光の天秤 -自叙伝-
このブログについて
自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。
2021年7月31日土曜日
追憶 3218
この世界や人生における様々な問題や苦しみは、強欲によって引き起こされる。
強欲が傲慢(ごうまん)を生む。
そして、傲慢が“和”を壊すのである。
調和が保たれていれば、問題や苦しみが生じることはない。
それは、問題や苦しみと思い込んでいるものも、本来ならば、調和の中に存在するからである。
強欲で傲慢な人は、調和の中から自分にとって都合の良いものを抜き出した。
そのため、問題や苦しみも撒(ま)き散らされたのである。
2021年7月30日金曜日
追憶 3217
富を信仰(しんこう)する人達は、自分の蔵に富を貯(たくわ)えるためなら何でもする。
そのためなら、他者のことや自然環境のことなど気にしない。
彼等は、自分の蔵に富が貯えられるならそれで良いのである。
しかしながら、それが様々な病気や災害を引き起こしていることは知らないだろう。
もしかすると、知ってはいるが、富に目が眩(くら)んで黙認しているのかも知れない。
彼等は、病気や災害の原因が、自分達の強欲にあることを認めないだろう。
2021年7月29日木曜日
追憶 3216
同じように、富を信仰(しんこう)する人達は、互いに争うことや自然環境を破壊することの意味を分かってはいない。
彼等は、自分の蔵(くら)に富を貯(たくわ)えることしか考えていないのである。
すべては、私腹(しふく)を肥(こ)やすためである。
様々な偽善行為は、誰かや何かのために行われるのではない。
富を信仰している人達は、自分のために生きているのである。
しかしながら、彼等はそれがどのような結果を引き起こすかを知らないのである。
2021年7月28日水曜日
追憶 3215
イエスを処刑した人達は、それが正しいことだと思っていただろう。
そして、自分達が殺したイエスを利用して宗教を立ち上げることも正しいと思っていただろう。
イエスを利用した宗教によって、他国や他民族や他文化を侵略(しんりゃく)し、そこにある様々な財産を奪い取ることも正しいと思っていただろう。
そして、入信する人達は、それを正しいと思い、その活動を支持しているのだろう。
彼等は、盲信(もうしん)している宗教が何をしていて、自分が何をしているか分からないのである。
2021年7月27日火曜日
追憶 3214
弱い立場の人間を虐(いじ)めている時にも、何かしらの不正を働く時にも、その人は自分が正しいと思っているし、誰かや何かが悪いと思い込んでいるのだ。
愚行(ぐこう)を働いている時、本人はそれを愚行だとは思っていない。
寧(むし)ろ、自らを正当化し、美化しているのである。
愚行を働いている本人は、それを愚行だと理解することは出来ない。
それは、欲に目が眩(くら)んでいるからである。
2021年7月26日月曜日
追憶 3213
欲は、人の目を眩(くら)ませる。
欲に目が眩んだ人は、自分が何をしているか分からない程に利己的な状態に陥(おちい)ってしまう。
小さなプライドや僅(わず)かな金を得るために人を殺したり、一瞬の快楽のために女性を犯(おか)す。
人の世には、このようなことは日常茶飯(にちじょうさはんじ)である。
大抵の人は、自らの愚行(ぐこう)に後悔するだろう。
しかしながら、それを行なっている時には、自分が正しいと思い込んでいるのである。
2021年7月25日日曜日
追憶 3212
傲慢(ごうまん)な人は、自分が何をしているか分かっていない。
それは、富を盲信(もうしん)しているからだ。
傲慢に陥(おちい)っている時、人は自分が何をしているか分からない。
自分が正しいと思い上がっている時には、俯瞰(ふかん)することは出来ないのである。
富を信仰(しんこう)する人は、富を得ようとして欲深くなる。
富を信仰する人は、富を得るために偽善や企(たくら)みによって人を騙(だま)すことも厭(いと)わない。
キリスト教を利用した人達が、イエスを使った偽善や企みによって、無垢(むく)な人や、苦しみを抱えている人を騙しているようにである。
2021年7月24日土曜日
追憶 3211
キリスト教は、形式と偽善と強欲を体現している宗教である。
これ等の行いは、イエスとは正反対のものなのである。
聖書を読めば、キリスト教とイエスが無関係なのが分かる。
しかしながら、信者にはそのことが分からないのだろう。
イエスは、十字架にかけられた時に“父よ、彼等をお赦(ゆる)しください。彼等は、自分が何をしているか分からないのです。”と述(の)べている。
