このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2012年2月29日水曜日

追憶 8

ジーンズショップでは様々な経験をすることが出来た。
そして、様々な人と出会った。
当時の記憶は今でも愛おしく、戻りたいとさえ思ってしまう。
その中でも今のわたしの基礎を作った人物を紹介しなければならないだろう。
わたしが意識的な世界に感心を持ち、その道を極めようと思うきっかけを作ってくれたのが、アルバイトの先輩であるYさんであった。
彼女には意識的な世界を認識する力(霊感)があった。
そして、何より怖いビデオを見るのが好きだったのだ。
ホラー映画ではなく素人からの投稿作品(所謂霊が映ってしまった)を紹介するようなビデオである。
わたしはそれまで、霊的な感覚を認識したことがなく、彼女の感性や体験談などはとても新鮮だと感じたのだった。
彼女のすすめでわたしは彼女が所有するビデオを何本か借り、一人自宅で鑑賞することにした。
初めは怖いと感じたが、すぐにはまってしまい、後にレンタルビデオ店に置いてあるすべてのビデオシリーズを制覇してしまう程だった。
その頃は、霊が映っているビデオを見るのが日課のようになっていた。
わたしが霊に興味を持ち、今でも霊が好きなのはYさんのおかげである。
しかしながら、当時のわたしがいくらビデオを見たところで、本物の霊を認識することはなかった…

ジーンズショップでバイトを始めたわたしは、兄と分かれて埼玉の草加という場所で一人暮らしを始めた。
それから、草加のワンルームのマンションから上野のジーンズショップにバイクで通う生活を約一年半続けた。
そして、わたしが上京して二年が過ぎた頃、わたしの人生は大きく変わろうとするのであった。

2012年2月28日火曜日

追憶 7

パチンコ店の中を見渡してみる。
わたしはその空間に何も感じなかった。
わたしの心はその眺めに対して何の反応も示さなかったのである。
わたしは一つため息を吐いて店を後にした。
わたしの心の中には、

「 例え遠回りをしたとしても、自分がやりたいこと(仕事)をしよう!」

という決意があった。
結果としてその決意がわたしにやりたい仕事を運んでくることになる。
パチンコ店からの帰り道、わたしはコンビニで求人雑誌を買い、一番始めに目に付いたジーンズショップにすぐさま電話をしたのである。
わたしが面接を申し込んだのは都内に何店舗も展開するジーンズショップであった。
ジーンズショップというよりはアメカジのセレクトショップであった。
上野に本社がある株式会社である。
指定された日時に面接に行くと、わたしのことを専務が出迎えてくれた。
結果は、

「明日から来てくれ」

というものだった。
わたしは二つ返事で会社を後にした。
アルバイトは入れ替わりが激しく、採用もわりかし緩いのではあるだろうが、わたしは採用されたことがとても嬉しかった。
これでわたしは、やりたいことに一歩近付くことが出来たのである。
帰りの電車の中で、あの時パチンコ店で働くという選択をしなくて本当に良かったということを考えていた。
収入のためにパチンコ店で働くことを選択していたのであれば、きっとこの喜びや充足感を得ることは出来なかったであろう。
わたしの胸が高鳴るのは、少なからず自分の中で好きなことや、やりたいことに向かって進むことが出来たからではないだろうか?
アルバイトの採用など小さなことであるだろうが、当時のわたしにはとても嬉しいことだったのである。
それから、わたしのジーンズショップでのアルバイト生活が始まるのであった。

2012年2月27日月曜日

追憶 6

上京すると、当時学生だった兄の部屋(ワンルーム)に住まわせてもらうことになった。
兄は駒込に住んでいた。

とりあえず働かなければならないという考えしかなかったので、わたしは修学旅行以来の東京の街を散策しながら、ジーンズに関する仕事(バイト)が無いかとあちこち探して歩いた。
渋谷、原宿、高円寺、下北沢…

この辺りの街なら、ジーンズに関する仕事が多いのではないかと考えた。

特に古着屋が多かったし、そこにはビンテージのジーンズや古着をたくさん扱っている店もあった。

わたしはそういうアイテムに携わる仕事がしたかったし、それに関する知識が欲しかったのだ。
しかしながら、どの古着屋も店の規模は小さく、「つて」がなければ働けそうもないと感じた。

