光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2021年9月30日木曜日
追憶 3279
富を信仰(しんこう)する人は、自然から離れることで上等な人間性と豊かな人生が得られると思っている。
それは、昔の人間が野蛮(やばん)だと思い込んでいるからであろう。
それは、学校でそのように教わるからである。
人間は猿から進化して村を作り、マンモスを狩り、壺(つぼ)を焼いて木の実や貝を食べ、原始的な生活を営んでいた。
このように教わるのである。
2021年9月29日水曜日
追憶 3278
富を信仰(しんこう)する人が増えると、自然環境は悪化する。
経済活動が活性化する程、自然界からの搾取(さくしゅ)は大きくなる。
今日(こんにち)の中国がそうであり、かつての日本がそうであったように、経済発展に比例して自然環境は悪化するのだ。
また、自然から離れる程に肉体的、精神的な病気も増える。
それは、自然から離れるからである。
人は、自然から離れて健全な人生を築くことは出来ないのである。
2021年9月28日火曜日
追憶 3277
文明人に成りたがる人達は、自然を否定する。
彼等は、自然から離れ、不自然になる程に上等な人間だと思い込んでいるのである。
そのような不自然な人間が、他者を奴隷(どれい)として扱ったり、争いによって領土や財産を奪ったり、政治を利用してすべてを支配したがるのである。
高い建造物に住んで満足しているのも不自然である。
不自然さは、富への信仰(しんこう)へと繋がるし、富への信仰は不自然を実現するのである。
富を信仰する人は、必ず自然を壊すのである。
2021年9月27日月曜日
追憶 3276
残念ながら、人は不自然な存在である。
人間らしさとは、自然から離れる程にそれらしくなるものである。
文明の発展は、人を自然から遠ざける。
人は、文明の発展に比例して人間らしくなるのである。
人間らしさとは、不自然なものであるだろう。
そのため、文明人は原住民を野蛮(やばん)に思うだろう。
それは、原住民が自然に近いからである。
2021年9月26日日曜日
追憶 3275
富は人を非道にさせる。
富を信仰(しんこう)する人は、富のために心無いことも出来る。
富を信仰する人の選択の動機は、“それが金になるか?”というものである。
利益が得られるならやるし、損失を出してしまうならやらないのだ。
それが世の中にとって良いことであろうとも、金にならないならやらないし、それが世の中にとって悪いことであっても、金になるならやるのである。
2021年9月25日土曜日
追憶 3274
それは、富によって満たされると思い込んでいるからである。
わたしは、貧乏が良いとか、金持ちが悪いと言っているのではない。
人生というものは、富のために費やされるべきではないと言っているのである。
“神”のいない人生は空しいのだ。
それは、心の無い世界だからである。
2021年9月24日金曜日
追憶 3273
富に対する信仰心(しんこうしん)はとても強く根深い。
それは、桑の木のように大きく育ち、多くの恵みを与えてくれる。
多くの恵みを与えてくれる大樹を取り除くことは難しい。
それは、物理的にも精神的にも難しいことなのである。
金持ちが財産を手放すことは難しい。
権力者が権限を手放すことは難しい。
著名人(ちょめいじん)が名声を手放すことは難しい。
富を信仰する人が、信仰心を手放すことは難しいのである。
2021年9月23日木曜日
追憶 3272
厳密(げんみつ)には、金銭欲にも限界はあるが、他の欲求に比べて衰(おとろ)えるのに時間がかかるのである。
多くの人は、死ぬ寸前まで金のことを心配しているかも知れない。
しかしながら、死を前にした時には、食欲や睡眠欲や性欲のことは考えないだろう。
死を前にしても強く残るのが金銭欲なのである。
それ程に強い欲求であることを知らなければならないだろう。
2021年9月22日水曜日
追憶 3271
金は幾らあっても、増える度に喜ぶことが出来る。
しかしながら、その喜びも束(つか)の間のことである。
今まで以上に金を貯めても、より多く欲しくなってしまうのだ。
百万円貯めれば、五百万円貯めたくなるし、五百万円貯めれば、一千万円貯めたくなる。
一千万円貯めれば、一億円貯めたくなるのである。
どれだけ美味しいものを食べても、やはり腹は減る。
腹が減れば、より美味しいものを食べたくなるのである。
食欲には限りがあるかも知れないが、金銭欲には限りがないだろう。
2021年9月21日火曜日
追憶 3270
どれだけの金や物を手に入れても、後からより魅力的な商品が現れる。
より魅力的な商品は、より高価なものである。
富を信仰(しんこう)する人は、安価なものには魅力を感じないだろう。
そのため、より魅力的な商品を手に入れてるためには、より多くの金が必要になる。
より魅力的なものを手に入れようとすれば、金は幾らあっても足らないのである。
富を信仰(しんこう)する人は、金は多ければ多い程良いと考えるだろう。
少なければ困るが、多い分には困らないと考えるのである。
2021年9月20日月曜日
追憶 3269
すべての富を手に入れたとしても、満たされることはないだろう。
それは、どのように美味しいものを食べても、やがては腹が減るのと同じことである。
満たされるためには、食べなければならない。
食べなければ満たされないが、やがて腹は減るのである。
腹が減ることからは逃れられない。
渇きは無くならないのである。
2021年9月19日日曜日
追憶 3268
金のために命をかけられる人は少ないだろう。
金を欲するのは、大抵の場合、誰かのためである。
自分自身のために金を稼(かせ)いでも、金が貯まっていくだけである。
初めの頃は、金が貯まっていくことに喜びを覚えるかも知れない。
しかしながら、ただ金が貯まっていくだけである。
金によって様々な商品を手に入れたとしても、資産が増えていくだけのことである。
2021年9月18日土曜日
追憶 3267
多くの人は、死を前にして金や商品や富のことを考えないだろう。
富への信仰(しんこう)が強い人は、富のために自ら命を絶ったりもする。
しかしながら、そのような人は少数派である。
多くの人は、富と“神”を天秤(てんびん)にかけた時には、“神”の方が重たいと判断するだろう。
先の大戦で戦った日本人は、金のために命をかけたのだろうか?