“彼等”は、昔も今も自分が何をしているか分からないのである。
2021年7月23日金曜日
追憶 3210
しかしながら、富を信仰(しんこう)する人達は、敵であるイエスも自分達が富を得るために利用した。
それがキリスト教である。
キリスト教は、イエスが立ち上げた宗教ではない。
イエスの教えとは正反対のことを教え、行っているのがキリスト教である。
残念ながら、多くの信者はそのことを知らないだろう。
彼等は、盲信(もうしん)するだけなのである。
“信じる者は救われる”ということである。
キリスト教は、今も昔も、富を信仰する人達の宗教であるということを理解しなければならないだろう。
2021年7月22日木曜日
追憶 3209
そのような人達にとって、イエスは邪魔であり、敵だったのである。
富を信仰(しんこう)する人は、富を得るための障害を排除(はいじょ)しようと努める。
それは、彼等が損得勘定で考えるからだ。
富を信仰する人は、白か黒か?、得か損か?という極端な選択肢に至(いた)る。
それは、富という利益を求めているからだ。
“神”への信仰を訴(うった)えたイエスは、彼等の富に対する信仰の妨げであったのである。
2021年7月21日水曜日
追憶 3208
富を信仰(しんこう)すると傲慢(ごうまん)さが強化される。
富を信仰する人は、意見の違いによって争う。
争いの原因は、いつの時代も形式や偽善や強欲なのである。
富を信仰する人は、いつの時代も形式や偽善や強欲に拘(こだわ)り、それによって争ってきたのだ。
“神”を信仰する人は、互いに思いやり、愛し合うことが出来るだろう。
イエスを殺したのは、富を信仰する形式的な偽善者であり、強欲で傲慢な人達であったのである。
2021年7月20日火曜日
追憶 3207
それは、イエスが富ではなく、“神”を信仰(しんこう)していたことを証(あかし)している。
イエスが富を信仰していたのであれば、罪人や病人と共にはいなかったであろう。
イエスが富を信仰していたのであれば、権力者や金持ちと共にいて、パリサイ派の教師のように、形式と偽善と強欲に陥(おちい)っていたことだろう。
しかしながら、イエスはそれとは真逆の生き方をして富を信仰する人達の恨(うら)みを買い、殺されてしまったのである。
2021年7月19日月曜日
追憶 3206
大切なのは、困っている人を助けることである。
富を信仰(しんこう)する人は、自分を助けている。
自分自身の利益のために働いているのである。
イエスは、福音書の中で、“健康な人に医者はいらない。医者を必要としているのは病人だ。わたしは、正しい人を導くために来たのではなく、罪人(つみびと)を神に立ち返らせるために来たのだ。”と言ったのである。
イエスは、罪人を助けるために生まれた。
富に囲まれて贅沢(ぜいたく)に暮らすため生まれたのではないのである。
イエスは、自分の利益のためには生きなかったのである。
2021年7月18日日曜日
追憶 3205
大抵の人は、富(利益)によって繋がっている。
それが“普通”なのである。
人々は、無償(むしょう)の愛で繋がることは出来ない。
無償の愛で繋がれる程の“神”に対する信仰心(しんこうしん)は持っていないのである。
人々は富を信仰し、利益によってのみ繋がる。
多くの人は、損失や害を切り捨てるのだ。
多くの人は、ただ働きや損を嫌う。
それは、仕方のないことである。
残念ながら、人々は無償の関係性を築くことは難しいのである。
2021年7月17日土曜日
追憶 3204
富を信仰(しんこう)する人には、同じように富を信仰する人達が集まる。
それは、富(利益)によって繋がる関係性なのである。
富(利益)に対して集まっているだけで、その人のために集まっているのではない。
その人が富を失えば、そのような人達は簡単に離れていくだろう。
その人と繋がっていれば、富(利益)を得られる可能性があるから繋がっているだけなのである。
2021年7月16日金曜日
追憶 3203
自然に生きれば、富に対する信仰(しんこう)は小さくなっていくものである。
正しく成長すれば、物質的な価値観や生き方には無理があることを悟るのである。
しかしながら、不自然に生きているのであれば、物質的な価値観や生き方にこそ救いがあると信じてしまうのだ。
自分自身や他者の肉体的な欲求の減少や、他者の死を体験すれば、富に救いが無いことを理解することが出来るだろう。
豪華な葬式に、煌(きら)びやかな衣装の坊主の高価なお経と戒名(かいみょう)、多くの仕事関係の人間を集め、遺産を巡って争う親族を見ても、幸せな生涯だったと思えるだろうか?
