このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2020年10月31日土曜日

追憶 2946

傲慢(ごうまん)である時には、好きなだけ快楽や富を貪(むさぼ)ることが出来る。
傲慢であれば、快楽や富に対する欲求は満たされるのである。
傲慢に陥(おちい)っている者には、それが幸福だと思えるのだ。
傲慢によって手に入れた権力や財力によって、大抵の欲求が満たされるのだから、それを幸福だと“勘違い”してしまうのは仕方のないことであろう。


2020年10月30日金曜日

追憶 2945

多くの人は、傲慢(ごうまん)という名の檻(おり)に捕らわれる。
それは、一度捕らわれると、容易(ようい)に抜け出すことは出来ない。
しかも、快楽や富を貪(むさぼ)っている間は、自分が捕らわれているということにすら気が付かないのである。
快楽や富を貪ることに夢中になっていることで、視野が狭まっているのだ。
多くの人は、自分が傲慢に捕らわれていることを知らない。
多くの人は、自分が幸福とさえ思っている程なのである。

2020年10月29日木曜日

追憶 2944

多くの人は、快楽や富を貪(むさぼ)ろうとして、檻(おり)の中に入る。
そして、そこにぶら下がっている快楽や富に手を出し、傲慢(ごうまん)という頑丈な檻に閉じ込められてしまう。
強靭(きょうじん)な肉体を持つ野生動物がどんなに足掻(あが)いても、鉄製の檻を破ることは出来ない。
一度罠に掛かってしまえば、そこから抜け出すことは困難なのである。

2020年10月28日水曜日

追憶 2943

人は、欲望という弱さによって、快楽や富という餌(えさ)に釣られる。
多くの人は、快楽や富の誘惑(ゆうわく)に周りが見えなくなってしまうのだ。
それは、目の前の餌によって鉄製の檻(おり)を見失ってしまう野生動物のようにである。
重要なのは、餌ではなく鉄製の檻の方である。
周りが見えなくなってしまうと罠に引っ掛かり、自由や命などの大切なものを失ってしまうのだ。

2020年10月27日火曜日

追憶 2942

多くの人が、この罠(わな)に引っ掛かってしまう。
それは、動物が人間の仕掛けた“分かり易い”罠に引っ掛かってしまうのと同じようなことであろう。
人間は、どう考えても不自然な罠を仕掛ける。
箱罠(はこわな)が良い例であるだろう。
箱罠とは、鉄製の檻(おり)で作られた罠のことである。
あれは、どう考えても不自然な代物だが、動物は簡単に引っ掛かってしまう。
それは、目の前の餌(えさ)に気を取られて、箱の存在を見失ってしまうからである。

2020年10月26日月曜日

追憶 2941

人生というものは、自分の結果である。
人生の原因とは、自分自身なのだ。
それ以外の原因は存在しないのである。
努力して、誰かや何かのせいにしても、目の前の問題が解決することはない。
それは、原因が自分自身に存在するからだ。
問題を誰かや何かのせいにしても、残念ながら、自分の中の不平不満が解消されることはない。
寧(むし)ろ、誰かや何かのせいにすることによって、不平不満は増大してしまうのである。

2020年10月25日日曜日

追憶 2940

多くの人は、不平不満を抱えて生きている。
それは、自分という分際を理解しないからだ。
自分という分際を理解しないから、余計なものが欲しくなるし、溢れて腐敗(ふはい)しているものに対して苛立(いらだ)ちを覚えているのである。
言っておくが、人は誰かや何かに苛立っているのではない。
自分自身の矛盾(むじゅん)や不自然さに苛立っているのである。
残念ながら、そのことに気が付いている人はほとんどいないだろう。
大抵の人は、自分が正しいと思っているし、自らの傲慢(ごうまん)さや愚(おろ)かさを正当化する程である。

2020年10月24日土曜日

追憶 2939

わたし達は、社会という生態系を円形に保たなければならない。
社会という生態系を円形に保つためには、自分の役割を果たすことである。
自らの分際を弁(わきま)え、その器に相応(ふさわ)しく生きるのだ。
強欲に生きてはならない。
それは、器に入り切らない程の富を得ようとする生き方であるからだ。
器に入るものは益となるが、器から溢れたものは害となるということを覚えておかなければならないだろう。

2020年10月23日金曜日

追憶 2938

草食獣にとっても、肉食獣の存在は必要不可欠なのである。
様々な立場の生物が、互いに補い合って支え合うことによって、生態系の輪が保たれているのであろう。
人間には、社会という生態系が存在する。
それは、三角形に思えるが、本当は円形なのである。
社会の生態系を三角形として認識するのは、自らの内に社会や自分自身に対する不平不満を抱えているからではないだろうか?