それに、古着屋のバイトで生活していくことが出来るのだろうか?という不安が頭から離れなかった。

この頃のわたしは「やりたいこと」と収入(生活)との間に揺れていた。
何日も様々な街を歩いたが、働きたい店が決まらなかった。

そんなある日、自らの現状を嘆きながらJR山手線駒込駅の周辺を歩いていると、パチンコ店の前を歩いていることに気が付いた。

わたしはどういう訳か、何気なく店内に足を運んでいた。


耳をつんざくような雑音がわたしを襲った。

その店はテナントとしてビルに収まっているような形式ではなく、パチンコ店だけという作りだったので中は広く感じられた。
ピカピカとわざとらしく光を放つパチンコ台とそれに向かう背中を丸めたタバコ臭い人たち。

わたしはそれらを掻き分けながら通路を渡った。

わたしは客ではない。

元来、ギャンブルには興味がない。

通路を渡りながら、ここで働いたら良い給料がもらえるのではないかと考えていた。
古着屋のバイトよりは同じバイトでも高収入に違いない。
わたしは「やりたいこと」と収入(生活)を頭の中で天秤にかけていた。

2012年2月26日日曜日

追憶 5

高校を卒業すると、わたしは兄の住んでいる東京へ行くことを決めた。

しかしながら、何をするかは決めてはいなかった。

高校時代のわたしにはやりたいことが何も無かったのである。
やりたいことが自分の中で分からなかったという方が適切かも知れない。
これ以上学校には行きたくない。

社会に出たいという漠然な考えしか持ち合わせていなかった。

我ながら酷いものである。

そんな状態だから、高校の時に受けた会社は不採用、今だに自分自身謎ではあるが、矛盾と安易な考えの中に受けた歯科技工士の学校には不合格…
当然の結果である。

わたしは自分が自らの人生において何がしたいのか?

ということが全く分からなかった。

自分のことも分からない、これから先何をしたいのかも分からない。

高校という守られたシステムから弾き出されたわたしは、自らの道(人生)に対して完全に迷子になっていたのである。
それでも、わたしが上京しようと思ったのは、母の勧めと「ジーンズ」が好きだったということからだった。
ただ、それだけだった。
相変わらず安易で無計画である。
当時、お付き合いをさせてもらっていた同級生だった彼女は、少し離れた地方都市の専門学校に通うようになっていた。
そのため、実家を離れて一人暮らしを始めたところだった。
ゴールデンウィークには一度帰郷すると言っていたが、わたしはゴールデンウィーク前に出立した。

焦りがあったのだと思う。

同世代の皆が何かを目指して前進している状況の中に、わたしは独りで宛もなく立ち止まっている。

それはとても苦しいことだった。




2012年2月25日土曜日

追憶 4

その後、Mくんはわたしと何事もなかったように接してはくれたが、わたしたちが中学生になり、クラスが離れるに連れて疎遠になってしまった。


中学は6クラスだったが一度も同じクラスになることはなく、またその間に話した記憶もない。

高校でも離れ離れになり、高校卒業と共に更に距離が離れた。


しかしながら、成人式や共通の友人の結婚式や、互いに帰省している時にたまたま会う機会があり皆で集まる時には別段変わった様子はなく、わたしにも優しく接してくれた。

考え過ぎなのかも知れないが、わたしの中にはあの時の申し訳ない気持ちと絶望感が今だに強い印象を残しているのであった。





中学時代も、高校時代もわたしの中には自分ではない自分の存在が常にあった。


自分では思っていないことを口走っていたり、思いも寄らないことを行動に移していた。

また、感情の起伏、破滅的な考えによる自信の喪失、無気力、諦め、逃げ…

このような面白くないことを選択してしまうという傾向もあった。

意味が分からなかった。


高校生になったわたしは、もはや自分は精神病なのではないかと軽く疑う程だった。

多重人格などを疑ったが、複数の人格を保有しているような感覚ではなかったし、そいつはとても自然にわたしの中に溶け込んでいるのである。

寧ろ、自分でない自分には「人格」というものを感じなかった。


強いて言うなら、それは「本能」である。

それはとても下品であり、野蛮であって秩序の欠片もないように思えた。

野生的というのだろうか?