2021年7月15日木曜日
追憶 3202
富を信仰(しんこう)する人にとって、富の減少は不安でしかない。
彼等は、増やすことや貯(たくわ)えることでしか安心することが出来ないのである。
しかしながら、肉体的な欲求というものは減少していくのが自然である。
食欲も睡眠欲も、性欲も物欲も顕示欲(けんじよく)も、普通は減少するのである。
2021年7月14日水曜日
追憶 3201
意識の山を登るためには、俗的(ぞくてき)な欲を捨てなければならない。
意識の山を登るためには、俗的な視点からすれば禁欲や貧しさを受け入れなければならないのである。
“神”を信仰(しんこう)することは、貧しい暮らしをするということではない。
それは、多くの富を所有していなくても、豊かさを実感することの出来る暮らしのことなのである。
富を信仰する人は、有り余る富を所有していなければ不安であり、不幸なのである。
2021年7月13日火曜日
追憶 3200
それは、富を信仰(しんこう)している人の救いや幸福というものが欲に根差しているからである。
富を信仰している人にとっては、欲望を実現することが幸福であり、豊かさなのだ。
富を信仰している人にとっては、自らの欲望を妨げるものが困難であり、災(わざわ)いなのである。
富を信仰している人は、禁欲や貧しさというものから救われることを願うのである。
2021年7月12日月曜日
追憶 3199
多くの人は、富を信仰(しんこう)している。
金持ちに成りたいという信仰の形もあれば、お金に対する不安による信仰の形もある。
ポジティブでもネガティブでも、信仰には変わりがないのだ。
多くの人は、富を崇拝(すうはい)する宗教に属しているのである。
多くの人は、富に縋(すが)っているのである。
富が困難から自分を救い、幸せや豊かさを与えてくれると信じているのである。
2021年7月11日日曜日
追憶 3198
しかしながら、そのことには気が付いていない人も多い。
それが企みであるということにすら気が付いていない人もいる。
見返りのあるものが愛だと主張する人もいるし、居直(いなお)って自己を正当化している人もいる。
自らの企(たくら)みを崇高(すうこう)なものだと考えている人もいるのである。
世の中には、偽善が溢れている。
富を信仰(しんこう)している者の施(ほどこ)しなど、偽善以外のなにものでもないのである。
2021年7月10日土曜日
追憶 3197
多くの人は、愛というものを誤解している。
多くの人は、愛に条件を付けているのである。
多くの人の考える愛には、何等かの利益を得ることが条件付けられているのだ。
多くの人は、何等かの利益が得られなければ、与えることをしない。
無償(むしょう)や損をしてまで与えようとは思わないのである。
多くの人の施(ほどこ)しには、何等かの利益を得るための企(たくら)みが潜んでいるのだ。
2021年7月9日金曜日
追憶 3196
残念ながら、愛を富で手に入れることは出来ない。
寧(むし)ろ、富は愛の障害になってしまうのである。
富によって、愛は純粋さを失う。
富が干渉(かんしょう)すれば、それは愛ではないのである。
世間では、お金や財産がなければ愛も成り立たないというが、お金や財産が無くても成り立つのが愛なのである。
そのため、お金や財産によって成り立っていたのは、愛ではない他の何かなのである。
2021年7月8日木曜日
追憶 3195
富を信仰(しんこう)すれば、どうしても争わなければならない。
富を信仰しているのに、“神”の信仰の結果である愛を手に入れることは出来ないのである。
富を信仰しながら、真(まこと)の愛を手に入れることは出来ないだろう。
それは、富は有償(ゆうしょう)だからである。
有償の愛などというものは存在しない。
愛というものは無償(むしょう)なのである。
2021年7月7日水曜日
追憶 3194