2020年10月22日木曜日

追憶 2937

生態系は、円の形をしているのではないだろうか?
それぞれが、それぞれの立場で互いを補い合っているというのが、生態系の本来の姿であるだろう。
すべての生命が肉食獣として生きることは出来ない。
そんなことになれば、共食いによってすぐに全滅してしまうだろう。
肉食獣が生存するためには、草食獣の存在が不可欠である。
草食獣だけでは、草木を食い尽くしてしまってやはり全滅してしまうであろう。

2020年10月21日水曜日

追憶 2936

自然界には生態系というパワーバランスが存在する。
良く三角形で表されるが、あれは数を表しているだけであろう。
生態系の頂点に近い程に数が少なく、生態系の底辺に近い程に数が多いということである。
三角形で表されているから、頂点に近い程に強いと思ってしまうが、決してそのようなことはないだろう。
数の力というものがあるのだ。
生態系の底辺に近い程に数は多い。
それは、繁栄しているということである。
それは、強いということであるだろう。

2020年10月20日火曜日

追憶 2935

すべての人が、都会のような暮らしをすることは出来ないだろう。
それは、不自然な生活様式である。
都会には都会の役割があり、それに相応しい生活様式が存在する。
田舎にも同様である。
都会が無ければ田舎は存続しないし、田舎が無ければ都会は存続しないのではないだろうか?
都会や田舎の形を存続させたいとは思わないが、現状では多様な生活様式が必要であるように思える。
都会が良いからといっても、すべてを都会にすることは出来ないし、そのような生活様式を取り入れることも出来ない。
大切なのはバランスであるだろう。

2020年10月19日月曜日

追憶 2934

発展のために淘汰(とうた)されていくのは良いことなのかも知れない。
しかしながら、多様性を犠牲にすると、後々に問題が生じてしまうだろう。
例えば、日本の生活水準をすべての国で行うことは出来るだろうか?
恐らくは出来ないのではないだろうか?
エネルギーや食料や資源の問題が生じてしまうであろう。
核心的な技術が発見されない限りは、様々な問題を解決し、すべての国と人が日本の生活水準を得ることは出来ないのではないだろうか?

2020年10月18日日曜日

追憶 2933

しかしながら、いつまでも便利な暮らしが続いていくとは思えない。
なぜなら、便利な暮らしの裏には、何かしらの犠牲(ぎせい)が存在するはずだからだ。
白色人種が栄えた側面には、多くの有色人種の犠牲があったということを忘れてはならないだろう。
有色人種の犠牲があってこその繁栄(はんえい)であったに違いない。
今は、経済的に同じようなことが行われているだろう。
今の世の中では、誰かが儲(もう)けたら、誰かが損をするのである。
誰かが儲けるために、誰かを犠牲にしているのである。

2020年10月17日土曜日

追憶 2932

今日(こんにち)の日本は、特に明治維新以降、一神教圏の影響を強く受けている。
特に、経済活動に価値を置く考え方は、一神教圏の影響を受けているように思えるのだ。
もちろん、ただ日本人が欲望に対して素直になっただけであるのかも知れないが、そこにも一神教圏の影響が大きいように思える。
悪いとは思わないが、良いとも思えない。
おかげで便利な世の中になったし、高い水準(すいじゅん)の清潔で不自由の無い暮らしを営むことが出来ている。
ある意味で、傲慢(ごうまん)さが今の便利な暮らしを実現したのであろう。


2020年10月16日金曜日

追憶 2931

恐らく、人類は自然環境との関係を良好に築いて来たが、いつの頃から人類は傲慢(ごうまん)に陥(おちい)り、関係性を悪化させてしまった。
恐らく、アニミズム(精霊崇拝)の時代は、人類は自然環境との良好な関係を築いていただろう。
しかしながら、一神教系の宗教の獲得と共に、人類は謙虚(けんきょ)さを手放してしまったのではないだろうか?
白色人種は、恐らくは、“作り出された”時から傲慢であったのだろう。
それは、後天的なものかも知れないが、白色人種を作った何者かが、傲慢であったからではないだろうか?
彼等の文化や宗教には、傲慢さが刻み込まれている。
世界を争いの炎で焼き尽くし、自然環境を壊したのは、白色人種の文化や宗教なのである。

