このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2022年3月31日木曜日

追憶 3461

命よりも、酸素の方が大切なのは間違いないが、だからといって命を軽んじて良いということではない。
酸素がなければ命は存在しないが、命がなければ酸素が存在する意味もないのである。
酸素は、命を生かすために存在する。
そして、命は、酸素に目的と価値を与えているのである。

2022年3月30日水曜日

追憶 3460

しかしながら、多くの人は、酸素よりも命の方が大切だと思い込んでいる。
どれだけ命を生み出したとしても、酸素がなければ意味がない。
酸素がなければ、わたし達は命を保てないどころか、命を生み出すことすら出来ないのである。
酸素がなければ命は存在しない。
それは、命よりも酸素の方が大切だということなのである。

2022年3月29日火曜日

追憶 3459

すべての人が、人生に目的を以(もっ)て生まれる。
すべての人が、目的のある人生を生きているのである。
すべての人は、初めから人生の目的を見ているし触れている。
しかしながら、多くの人はそれを認識しない。
それは、酸素を認識しないのと同じである。
酸素は、命よりも重要なものである。
なぜなら、酸素がなければ命はないからだ。

2022年3月28日月曜日

追憶 3458

焦点が合えば、真実や本質が見えるのである。
それは、自分という存在の正体と、人生の目的の答えを得られるということである。
それ等が分からないのは、焦点が合っていないからだ。
焦点が合っていないから、見ていても見えないのである。
聞いても聞こえないし、触れていても分からないのである。

2022年3月27日日曜日

追憶 3457

真実は、狭い範囲に存在している。
それは、カメラの焦点(しょうてん)が狭い範囲なのと同じであるだろう。
実像を捉えるためには、焦点を合わせなければならないのである。
残念ながら、多くの人は焦点が合っていない。
多くの人は、偏(かたよ)ってぼやけた像を見ているのである。
人生の目的や自分を知らないのはそのためである。

2022年3月26日土曜日

追憶 3456

残念ながら、私達には光の中や影の中に像を見る程の性能はない。
太陽を直視したところで、太陽の実像を捉えることは出来ない。
そこには、光を見るだけである。
暗闇を直視したところで同じことである。
そこには、影を見るだけである。
私達が実像を見るためには、光と影が重なる狭い範囲が必要なのである。

2022年3月25日金曜日

追憶 3455

知識や経験は、唯物論的な側面と、唯心論的な側面が合わさることで完成される。
それは、光と影が輪郭(りんかく)を作り、実像を見せるようである。
光だけでも、陰だけでも、そこに存在する像を認識することは出来ない。
光と影が重なることで輪郭を作ることで初めて、そこに存在する像が見えるのである。

2022年3月24日木曜日

追憶 3454

偏(かたよ)れば、不自然なのである。
唯物論者が良いとか悪いとか、唯心論者が良いとか悪いということではない。
真ん中に位置しないことで解消されない無知や未熟さが問題なのである。
偏るということは無知であり、未熟であるということなのだ。
偏っている以上は、対極のものを知らないままである。
知らないままでは、未熟なのである。

2022年3月23日水曜日

追憶 3453

唯物論者や科学者や資本主義者などは、唯心論的や霊的な視点を受け入れて、自らを真ん中に位置しなければならない。
唯心論者や宗教家や霊能者やスピリチュアリストなどは、唯物論的や合理主義的な視点を受け入れ、自らを真ん中に位置しなければならないのである。
自らを真ん中に位置しようと努めない者は、真(まこと)を得られないまま生きなければならない。

2022年3月22日火曜日

追憶 3452

偏(かたよ)りは、本質から遠ざける。
本質を得るためには、真ん中を行かなければならないのである。
信じることと疑うことを同時に行わなければならないのだ。
矛盾しているように思えるかも知れないが、それで良いのである。
信じ過ぎても、疑い過ぎてもいけない。
中立でなければならないのだ。

2022年3月21日月曜日

追憶 3451

知らないことや、受け入れ難いものを否定することでは、本質に辿り着くことは出来ない。
唯物論者は、唯心論を受け入れ、唯心論者は、唯物論を受け入れなければならないのである。
見えているものだけで世界は構成されていない。
また、理解することが出来ることだけでも世界は構成されていないのである。
世界は、見えているものと見えていないもので構成されている。
また、理解することが出来るものと、理解することが出来ないもので構成されているのである。