利他的な者は愛することが出来るが、利己的な者は争わなければならない。
愛することと争うことなら、愛することの方が幸せである。
大抵の人は、どちらかを選べと言われたら愛することを選ぶだろう。
それは、幸せを求めているからである。
人は、愛することでしか幸せにはなれない。
争いでは、幸せにはなれないのである。
そのため、富に対する信仰では幸せにはなれないのだ。
2021年7月6日火曜日
追憶 3193
“神”に対する信仰(しんこう)は、利他的なものである。
富を信仰する人は、富を所有しようと利己的になる。
しかしながら、“神”を信仰する人で、“神”を所有しようとする人はいないのである。
富への信仰は、自分が何かを得ようとするが、“神”への信仰は、他者に何かを与えようとするのである。
それは、性質の異なる信仰なのだ。
2021年7月5日月曜日
追憶 3192
争いは、富に対する信仰(しんこう)から始まる。
傲慢(ごうまん)、強欲、嫉妬(しっと)、執着(しゅうちゃく)、独占(どくせん)、優越、僻(ひが)み、憤怒(ふんぬ)、怨恨(えんこん)、悲観、恥辱(ちじょく)、羨望(せんぼう)、軽蔑(けいべつ)、差別…
このような心の働きは、富に対する信仰によって引き起こされるのだ。
“神”を信仰する人の心には、このような疚(やま)しい企(たくら)みは生じないのである。
2021年7月4日日曜日
追憶 3191
しかしながら、多くの人が刹那的(せつなてき)に生きればどうなるだろう?
人生が一度切りだとか、死後の世界など存在しないとして、自分勝手に生きれば、思いやりや優しさ、許(ゆる)しや愛情は育たないだろう。
それでは、弱肉強食の殺伐(さつばつ)とした世界が実現するのである。
富を信仰(しんこう)する傲慢(ごうまん)な人は、弱肉強食の世界を生きている。
富のあるところに争いは絶えないのである。
2021年7月3日土曜日
追憶 3190
死後の世界や前世というものがあると信じている人は、傲慢(ごうまん)に、自分勝手に生きることは出来ないだろう。
死ねば終わりだと思っているから、好き勝手に生きられるのである。
どのように生きようと、その人の自由であるだろう。
誰にも、他人の生き方を批判(ひはん)する権限は与えられていないのだ。
2021年7月2日金曜日
追憶 3189
アリは冬が来るのを知っていたし、冬の過ごし方も知っていた。
そのため、冬のために懸命(賢明)に生きたのである。
ここでいう冬とは、死後のことである。
富を信仰(しんこう)する人達は、人生が一度切りだと信じている。
彼等は、死後の世界など認めない。
死後や前世や中間生の記憶を持っている人が多くいるにもかかわらず、それを認めることはないのである。
そのため、公(おおやけ)に知られることがなければ、何をやっても良いと考えているだろう。
富を信仰する人達は、法律や道徳よりも富に対する信仰を優先する。
彼等にとっては、何よりも金を儲(もう)けること、利己的な快楽や欲望を満たすことが大事なのだ。
2021年7月1日木曜日
追憶 3188
すべての人が、いつかは死に辿り着くことを知っている。
恐らくは、死を克服(こくふく)した人はいないだろう。
どのような人物も、必ず死ぬのである。
死は避けられないのだ。
すべての人は、自分も例外なく死ぬことを知っているだろう。
しかしながら、死後のことは知らないのである。
富を信仰(しんこう)する傲慢(ごうまん)な人の多くは、死後の世界など存在しないと考えている。
“無”に成るというのも矛盾(むじゅん)しているが、傲慢な人は死ぬと“無”に成ると考えているのだ。
それでは、人生を生きる意味がなくなってしまうという大きな矛盾を抱えてしまうが、刹那的(せつなてき)に生きている人はそう考えている。
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