2020年10月15日木曜日

追憶 2930

仕事で関係している時には、そこに利益が発生するために、ある意味で良好な人間関係が築かれる。
それは、利益を得るために相手を利用している関係性である。
意識してはいなくても、多くの人が利益を得るために人間関係を構築(こうちく)するのだ。
利益が得られないと分かると、そのような関係性はいとも簡単に消滅してしまうだろう。
仕事の立場上、多くの人に持て囃(もてはや)されていた人も、仕事から離れると相手にされないのである。

2020年10月14日水曜日

追憶 2929

しかしながら、わたし達は自分にとって有益な相手とだけ付き合うということは出来ない。
利益のために付き合うことは協力ではない。
傲慢(ごうまん)に利益を貪(むさぼ)る者は、結び付いている相手からも利益を得ようと企(たくら)んでいるのである。
それは、やがては共食いや共倒れという状態に陥(おちい)ってしまうだろう。
仲間と思っている相手も、利益が得られないと分かると簡単に離れてしまう。
傲慢(ごうまん)な人間とは、そのようなものなのである。

2020年10月13日火曜日

追憶 2928

傲慢(ごうまん)な人間は、何かしらの利益を求めて他者と付き合っている。
傲慢な人間は利益の生じない相手とは付き合わないのである。
給料を支払わない会社で働き続ける人は滅多(めった)にはいないだろう。
大抵の人は、給料を得るために働いているのである。
それは、昨日の友は今日の敵というような危(あや)うい関係性であるだろう。
利益だけを考えるのであれば、利益の生じない相手とは関わるべきではない。
自分にとって有益な相手とだけ付き合うことが合理的な方法である。

2020年10月12日月曜日

追憶 2927

傲慢(ごうまん)は協力を否定する。
謙虚(けんきょ)でなければ、協力を肯定(こうてい)することはないのだ。
傲慢な者は協力はしない。
利益のために相手を利用しているに過ぎないのである。
利益が傲慢な者達を結び付けているが、そこに利益が発生しなければ離れてしまうだろう。
多くの人は、傲慢に生きている。
多くの人は、利益が発生しなければ付き合わないだろう。

2020年10月11日日曜日

追憶 2926

文明の発展のためには、傲慢(ごうまん)さは必要ではない。
戦争によって技術が向上したという意見があるが、向上心さえあれば、争わなくても技術は向上するのである。
予算の話をするかも知れないが、予算を注ぎ込めば向上するというものでもないだろう。
争いによって向上するよりも、協力によって向上する方が容易(たやす)いのである。

2020年10月10日土曜日

追憶 2925

自分として生きるためには、与えられている分際(ぶんざい)を弁(わきま)えなければならない。
自分を否定する生き方では、分際に収まることが出来ないのである。
傲慢(ごうまん)に生きるということは、分際を否定するということだ。
傲慢に、強欲に生きても、決して幸せにはなれない。
傲慢や強欲さに従って文明を発展させ、自然界や他者からの搾取(さくしゅ)によって豊かで便利な暮らしを手に入れた人類は、自然災害や病気などの様々な問題を抱え込むことになった。
文明を発展させると、それに従って新たな問題が生じてしまうのである。

2020年10月9日金曜日

追憶 2924

自分ではない何者かに成ることでは、豊かさを得ることは出来ない。
すべての人は、自分として生まれたのである。
自分として生まれたのであれば、自分として生きなければならない。
それが豊かさを得る方法である。
自分として生まれたことには意味がある。
自分は、この世界に一人しか存在しないのだ。
あなたの代わりになる人は、この世界には他に存在しないのである。

2020年10月8日木曜日

追憶 2923

内からの憧れや外からの圧力によって、人は自分ではない何者かに成ろうとしている。
本当は、社会的な成功になど興味がないのに、成功者を目指す。
好きでもない相手と交際したり、したくもない結婚をする。
それが、自分の本心からの願いではなくても、それを叶えようとするのだ。
そうさせたのは、様々な形で与え続けられている情報や教育であるだろう。
すべての人は、自分ではない何者かに成るように教育されているのである。