欲望に根差した選択しかしない堕落した存在。

あの状態の自分を人格だと思うことは出来なかった。


わたしは自分のことが全く分からなかった。


2012年2月24日金曜日

追憶 3

わたしの中に強くこびり付き、今でもトラウマになっている体験がある。

それは、わたしが小学校五年生の時だったと記憶している。

家庭科の授業だった。

その当時、わたしは自分の中では親友だと思っていたMくんと常に行動を共にしていた。
下校時には毎回一緒に帰路に着き、わたしの自宅よりも手前にあったMくんの自宅に毎回のように立ち寄っては陽が暮れるまで遊んでいたものである。
わたしにとってはとても大切な存在だった。

しかしながら、あの体験がわたしとMくんとの絆を切り裂いてしまったとわたしは思っている。
それは家庭科の授業中に起こった。

やはり、なぜそうしたのかは覚えていないが、わたしは授業中(調理実習中)であるにも関わらず、Mくんを床に寝そべらせて両足首を掴んで自らの足でMくんのお尻を押さえ付けていたのである。
小学生の頃に流行った電気あんま?というやつである。

わたしの意識と記憶はそれをやっている最中から認識を開始し、その行為はMくんが泣くまで続けられた。

周りの人は見ているだけだった。

きっとわたしのことが怖かったのではないだろうか?
わたしは必至で自らの行為をやめさせようと叫んでいたが、夢を見ているような感じでその行為は続けられるのであった。

そして、Mくんが泣き始めた時にわたしは我に帰るのである。

わたしの心の中には絶望感以外の感情はなかった。

とても苦しかった。

当時のわたしには一番大切だったMくんを傷付けてしまうこと程辛いことはなかった。

わたしは何で自分がそうしたのかも分からずにMくんに謝った。

先生はわたしのことを叱った。

わたしは完全に混乱していた。

2012年2月23日木曜日

追憶 2

小学生の頃の記憶は良く覚えている。
その時には自我というものはある程度の形を成しているものであろう。
もう一人の自分については、その存在が余りに自然過ぎて違和感を覚えることは少なかった。
相変わらず何時の間にかに「悪さ」をしているのである。
小学生になると流石に自分自身の目の前で行われていることの意味は理解することが出来るようになっていた。
それが所謂「悪さ」であり、怒られることだということは理解しているのである。
しかしながら、その行為に及ぶ過程が余りにも自然であり違和感がないものだから、わたしはそれを自らの意思によっては食い止められずにいたのである。
自らの意思以外の意思によって動いているのは不思議なことではあるが、当時のわたしにはそれが当たり前だったのかも知れない。
しかしながら、幼少期とは違い、自らの悪事に対してわたしは絶望感を覚えるようになっていた。
なぜなら、そんな結果は求めていないからである。
わたしは友だちと仲良くしたい。
物を壊したくはない。
大人に怒られたくないのでる。
しかしながら、どうしても気が付いた時には目の前で「悪さ」が行われている。
そして、誰かを傷付け、何かを壊し、誰かに怒られているのであった。
わたしは絶望感を覚えたが、どうしてもそれを自らの意思によって実行した実感を得ることが出来なかった。
そのため、当時のわたしは反省するという意味を理解することが出来なかったのではないだろうか?
反省することが出来なかったが故に、同じ過ちを繰り返してしまうのである。
わたしは問題児であった。

2012年2月22日水曜日

追憶

自らの幼少期を思い返す度に、わたしはどういう訳か自分の中の幼い頃の記憶がはっきりとはしていないと感じる。
幼い頃の記憶というものはどれもなぜか断片的であり、その記憶に対する起源と経過を思い出せないのである。
結果的に自分が置かれている状況は印象として強く残っているものの、どうしてそうなったのか?という結果に対する自らの原因(心境や思考や意思選択)がいまいち分からないし、思い出せない。
その時は自らの意思もしくは感情によってどうするのかを決めていたのだろうが、どうしてもそれを実感として思い出すことが出来ないのである。
幼い頃の記憶など、その程度のものなのかも知れないが…
まだ自我が発達していない昔のことだからそれらの原因を心の隅に追いやってしまい、そこに入って来た新しい記憶に埋れてただ忘れているだけなのかも知れないが、不思議ではあるが当時のわたしにはどうしてもそこには自分以外の意思が存在しているようでならなかった。
(この感覚は小さくではあるが、現在でもわたしに付きまとっている)

なぜかというと、わたしの幼い頃の記憶には、友だちが泣いていること。
何かを壊していること…


もちろん、良い思い出もあるのだが、所謂「悪さ」をして誰かを傷付けたり、大人に叱られている場面ばかりが印象としては強く残っているのである。

しかしながら、わたしがなぜ「悪さ」をしたのかは自分自身では思い出せないのだ。

無論、「悪さ」をしたくてそのような選択をした訳ではない。
何時の間にかに「悪さ」をしていて、誰かを傷付けたり、誰かに怒られているのである。
幼いながらにも自分自身の行動に対する疑問があった。
今となって思えば、もう一人の別の自分がいるような感覚である。
わたしとしては自らの幼少期は自分であって自分でないような…
そういう不思議な感覚なのである。