このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2012年2月23日木曜日

追憶 2

小学生の頃の記憶は良く覚えている。
その時には自我というものはある程度の形を成しているものであろう。
もう一人の自分については、その存在が余りに自然過ぎて違和感を覚えることは少なかった。
相変わらず何時の間にかに「悪さ」をしているのである。
小学生になると流石に自分自身の目の前で行われていることの意味は理解することが出来るようになっていた。
それが所謂「悪さ」であり、怒られることだということは理解しているのである。
しかしながら、その行為に及ぶ過程が余りにも自然であり違和感がないものだから、わたしはそれを自らの意思によっては食い止められずにいたのである。
自らの意思以外の意思によって動いているのは不思議なことではあるが、当時のわたしにはそれが当たり前だったのかも知れない。
しかしながら、幼少期とは違い、自らの悪事に対してわたしは絶望感を覚えるようになっていた。
なぜなら、そんな結果は求めていないからである。
わたしは友だちと仲良くしたい。
物を壊したくはない。
大人に怒られたくないのでる。
しかしながら、どうしても気が付いた時には目の前で「悪さ」が行われている。
そして、誰かを傷付け、何かを壊し、誰かに怒られているのであった。
わたしは絶望感を覚えたが、どうしてもそれを自らの意思によって実行した実感を得ることが出来なかった。
そのため、当時のわたしは反省するという意味を理解することが出来なかったのではないだろうか?
反省することが出来なかったが故に、同じ過ちを繰り返してしまうのである。
わたしは問題児であった。

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