恐らく、金のために命をかけて戦った日本人はいないだろう。
日本人は、金では買えない家族や大切なものを守るために、命をかけて戦ったのである。
2021年9月17日金曜日
追憶 3266
欲しいものには限界がある。
どのように強欲な人も、肉体と精神の衰(おとろ)えに比例して、欲しいものは減っていく。
金で買って満たせる欲求には限界があるのだ。
肉体や精神が衰えてまで、金で買える商品に拘(こだわ)り、他者と競り合うだろうか?
例えば、病気によって死を意識している時にまで、金で買える商品のことを考えているだろうか?
恐らくは、そのような人は稀(まれ)である。
2021年9月16日木曜日
追憶 3265
多くの富を所有して、買いたいだけの物を手に入れたら、後は空しさとの闘いになる。
企業は、努力して魅力的に“見える”商品を発売する。
限定品にしたり、価格を釣り上げたりして購買意欲を煽(あお)る。
会社でも、株券でも、不動産でも、美術品でも、工業製品でも、装飾品でも、次から次へと販売される。
しかしながら、その本質は、“前とは少しだけ変わった物が目の前に現れる”という程度のものである。
2021年9月15日水曜日
追憶 3264
金よりも価値のある本質は、金によって取引することは出来ないのである。
富に対する信仰(しんこう)には限界があることが分かるだろう。
しかしながら、そのことに気が付くのは、富に対する信仰が極まった後かも知れない。
多くの富を所有することで、富によって得られるものの限界が見えてくるのである。
2021年9月14日火曜日
追憶 3263
しかしながら、本質以外のすべてを買える金も、本質だけは買うことが出来ない。
本質とは、命であったり、本心であったり、運命であったり、魂などである。
これ等の本質は、この世の富をどれだけ積んでも買うことが出来ない。
もちろん、売ることも出来ないのである。
それは、それ等の本質が、金よりも価値のあるものだからだ。
金で取引することが出来るのは、金と同等の価値のあるものか、金よりも価値の低いものである。
金と同等か、それよりも価値が低いから取引が成立するのである。
2021年9月13日月曜日
追憶 3262
目に見える世界を生きているのだから、金が優れていると思い込むのも無理はない。
金は、本質以外のすべてを買える。
金に本質以外の不可能はないだろう。
金は、本質以外の問題をすべて解決してくれる。
金には力があり、価値があると思い込むのも無理はないのである。
実際に、本質以外に対しては力があり、価値があるのだ。
多くの人が金を追い求めるのは“普通”のことであるだろう。
2021年9月12日日曜日
追憶 3261
格差が広がったことによって、人は自分と他者を比較するようになった。
比較は、人の心に優越感や劣等感を植え付けた。
そして、優越感を抱えた人も、劣等感を抱えた人も、同じように金に対する欲求が高まった。
なぜなら、金によって優劣を比較しているからだ。
そして、世の中には金持ちが優れ、貧乏は劣っているという風潮(ふうちょう)が育った。
2021年9月11日土曜日
追憶 3260
当時の日本人は金持ちだったように思える。
平均的にお金を持っていた印象である。
お金に余裕があり、経済的な不安が少なく、仕事や遊びを楽しんでいるように思えた。
当時の大人は、今に比べて夢や希望を抱えている人が多かったかも知れない。
しかしながら、いつまでも派手な暮らしは続かなかった。
多くの人はお金を失い、格差が広がったように思える。
2021年9月10日金曜日
追憶 3259
わたし達は、富が信仰(しんこう)に値(あたい)するのか?ということを熟考しなければならないだろう。
当たり前に生きているのであれば、富に対する信仰に疑問を抱くことはない。
疑問を抱くことがなければ、当たり前を続けていくのである。
日本に生まれると当たり前のことも、外国では非常識であったりする。
わたしは、富を信仰する世の中に生まれた。
わたしの生まれた80年代は、既に富に対する信仰が蔓延(はびこ)っていたように思える。
2021年9月9日木曜日
追憶 3258
しかしながら、それは、人生の目的として相応(ふさわ)しいのだろうか?
