このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2020年9月30日水曜日

追憶 2915

わたしは、霊的な生き方に出会うまでは、傲慢(ごうまん)に生きてきた。
それは、今よりも浅はかであったからである。
今でも知恵には乏しいが、霊的な生き方を始める前は比較にならない程に愚(おろ)かな生き方をしていたのである。
わたしは、悪知恵に従って、傲慢に、強欲に、強情に生きてきたのだ。
振り返ると恥ずかしく思ってしまう。
取るに足らないことに価値を見出して、それに執着(しゅうちゃく)して生きていたのである。

2020年9月29日火曜日

追憶 2914

それには、人間に与えられた特徴(とくちょう)が深く関係しているのだろう。
鳥が翼を与えられ、魚が鰓(えら)を与えられ、獣が牙を与えられたように、人間には知恵が与えられた。
知恵には、深さが存在する。
知恵は知恵でも、それが浅はかなものであれば悪知恵である。
悪知恵は、人を傲慢(ごうまん)に陥(おちい)らせるのだ。
多くの人が傲慢に陥っているのは、知恵が浅いからである。
人間は、未熟から始めなければならない。
すべての人は、未熟に生まれるのである。


2020年9月28日月曜日

追憶 2913

人は、生まれ変わって今の自分に成っている。
大抵の人が、生まれ変わりを経験しているだろう。
魂かどうかは分からないが、何かしら本質的なものが、様々な肉体に宿(やど)り、様々な人生を経験するのである。
あなたは、様々な経験を積んで今に至(いた)っているのだ。
恐らく、人間は人間に生まれ変わることが多いだろう。
恐らくは、動物などにも生まれ変わるであろうが、人間は人間に生まれ変わることが多いと思われる。
人間であるということは、傲慢(ごうまん)に陥(おちい)り易いということを理解しなければならないだろう。

2020年9月27日日曜日

追憶 2912

大切なのは、魂が理解することである。
魂が理解するには、魂に刻み込まなければならない。
魂に刻み込むためには、脳や心に深く刻み込まなければならないのだ。
脳や心に繰り返し刻み込み、そこに違和感がなくなれば成功である。
魂に刻み込めば、それを無意識に行うようになる。
逆を言えば、傲慢(ごうまん)が魂に刻み込まれているために、そのように行うということなのである。

2020年9月26日土曜日

追憶 2911

残念ながら、わたし達は物分かりの良い方ではないだろう。
未熟であるために、何度も同じような失敗を重ね、何度も同じような問題に陥(おちい)り、何度も同じような苦しみに遭(あ)うのだ。
種を見ても、それが何かを理解することは難しいのである。
なぜなら、その種は、随分(ずいぶん)と前に蒔(ま)かれたものであるからだ。
種を見ても、忘れてしまっているのである。
人は、忘れる。
脳や心は、都合の良いように解釈(かいしゃく)しているように思える。
頭や心で分かっているような状態では、再び同じ状態を繰り返すのである。


2020年9月25日金曜日

追憶 2910

それは、学びの樹である。
学びは、様々な工程を用いて学びを導く。
例えば、傲慢(ごうまん)を教えるために腰痛を導くようにである。
彼にとって、腰痛は果実であったのではないだろうか?
そして、わたしがそこから種を取り出して彼に手渡す。
そこで、彼は自らの傲慢さに気が付いて改める。
このような段取りの学びであるだろう。

2020年9月24日木曜日

追憶 2909

一粒の種が、根を出す。
そして、芽を出す。
やがて、枝を伸ばしてたくさんの葉を茂(しげ)らせる。
時が来て花を咲かせ、時が来て実を付ける。
実が熟し、種を露(あら)わにした時に初めて、あの種がこの樹であったことを知るのである。
種が実を付けるには、長い時間を必要とするが、その間、あなたはその樹を育て続けなければならないのだ。

2020年9月23日水曜日

追憶 2908

視野の広い人ならば、“神”を恨(うら)むかも知れないのである。
天に唾(つば)を吐けば、必ず自分に返ってくる。
“神”や人生や他者や肉体や問題に不平不満を吐けば、それは必ず自分に返ってくるのだ。
それは、すぐには返らず、時間をかけて返ってくるので、自分の吐いた不平不満であるとは気が付かない。
それは、様々な工程を経るために、形が変わっているからだ。
傲慢(ごうまん)さが、腰痛として返ってくるなどとは、彼には想像も出来ないことであろう。

