎ出すことは出来ないということを理解しなければならないだろう。
すべての人が傲慢を抱えている。
そのため、すべての人には真(まこと)の愛情を紡ぎ出すことが出来ない。
愛情のようなものを愛情と思い込んでいるに過ぎないのである。
2020年1月20日月曜日
追憶 2661
子どもは、物質的な豊かさなど気にしてはいない。
誰がどれだけの資産を持っているなどと気にすることもない。
子どもの幸福感は、物質的な豊かさを基準としてはいないのである。
子どもの幸福感は、愛情の有無を基準としているのではないだろうか?
愛情とは、相手を思い遣(や)る気持ちのことである。
それは、自分を中心とする傲慢(ごうまん)とは真逆の感情であるということを理解しなければならないだろう。
2020年1月19日日曜日
追憶 2660
これは、極端な例えではあるが、昔のどこかの国の王様よりも、恐らくは、わたし達の方が物質的には豊かに暮らしているだろう。
物質的には豊かさは増しているのである。
幸福が物質的な豊かさに比例するのであれば、大抵の日本人が幸福であってもおかしくはないだろう。
しかしながら、そのようには見えない。
今も昔も、幸福に生きた人はいる。
今も昔も、不幸に生きた人はいるのである。
幸福と不幸は、物質的な豊かさで決められるものではない。
物質的な豊かさは、幸福の補助的(ほじょてき)な役割りでしかないのである。
2020年1月18日土曜日
追憶 2659
しかしながら、幸福を生きている人は少ないであろう。
それは、物質的な豊かさを求める生き方によって、意識的な豊かさを犠牲にしているからではないだろうか?
“昔が良かった”という人達は、自分が若かったからそう言っているのではないだろう。
高度経済成長期における日本であっても、現在の方が物質的には優れているし、豊かである。
恐らくは、景気が良いという理由だけではないだろう。
景気が悪いとはいえ、生活の質、利便性は格段に向上しているのではないだろうか?
2020年1月17日金曜日
追憶 2658
意識的な存在は、意識的な豊かさを欲する。
意識的な存在にとって、物質的な豊かさなど価値の無いものなのである。
この世の富を求める者は、残念ながら、意識的な豊かさを差し出さなければならないだろう。
物質的な豊かさであれば、世界最高クラスの日本であっても、幸福度はさほど高くはない。
残念ながら、多くの人は、満たされない気持ちで生きているのである。
物質的には、何の不自由もないだろう。
基本的な衣食住に不足は無いし、長生きも出来る。
日本は、物質的な豊かさは申し分ないのである。
2020年1月16日木曜日
追憶 2657
報酬(ほうしゅう)を得るためには、それに相応しい代償(だいしょう)を差し出す必要がある。
誰も、ただで商品やサービスを得ることは出来ないのである。
“ただより高いものはない”という言葉を覚えておかなければならないだろう。
サタン(悪魔)との取引の代償は、サタンが必要とするものを差し出さなければならない。
サタンは意識的な存在であるために、物質的なものを必要としない。
サタンが必要としないから、報酬として物質的な富を受け取ることが出来るのである。
2020年1月15日水曜日
追憶 2656
傲慢(ごうまん)は、諸刃(もろは)の剣であることを理解しなければならないだろう。
傲慢に生きることで、人は様々な問題を乗り越え、多くの豊かさを手に入れることが出来るように思える。
自己中心的に生きている人の方が、この世では優位な立場にあるようにも思えるのである。
新約聖書、マタイによる福音書第4章には、この世はサタン(悪魔)に支配されていることが記されている。
人は、傲慢(悪魔的な態度)に従うことによってこの世の富を得る。
しかしながら、サタンが奉仕(ほうし)の精神で人に何かを与えることはないのである。
2020年1月14日火曜日
追憶 2655
生き物には、もちろん人間も含(ふく)まれている。
人類は、“豊かさ”の代償(だいしょう)として、多くの問題を受け取らなければならなかった。
これまでと、今日(こんにち)における様々な社会的な問題も、人の傲慢さがもたらす弊害(へいがい)であることを理解しなければならないだろう。
問題を手放すためには、傲慢さを手放さなければならない。
自分だけが良ければ良いと考えて傲慢に生き、その代償として“豊かさ”を得たとしても、それに比例する問題も受け取らなければならないのである。
2020年1月13日月曜日
追憶 2654
それは、先進国と呼ばれる国が行う環境破壊によって理解することが出来るだろう。
日本でもかつては、環境破壊を行っていた過去がある。
もちろん、今でも汚していることには変わりないであろうが、以前に比べるとかなりましになっているだろう。
先進国は、豊かさの名の下に大気を汚し、大地を汚し、大河を汚し、大海を汚した。
人類は、傲慢(ごうまん)によって大量の“毒”を撒き散らし、大量の生き物を犠牲にしたのである。
2020年1月12日日曜日
追憶 2653
傲慢(ごうまん)さは、他の生き物や自然を顧(かえり)みない価値観である。
多くの人は、目の前のことにしか興味が無い。
その時に幸福ならそれで良いと考えているのであろう。
それは、決して悪いことでは無いだろう。
多くの人は、先のことなど考える余裕は無いのである。
先のことを考えても何も分からないが、自分以外の存在を蔑(ないがし)ろにしているのであれば、やがてはそれが自分に不利に働くことは明確なのである。
2020年1月11日土曜日
追憶 2652
どのような人も、他の生き物の命を貰(もら)って生存している。
他の生き物から命を貰わなければ、人は数日と生きていられないのである。