わたし達は、この世を贅沢(ぜいたく)に生きるために生まれて来たのだろうか?
多くの人は、我欲が疼(うず)き、富を追い求めなければならないのだろう。
しかしながら、富は命に相当するものなのだろうか?
富のために命を費やしても良いのだろうか?
命を掛けて得られるものが富で良いのだろうか?
2021年9月8日水曜日
追憶 3257
利己的な者は、地の国に執着(しゅうちゃく)する。
利己的な者は、地の国の富を手放すことが出来ないのである。
利己的な者にとっては、地の国での繁栄(はんえい)こそがすべてである。
地の国での繁栄こそが豊かさなのである。
確かに、地の国の富は魅力的に見える。
多くの人が、それを欲するのは仕方のないことだろう。
2021年9月7日火曜日
追憶 3256
富を信仰(しんこう)するということは、自分(自我)を大きくしていくことである。
金持ち程、天の国からは遠ざかってしまうのだ。
金持ち程、傲慢(ごうまん)であり、自己顕示欲(じこけんじよく)が強く、利己的である。
そのような者が天の国に入ることは出来ないだろう。
なぜなら、天の国には利他的な者しかいないからだ。
利他的な者の中に利己的な者が入っても、居た堪(たま)れない気持ちになって、そこから逃げ出すだろう。
利己的な者は、利己的な者が集まる地の国に生まれるのである。
2021年9月6日月曜日
追憶 3255
イエスは、“金持ちが天の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が易(やさ)しい”と言った。
それは、自分を小さくしない者には、“神”への信仰(しんこう)は有り得ないということであろう。
自分のために生きる者には、他者を理解することが出来ない。
自分のために生きる者には、世界の半分くらいしか理解することが出来ないのである。
“神”を信仰し、他者のために生きて理解を深めなければ、人生の目的や魂の役割といった本質的な部分を理解することは出来ないのである。
2021年9月5日日曜日
追憶 3254
他者を理解するためには、他者のために生きなければならない。
他者のために生きるためには、富への信仰(しんこう)は手放さなければならないのである。
なぜなら、富への信仰は、自分のために生きる姿勢だからだ。
他者のために生きるためには、“神”への信仰を抱かなければならない。
人は、“神”を信仰することによって、自分のために生きる姿勢を手放すことが出来るのである。
2021年9月4日土曜日
追憶 3253
自分を理解するためには、他者を理解しなければならない。
他者という半分を無視するのであれば、理解は深まらないのである。
自分のためだけに生きたとしても、物事に対する理解が深まることはなく、悟ることも幸せになることも出来ないということを知らなければならないだろう。
富への信仰(しんこう)を強めたとしても、それだけでは悟ることも幸せになることも出来ないのである。
2021年9月3日金曜日
追憶 3252
利己的に生きたとしても、理解することが出来るのは小さな世界観である。
自分自身のために生きたとしても、物事の本質を見極める力は育たない。
自分自身が救われるために修行を続けても、悟りは得られないのである。
それは、自分には、相対的に他者が存在するからである。
自分自身のために生きたとしても、分かることは半分以下であるだろう。
視野の狭い人には、分かることが少ないのだ。
2021年9月2日木曜日
追憶 3251
そのため、多くの人は富を信仰(しんこう)する。
それは、小乗仏教(しょうじょうぶっきょう)のような信仰観であるだろう。
小乗仏教とは、自分自身の幸せを優先するような価値観である。
自らの修行を優先し、自分自身が悟ることや幸せに到達しなければ、他者を悟らせたり幸せすることは出来ないという考え方だ。
確かに、自分自身の修行が完成しなければ、他者を導くことは出来ないだろう。
しかしながら、利己的に生きたとしても、悟ることや幸せを得ることは出来ないのである。
2021年9月1日水曜日
追憶 3250
そのため、人生の目的や魂の役割といった本質的な部分を共有することは出来ないのである。
人が共有することが出来るのは、頭や心で認識することの出来る部分だけだ。
それは、自我意識の領域(りょういき)である。
富への信仰(しんこう)は、自我意識の領域で行われる。
そして、それは共有することが出来るものである。
富への信仰は、頭や心で理解することが出来るし、その価値観を共有することは容易(たやす)いのである。
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