2020年9月22日火曜日

追憶 2907

彼は、傲慢(ごうまん)という自らの汚れによって、ギックリ腰という問題と、腰痛や不自由という苦しみを得た。
それによって、恐らく、彼は不平不満を腹の中に溜め込んでいるだろう。
痛みが強過ぎてそれどころではないかも知れないが、不平不満を吐くのは時間の問題である。
傲慢によって腰を折られた者は、腰痛や現状に対して必ず争うのだ。
自分から自由を奪った腰痛に対して、恨み(うらみ)の感情を抱くのである。

2020年9月21日月曜日

追憶 2906

残念ながら、人生の学びは大抵の場合、あなたにとって都合の悪いものである。
理不尽(りふじん)な体験や苦しい問題などが、人生の学びのほとんどであるということを理解しなければならないだろう。
それは、毎回、あなたの心を傷付け、汚すのである。
多くの人は、その汚れをそのままにしておく。
それは、掃除の仕方が分からないということが大きな要因なのではないだろうか?
それは、フライパンの掃除と同じように単純で簡単なことであるが、対象が心であると分からなくなってしまうのであろう。

2020年9月20日日曜日

追憶 2905

それを調理しているのは自分自身であり、自分自身の管理しているフライパンであるということを理解しなければならないだろう。
汚れたままで放置するのか?毎回綺麗にするか?は、自分次第なのである。
確実に言えることは、毎回汚れるということだ。
大抵の人は、食事をしなければならない。
一日に一食の人もいれば、三食以上の人もいるだろう。
人生における学びの調理は、外食のように誰かに頼むことは出来ない。
誰かに頼むことが出来れば、自分のフライパンは汚れないし、焦げ付くこともないだろう。
しかしながら、人生の学びは、毎回、自分自身の心で受け止め、自分自身で処理しなければならないのである。

2020年9月19日土曜日

追憶 2904

多くの人は、傲慢(ごうまん)によって目の前の状況を判断している。
それは、どのような状況からも苦しみを得るということなのである。
多くの人が苦しんでいるのは、自分自身が原因であるということを理解しなければならないだろう。
自らの抱える傲慢さが、人生を苦しいものにしているのだ。
誰や何かが自分のことを苦しめているのではない。
目の前に導かれる状況は、それがどのようなものであれ、新鮮で美味しい食材なのである。

2020年9月18日金曜日

追憶 2903

傲慢(ごうまん)は、心の汚れの中でも最も頑固なものである。
それは、フライパンの焦げ付きのように、簡単に落とすことの出来ない汚れなのだ。
傲慢の炎で熱する程に、汚れは頑丈に焦げ付く。
多くの人は、焦げ付いたフライパンで調理をしているようなものだ。
焦げ付いたフライパンで調理をすれば、どのように新鮮で美味しいはずの食材も、焦げの味をまとってしまうのである。
それは、食材の本来の味を殺し、口にも心にも苦いのである。

2020年9月17日木曜日

追憶 2902

人間に感情が与えられているのは、未知の体験を通じて必要な感情を働かせ、自分というものへの理解を深める必要があるからであろう。
未来を知っているのであれば、希望や不安などの感情の働きは必要ではないのだ。
これから目の前に展開することを知っていれば、感情は働かないのである。
知らないからこそ、感情は働く。
感情が働くことによって、心は大きく揺さぶられる。
それは、自分に付着(ふちゃく)している汚れを振り落とすようなことなのである。

2020年9月16日水曜日

追憶 2901

それは、人生が自分の思惑(おもわく)ではなく、何かしらの目的のために展開(てんかい)しているからであるだろう。
人生が自分の思惑を目的としているのであれば、思い通りになることの方が多いのではないだろうか?
多くの人は、これから人生に起こることを知らない。
自らの未来を知っている人はいないのだ。
人生が自分の思惑によって展開するのであれば、未来を知ることは簡単である。
しかしながら、未来を知ることは出来ないだろう。
未来を知っているのであれば、様々な感情は必要ないのである。