2020年10月7日水曜日

追憶 2922

菫(すみれ)は桜には成れないし、鯛(たい)は鶚(みさご)には成れない。
自分を否定して、他の何かに成ることは出来ないのである。
多くの人は、自分を否定し、他の何かに成ろうと試みるが、残念ながら失敗に終わる。
菫は、足元に可憐(かれん)に咲くことが美しく素晴らしい。
桜は、頭上に絢爛(けんらん)に咲くことが美しく素晴らしい。
鯛は、海底を悠然(ゆうぜん)と泳ぐことが美しく素晴らしく、鶚は優雅に大空を舞うことが美しいのである。
この世の存在が、与えられた自分以外に成ることは出来ないのだ。

2020年10月6日火曜日

追憶 2921

傲慢(ごうまん)であることは、生命力が盛んであるように思えるし、夢や目標を持って生きているように見えて羨(うらや)ましく思える時がある。
しかしながら、わたしにはそのような生き方が出来ない。
憧(あこが)れはあるが、成り切れないのである。
わたしの進むべき道は、そのようなものではないと思えて仕方がない。
欲望に従って生きて行ければ、きっと今よりも生きることは楽だろうと思う。
しかしながら、どうしてもそのようには成れないのである。


2020年10月5日月曜日

追憶 2920

わたしは、生きることに興味がない。
世の中を変えたいとか、財産を築きたいとか、夢を叶えたいとか、理想を実現したいとか、そういったものがないのである。
わたしは傍観者(ぼうかんしゃ)のようである。
わたしは謙虚(けんきょ)であるのか、無気力であるのか、生命力が薄弱(はくじゃく)であるのか分からない。
わたしには、多くの人のようにあれがしたい、これが欲しいという思いが少ないように思えるのだ。
この世との繋がりのようなものが薄いのかも知れない。

2020年10月4日日曜日

追憶 2919

わたしの分際(ぶんざい)は、“成功者”には相応(ふさわ)しくないだろう。
わたしの器は、そのような形をしてはいないのだと思える。
わたしは、多くの人のように、この世のことに熱意を持つことが出来ない。
どうしても、この世が空しく思えてしまうのである。
楽しくない訳ではないが、何を得て、何を手放しても、根本には空しさが存在しているのだ。
わたしには、この世が幻想のように思えてしまうのである。

2020年10月3日土曜日

追憶 2918

残念ながら、わたしは“成功者”に成ったことがない。
わたしには、多くの人の生活を支える仕事も有り余る富も無いのである。
わたしに“成功者”に成り得る度量があるかは分からないが、恐らくは無いだろう。
わたしには、“成功者”に成ろうとする野心や、競争に勝とうとする傲慢(ごうまん)さが足りないのである。
わたしは、多くの人が志(こころざ)す“成功者”の道に対して、多くの人のように情熱を抱くことが出来ないのである。

2020年10月2日金曜日

追憶 2917

“成功者”を目指し、それに達することは悪いことではない。
成功者は、仕事を作り、お金を作り、世を作る。
そして、直接的、間接的に多くの人の生活を支えているのだ。
お金は、人を動かし、世の中を回す血流のようなものである。
多くの人は、お金に仕(つか)えるよりも、お金で仕えさせたいと思うし、お金で自由を買いたいとも思っているだろう。
お金によって、世の中に存在する大抵の物や幸福は手に入るのである。
多くの人は、“成功者”が大抵の物や幸福を手に入れていると思っている。
だから、“成功者”に憧れ、それを目指すのであろう。

2020年10月1日木曜日

追憶 2916

しかしながら、わたしはそれを恥ずかしいとは思っていなかった。
わたしが未熟であったのもあるが、周囲の人もそのように生きていたように思えたし、テレビでは、“成功者”の暮らしを宣伝していたのである。
幼いわたしが傲慢(ごうまん)に生きることは、ある意味で当然のことなのではないだろうか?
多くの人が傲慢に生きるのも、様々な形で成功者を目指すことを教育されているからだと思える。
多くの人は素直である。
素直な人達は、教育に従(したが)って生きるだろう。