衣食住のすべてが、他の生き物から貰った命であるということを理解しなければならないだろう。
人の生活、人の人生には、他の生き物から貰った命が必要不可欠なのである。
他の生き物を蔑(ないがし)ろにすることは、人の生活や人生を蔑ろにすることだと理解しなければならないだろう。
わたし達は、自然と共存しなければならないのである。
2020年1月10日金曜日
追憶 2651
自然を利用することは決して悪いことではないが、自然を壊すことは悪いことであろう。
それは、自分の首を絞(し)めることになるからだ。
他の生き物が可愛そうという話をしているのではない。
もちろん、他の生き物が犠牲になるのだから可愛そうなことに違いはない。
しかしながら、そう思わない人も多いのだ。
だから、そのような観点から話しても感情的になってしまうだけであろう。
他の生き物が犠牲になるということは、人間の“土台”が揺らぐことなのである。
2020年1月9日木曜日
追憶 2650
人類は、基本的には傲慢(ごうまん)なものであろう。
それは、一人一人の態度を見れば分かることである。
人は、どのような人物であっても傲慢なものである。
謙虚(けんきょ)に見える人物も、自分を嫌っているに過ぎない。
自分を嫌っていたり、自信が無いことを謙虚に見せているだけであろう。
自分を嫌うことは傲慢なのである。
それは、自分の分際や現状の最善を受け入れることが出来ていないからだ。
人類は、受け入れることが出来ない。
より快適な生活を追い求めて、自然を犠牲にし続けているのである。
2020年1月8日水曜日
追憶 2649
世界的に考えれば、毎日のように誰かは自然災害の被害に遭っているのではないだろうか?
恐らくは、自然災害というのは、人類に課せられた宿命のように思える。
ピラミッドが作れる程に発展した文明であれば分からないが、現時点での現人類においては、自然災害は避けることの出来ない宿命なのではないだろうか?
それは、人類の傲慢(ごうまん)を改めるための宿命であるように思えるのだ。
2020年1月7日火曜日
追憶 2648
しかしながら、人間的な見方をすれば、恩恵(おんけい)よりも被害の方が大きいと認識するのが普通であるだろう。
恐らくは、自然災害を悪いものとして考えるのが普通である。
月に降り立ち、量子を発見し、核を使い、ブラックホールの撮影に成功した人類である。
それ等のことが本当であるのならば、自然災害くらいは克服出来そうなものであるが、残念ながら、大雨一つ防ぐことが出来ないのが現状である。
2020年1月6日月曜日
追憶 2647
わたし達は、宿命に従わなければならないのだ。
例えば、それは、自然災害を避けることが出来ないようにである。
自然災害は、何等かの原因で発生し、誰でも遭遇(そうぐう)する可能性がある。
自然災害に遭遇したことの無い人の方が少数派であろう。
大抵の人は、何等かの自然災害に遭遇しているし、何等かの被害に遭(あ)っているだろう。
これだけ多くの人が被害に遭いながら、人類はそれをどうすることも出来ないでいる。
もちろん、自然災害という名前ではあっても、何かしらの恩恵(おんけい)も与えてくれてはいるだろう。
例えば、精神的な改良などである。
2020年1月5日日曜日
追憶 2646
わたし達は、自分の思い通りに生きようと考える。
それは、決して悪いことではないだろうし、“普通”のことだ。
誰もがそうしている。
しかしながら、どれだけ努めても、思い通りに生きることは叶わないだろう。
どのような選択を下しても、不思議なことに宿命によって本来の道に引き戻されてしまうのである。
人は、宿命を離れて生きることが出来ない。
2020年1月4日土曜日
追憶 2645
宿命に従って生きるというのは、思い通りにならない人生を生きるということである。
宿命とは、人生を始める前に決められるものである。
それは、後天的な理想とは随分(ずいぶん)と異なるものだ。
思い通りに生きようとすれば、宿命を否定することになってしまう。
わたし達は、思い通りにならない人生を生きるために生まれて来たのである。
2020年1月3日金曜日
追憶 2644
わたし達は、宿命が存在することを理解しなければならないだろう。
宿命とは、避けることの出来ない学びである。
目の前の状況に対して、感謝以外の感情を選択する人は、宿命というものが存在しないと考えているのだろう。
そのため、他の状況を得ようとして、否定的になってしまうのである。
人には、分際(ぶんざい)というものが存在するし、人生には目的が存在する。
それ等は、避けることの出来ない宿命なのだ。
2020年1月2日木曜日
追憶 2643
目の前の状況を間違えて解釈した結果、感謝以外の感情を選択しなければならないのである。
それは、不満であったり、不安であったり、ぬか喜びであったりするのだ。
感謝の気持ちへと至らないのであれば、解釈(かいしゃく)が違っているのである。
そのことに気が付かなければならないが、残念ながら、それに気が付くためには、冷静にならなければならないし、謙虚(けんきょ)さが必要なのだ。
2020年1月1日水曜日
追憶 2642
人は、苦しみを感謝へと昇華(しょうか)しなければならない。
人は、感謝するために生まれて来たのである。
傲慢(ごうまん)によっては、感謝することは出来ない。
謙虚(けんきょ)さによって、素直でなければ、目の前の状況に感謝することは出来ないのである。
目の前の状況に感謝することは容易(ようい)ではない。
それは、認識が歪んでいるからである。
認識が歪んでいれば、目の前の状況を間違えて解釈(かいしゃく)してしまうのである。
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