2020年9月15日火曜日

追憶 2900

それは、目の前の現実を受け入れるということだ。
反発や否定の感情はどうしても生じてしまう。
人生には、受け入れたくない現実ばかりなのだ。
わたしの人生は、何一つ思い通りになったことはないし、都合の悪いことや、苦しいことの方が多いのである。
それは、誰もが同じように思っているのではないだろうか?
残念ながら、人生は、自分の思い通りにはやらせてくれないし、都合の良いことや、楽しいことは少ないのである。

2020年9月14日月曜日

追憶 2899

現在の37歳のわたしも、やはり何も知らないが、自分が傲慢(ごうまん)であることには辛うじて気が付いている。
時々、忘れることもあるが、以前のように忘れたままということはないのだ。
わたしは、自分が正しいとは思わなくなった。
ただし、自分が間違っているとも思ってはいない。
判断の決定権を自分から人生へと移行することを覚えたのである。
わたしは、出来る限り自分では判断をしないように心掛けている。
判断は人生に委(ゆだ)ねているのだ。



2020年9月13日日曜日

追憶 2898

それは、様々な苦しみの経験を積んだことによって、いくらかは傲慢(ごうまん)を取り除くことが出来たからであろう。
霊的な感覚を得る前のわたしは、思い通りにならないことを受け入れることが出来ずに、不平不満に陥(おちい)っていた。
そして、悲しみに従(したが)って、絶望へと辿り着いていたのである。
わたしは22歳頃までは、何も知らずに傲慢に生きていた。
わたしの22年間の普通の人生は、不幸だったのである。

2020年9月12日土曜日

追憶 2897

人生を思い通りに生きることの出来る人はいない。
人生には、“流れ”のようなものがあり、それに逆らうことは出来ないのである。
逆らう努力は可能ではあるが、流れに勝ることは出来ないのだ。
わたしは、現在の人生を想像してはいなかった。
人生は、想像とは全く異なる形で展開している。
人生がこのようになるとは思っていなかったのである。
昔のわたしであれば、これを不幸と呼んだかも知れない。
しかしながら、わたしは現状を不幸だとは思わないのである。

2020年9月11日金曜日

追憶 2896

人が傲慢(ごうまん)に陥(おちい)ると、問題や苦しみに遭(あ)うのは、人生には何かしらの意味や目的が存在しているからであろう。
人生に意味や目的が存在していなければ、好き勝手に生きれば良いのである。
しかしながら、好き勝手に生き続けられる人はいない。
必ず、何かしらの問題や苦しみが立ちはだかり、好き勝手にはさせないのである。
どのような人物も、人生を好き勝手には生きられないのだ。

2020年9月10日木曜日

追憶 2895

すべての人は、本質へと近付かなければならない。
それは、わたし達が人生に目的を以(もっ)て生まれたからである。
人生に何の目的も無く生まれたのであれば、本質へと近付く必要はない。
しかしながら、どう考えても、人生には何かしらの意味と目的が存在するとしか思えない。
何の意味も無く、このように大掛かりな体験をする必要があるだろうか?
無意味な体験にしては、手が凝り過ぎているのである。

2020年9月9日水曜日

追憶 2894

多くの人は、既存(きぞん)の価値や価値観に執着(しゅうちゃく)する。
新しい価値や価値観を受け入れるのは難しいのである。
今あるものを大切にするのは良いことであると思うが、失わなければならない時には手放さなければならないだろう。
それは、とても悲しく、とても辛いことであるが、仕方のないことなのだ。
それは、本質へと近付くためである。

2020年9月8日火曜日

追憶 2893

自然災害は、人災であるだろう。
元より、自然環境から見れば、自然災害は災害ではない。
人間が自然災害と呼ぶものは、自然環境に対して必要なものである。
人間にとっても必要なことではあるが、財産という概念(がいねん)を持ってしまった人間には、それを奪われることは災害なのである。
災害は、既存(きぞん)の価値や価値観を破壊する。
重要なのは、それをどう捉(とら)えるか?ということである。
執着(しゅうちゃく)する者にとっては害であり、変化を受け入れる者にとっては益である。