2022年3月20日日曜日

追憶 3450

そのため、すべての人が未熟であることを悟り、学ぶ姿勢で生きなければならない。
唯物論者も唯心論者も、共に傲慢(ごうまん)である。
唯物論者は、科学で証明することが出来るものを受け入れ、唯心論者は、宗教で教えられているものを受け入れる。
そして、その対極にあるものは否定する。

2022年3月19日土曜日

追憶 3449

宗教やスピリチュアルは、神や宇宙の力で動いていると主張するだろう。
当然ながら、それも証明にはならない。
唯物論も唯心論も、科学的な考え方の人も、スピリチュアル的な考え方の人も、どちらも未熟なままである。
これまでのどの主義も、心臓が動いている理由にすら答えることが出来ないのだ。

2022年3月18日金曜日

追憶 3448

それは、最も身近で、最も重要なことであるが、現在の唯物論や科学のレベルでは証明することが出来ないのである。
心臓が動いていることも証明することが出来ないものを盲信(もうしん)するべきではない。
すべての思想や学問は未熟であることを知らなければならないだろう。
誰も、心臓を動かす力を証明することが出来ないのである。

2022年3月17日木曜日

追憶 3447

しかしながら、そこには肉の塊(かたまり)以外には何も無かった。
電子顕微鏡で観察しても、命を発見することは出来ないだろう。
量子顕微鏡で観察しても同じ結果であるだろう。
もしも、命を発見したのであれば、誰かがすぐに報告するはずである。
しかしながら、世界中の研究者からはそのような報告はない。
誰も、心臓を動かしている力の正体を知らないのである。

2022年3月16日水曜日

追憶 3446

心臓が動いている状態で、右と左に切り分けた。
すると、どちらかは忘れたが、一方が動いていた。
半分になって動いている心臓を、更に心室と心房に切り分けた。
すると、心臓は遂(つい)に動かなくなった。
そこで、半分になっても動いていた心臓の心室と心房をそれぞれに解剖(かいぼう)してみることにしたのである。
彼等は、そのどちらかに命が存在すると考えたのであった。

2022年3月15日火曜日

追憶 3445

心臓が脳からの電気信号で動いているのであれば、脳から切り離された状態である程度の時間動くことはないだろう。
どういう仕組みで、肉の塊(かたまり)が動くのだろうか?
そして、どういう仕組みで動きを止めるのだろう?
以前に、どこかで読んだか聞いたかしたが、確かナチスの科学者?か何かが命の在処(ありか)を探して、生きた人間から新鮮な心臓を取り出して、それを解剖(かいぼう)したという。

2022年3月14日月曜日

追憶 3444

生きた魚を締めて、氷水の中に十分に浸した後に捌(さば)く時、心臓を肉体から切り離しても単体で動いているし、すべての臓器を取り除いた状態でも、縞鯵(しまあじ)などは跳ねる程暴れる。
それは、絶命してから30分以上経った後のことである。
海外の交通事故の動画で、バイクの運転手の心臓が道路に転がっていたが、やはり心臓だけで動いていた。

2022年3月13日日曜日

追憶 3443

心臓は、わたし達に最も身近な臓器である。
それは、物質的な肉体の一部だ。
心臓は、肉体において最も重要な臓器であるだろう。
しかしながら、心臓がなぜ動くのか?を解き明かすことは出来ないだろう。
筋肉が脳からの電気信号で動いているなどという子どもでも思い付くような説明は必要ない。
心臓は、肉体から離れても多少の時間は動いている。

2022年3月12日土曜日

追憶 3442

虫眼鏡でウィルスを探し続けても見付かることはない。
ウィルスを観察するためには、電子顕微鏡が必要なのである。
実体を捉(とら)えるためには、それに相応(ふさわ)しい“道具”が必要なのだ。
唯物論や科学では、思考や感情を証明することは出来ないだろう。
唯物論や科学は、心臓がなぜ動いているのか?という問いに答えを出せるだろうか?