2020年9月7日月曜日

追憶 2892

それは、人間が自然界の外の存在であることを示しているだろう。
自然界の生物は、自然環境を安定、持続させるために存在する。
自然環境を破壊するのは、外部からの圧力なのである。
自然界の生物が、自然環境を破壊するはずがない。
そのような生物は存在しないのである。
人間が原因で自然環境が破壊されたことは多々あっても、自然界の生物が原因で自然環境が破壊されたことはないだろう。
文明の発展に従って、自然災害も発展しているように思えるのである。

2020年9月6日日曜日

追憶 2891

自然界の猛獣は、傲慢(ごうまん)ではないだろう。
彼等は、絶滅の危機に晒(さら)される程に謙虚(けんきょ)なのではないだろうか?
猛獣が生態系を崩すことがないのは、彼等が謙虚であるからだろう。
恐らく、人間はバランスの取れた生態系に外部から侵入した部外者である。
それも、特別な部外者だ。
人間には、自然環境を左右する程の力を与えられているのである。

2020年9月5日土曜日

追憶 2890

生態系の頂点に君臨(くんりん)する猛獣は、傲慢(ごうまん)に見える。
しかしながら、彼等は決して傲慢ではない。
自然界の猛獣が、取り過ぎることはないのだ。
生態系の頂点に君臨する猛獣が絶滅の危機にあっても、生態系を支える草食動物や小動物が絶滅の危機に晒(さら)されることはない。
もしも、自然界の猛獣が傲慢であるのならば、人間と同じように取り尽くしてしまうだろう。
しかしながら、そのようなことはないのだ。
人間だけが、生態系のピラミッドの形を変えてしまうのである。

2020年9月4日金曜日

追憶 2889

猛獣を飼い慣(な)らすというのは、仲良くなるということである。
猛獣も、仲良くなれば危険ではない。
寧(むし)ろ、頼もしい仲間である。
仲良くなれば、互いに傷付け合うことはないだろう。
元々は、必要があって存在しているのである。
猛獣が危険だからといって排除(はいじょ)すれば、自然環境は悪化してしまうのだ。
自然環境のバランスを保つためには、猛獣の存在が必要だということを理解しなければならない。
猛獣がいなければ、自然環境はバランスを崩してしまうのである。

2020年9月3日木曜日

追憶 2888

傲慢(ごうまん)とは猛獣のようなものである。
多くの人は、猛獣と一つ屋根の下で生活しているようなものだ。
当然のことながら、猛獣と一つ屋根の下で生活することは危険である。
それは、危機的な状況なのだ。
猛獣をそのままにしておいてはいけない。
猛獣を飼い慣らさなければならないのである。
猛獣の爪や牙(きば)を取り除き、鞭(むち)で打って従わせるのも良いが、それではいつか牙を向くのである。
大人しく従っているからといって安心していると、ひどい目に遭(あ)うのだ。

2020年9月2日水曜日

追憶 2887

人は、同じ過(あやま)ちを繰り返す。
何度も同じ問題によって苦しむが、懲(こ)りるまでは続けなければならないのである。
傲慢(ごうまん)の木が枯れるまでは、枝を落とし続けなければならないのだ。
それは、根気のいる作業である。
多くの傲慢な人は、初め、問題に対して横柄(おうへい)な態度を取る。
それは、すべての問題の原因が自分にあり、自分が悪いということに気が付かないからだ。
しかしながら、初めは横柄な態度を取っていたとしても、何度も同じ過ちを繰り返し、苦しみを受け続けていると、やがては気力を失ってしまう。
それは、猛獣が人間に鞭(むち)で打たれ続けると、牙(きば)を抜かれるのと同じようなことである。

2020年9月1日火曜日

追憶 2886

どのような人物の、どのような人生にも問題が生じる。
それは、どのような人物も傲慢(ごうまん)を抱えているからだ。
傲慢は確実に問題を引き起こす。
問題が生じれば、方法を変えるのは当然のことである。
傲慢によって生じた問題は、謙虚(けんきょ)によって修正する必要があるだろう。
反省して改めない限りは、問題によって苦しまなければならないのである。
それも、同じ問題によって苦しみ続けることになるのだ。