2022年3月11日金曜日

追憶 3441

残念ながら、現在の唯物論や科学では、思考や感情の証明は無理であるだろう。
なぜなら、思考や感情というものは、そこにあってそこにないからである。
唯物論や科学で思考や感情を証明しようとすることは、虫眼鏡でウィルスの存在を証明しようとするようなことであるからである。
残念ながら、虫眼鏡ではそこに存在するウィルスを見ることは出来ないのである。

2022年3月10日木曜日

追憶 3440

思考や感情は、物質だろうか?
思考や感情は、科学で証明することが出来るだろうか?
思考や感情は、どのような原理で生じ、働いているのだろうか?
残念ながら、どのように博学(はくがく)な唯物論者や、科学を崇拝(すうはい)する人であっても、思考や感情という当たり前のものすら証明することは出来ないだろう。

2022年3月9日水曜日

追憶 3439

この世が物質的なものだけで成立するだろうか?
唯物論者(ゆいぶつろんじゃ)や科学を崇拝(すうはい)している人達は、霊や“神”などの意識的な存在を受け入れることは難しい。
そのような人達は、死後の世界や輪廻(りんね)を否定する。
例えば、唯物論者も思考や感情などの意思を否定したりはしないだろう。

追憶 3438

なぜなら、この世界はそのようなものだけで成立してはいないからだ。
この世界は、多くの人が認める価値だけで成り立っているのではない。
価値には、様々な形があるのである。
多くの人には、価値が分からないものにも価値を見出さなければならないだろう。
それは、この世界を理解するためである。

2022年3月7日月曜日

追憶 3437

確かに、金を稼(かせ)ぐこと、富を手に入れる能力は重要である。
しかしながら、それに捕らわれてはならないだろう。
なぜなら、人生には、様々な形の価値が存在しているからだ。
例えば、地位や名誉や財産などの、目に見えるこの世の富にだけ価値を見出すようでは、偏見(へんけん)と誤解を強めてしまうのである。

2022年3月6日日曜日

追憶 3436

しかしながら、富は柱であり、骨組みなのである。
それ以上ではない。
柱や骨組みを組み立てただけで、豊かに暮らせるだろうか?
柱や骨組みがなければ、立派な家は建たないが、柱や骨組みだけで家を完成させることは出来ないのである。
富を信仰(しんこう)する人は、柱や骨組みに全財産や時間を注ぎ込むような生き方をしているのである。

2022年3月5日土曜日

追憶 3435

人間社会を生きるためには、富は必要不可欠な要素であるだろう。
富が全くなければ、人間社会を生きることは困難である。
富とは、人間社会を支える柱のようなものであるだろう。
富は、骨組みなのである。
富の助けがなければ、人間社会では生きていくことは出来ないだろう。

2022年3月4日金曜日

追憶 3434

その人は、自力で歩くことが出来るが、そのことを知らない。
それは、力を富に頼っている多くの人と同じである。
多くの人は、富の支えがなければ、歩くこと(生きること)が出来ないと信じている。
多くの人は、富という支えがなければ、幸福や豊かさを得られないと信じているのだ。

2022年3月3日木曜日

追憶 3433

自力で歩くことが出来ないと信じている人から杖を受け取ることが出来るだろうか?
当然ながら、その人は杖を失うことを恐れる。
恐れている人が、手放すことはないのである。
自力で歩くことが出来ないと信じている人から杖を受け取るためには、その人が自力で歩くことが出来ることを知らなければならない。
自力で歩くことが出来ると知れば、杖など邪魔なだけである。

2022年3月2日水曜日

追憶 3432

理(ことわり)に従(したが)うためには、自分という欲を捨てなければならないが、これが難しい。
それは、他者の信念が誤解であることを理解させる程の難しさなのである。
人は、信念を手放すことが出来ない。
なぜなら、それを支えにしているからだ。
誰もが、支えを失うことを恐れるのである。

2022年3月1日火曜日

追憶 3431

富を信仰(しんこう)する人には、この世の理(ことわり)を受け入れることが出来ない。
それは、この世の理である“神”の言葉は、富を信仰する人にとっては都合が悪いからである。
なぜなら、理に従うことは、自分を捨てるということである。
理に従う人は、自分の欲望に従うことは出来ない。
理に従う人は、自分の欲望に従って貪(むさぼ)ることが出来ないのである。