このブログについて

自身の体験をつづりたいと思います。
拙い文章ではありますが、お暇ならお付き合いください。

2020年3月31日火曜日

追憶 2732

どのように崇高(すうこう)な理念も、やがては朽(く)ち果てる。
例えば、今日(こんにち)におけるすべての宗教は、腐敗の巣窟(そうくつ)である。
腐敗していない宗教など存在しないのだ。
その宗教が大きい程に腐敗の規模は大きなものとなるだろう。
初めは崇高な理念によって始まった宗教もあるかも知れない。
恐らくは、崇高な理念によって始まった宗教の方が多いのではないかと思う。
しかしながら、宗教と成った時点において、それは、人間の集団である。
集団は遅かれ早かれ必ず腐敗するのである。



2020年3月30日月曜日

追憶 2731

人類は、様々な汚れを所有している。
人間の築く組織は、汚れの集成(しゅうせい)なのである。
組織は、それがどのような理念によって築かれようとも、結局は人間の集まりに過ぎない。
人間は、程度の差はあれど必ず汚れている。
小さな黴(かび)は、やがては全体を覆う。
そのため、汚れを有する人間の集まりである組織は、必ず腐敗するのだ。
その組織が大きい程に、腐敗の規模は大きい。
残念ながら、人間が築いている以上、腐敗していない組織など存在しないのである。

2020年3月29日日曜日

追憶 2730

今回のコロナショックによって、自然環境はある程度浄化される。
コロナウイルスの存在意義がそこにあるのだろう。
しかしながら、わたしは病など存在しない方が良いと思っている。
人が苦しんで死ぬのは見たくない。
しかしながら、現状において、人類は病によって苦しまなければならないのである。
なぜなら、現状においては、それが相応(ふさわ)しいからである。

2020年3月28日土曜日

追憶 2729

それは、結果として自然環境を浄化することへと繋がる。
残念ながら、現代社会には、自然環境を浄化する力は与えられていない。
現代社会は、自然から利益を貪(むさぼ)ることしか考えることが出来ない恥(はずか)ずかしい文明なのだ。
自然界の営(いとな)みを邪魔しないことが、現代社会が唯一出来る自然環境への助力なのである。



2020年3月27日金曜日

追憶 2728

人間の経済活動というのは、それが拡大するに従(したが)って自然環境は破壊されていく。
人間の経済活動は、自然環境の犠牲によって成り立つものなのである。
今回のコロナウイルスの世界的な蔓延(まんえん)によって、人間の経済活動は破壊される。
人々は、外出を自粛(じしゅく)し、余計な買い物や娯楽を避けるようになるだろう。
外出が減れば、自家用車や公共の交通機関の稼働率(かどうりつ)も低下する。
それに従って消費が落ち込み、工場の稼働率は低下する。
それに従って大型船や大型車の稼働率も低下するだろう。
そして、都市封鎖によって観光は不可能となり、飛行機が飛ばなくなる。

2020年3月26日木曜日

追憶 2727

最近では、新型コロナウイルス(COVID-19)が世界中で大流行している。
恐らくは、これは人工的なウイルスであるだろうが、これによって世界には混乱が生じ、人間社会の機能は著(いちじる)しく低下している。
都市封鎖(としふうさ)という異例の事態が世界中で起きているのである。
人々は外出を控(ひか)え、経済活動は低迷し、企業は活動を停止せざるを得ない。
人間目線で見ると、これは非常事態であり、大きな問題である。
しかしながら、自然界から見ると状況は大きく異なるのである。

2020年3月25日水曜日

追憶 2726

人類の大半の人は、自然に敬意(けいい)を払い、大切に扱うことはない。
漁業や農業に携わっている人でさえ、ゴミを不法に投棄(とうき)している。
わたしは海や川や山で清掃活動をしたが、ゴミはどこにでも捨てられているのである。
衛生観念がしっかりとしていると言われている日本人でさえ、自然を大切にしているとは言えないだろう。
そのことから、人類が自然を大切にしているとは到底思えないのである。
自然を大切にしていなければ、自然は壊れてしまうのである。



2020年3月24日火曜日

追憶 2725

今日(こんにち)では、自然災害は人工的に引き起こされているという説が取り沙汰(ざた)されている。
自然災害が自然発生であろうと、人工的に引き起こされたものであろうとも、そこは問題ではない。
どのような起源であろうとも、発生した災害を受け取らなければならないのである。
地震や津波や火災や病などの災害が、人工的であってもおかしくはない。
しかしながら、それが自然発生であろうと、人工的に引き起こされたものであろうとも、それを受けるに相応しいということを理解しなければならないのである。




2020年3月23日月曜日

追憶 2724

人類には、自然災害を防ぐ力は与えられていない。
人類は、自然災害を受けなければならないのである。
残念ながら、自然災害に対抗する力は無い。
それは、自然災害が自然界の和を修正する働きであるからだ。
人も自然界の和の中に存在している。
人類は、自然界を凌駕(りょうが)することは出来ない。
自然界から離れて生きることも出来ないのである。
しかしながら、人は、傲慢(ごうまん)や強欲によって、自らの足場である自然界の破壊を進めてしまうのである。

2020年3月22日日曜日

追憶 2723

それは、和を崩す行為である。
自然界は、崩された和をそのままにしてはおかない。
自然界は、自然界のルールに従(したが)って、崩された和を修正しようと努めるのだ。
自然災害というものは、それがどのようなものであれ、自然界の歪(ゆが)みを取り除き、和を形成するための働きである。
自然界は、人が自然災害と呼ぶ現象を使って、崩されたバランスを取り戻そうとしているのである。



2020年3月21日土曜日

追憶 2722

自然界の生物は、自然環境を浄化することに専念している。
彼等の活動は、自然環境を浄化し、バランスを保つためのものなのである。
自然界の生物は、結果的に互いのために生きているのだ。
自然界の生物は、生命活動を通じて一つの和を形成する。
その和が自然界なのである。
しかしながら、人間は、自然界という和から利益を抜き取ろうとするのだ。




2020年3月20日金曜日

追憶 2721

人間だけが、本能に利己的な欲求を組み込んでいる。
本来ならば、美しく素晴らしい本能の働きも、利己的な欲求を組み込むことで醜(みにく)く汚れたものとなってしまうのだ。
醜く汚れたものを人生やこの世界に撒(ま)くのだから、人生や世界には問題が溢れている。
問題を引き起こすのは人間だけである。
自然環境の立場から見ると、人間以外の生物が問題を引き起こすことはないということを理解しなければならないだろう。

2020年3月19日木曜日

追憶 2720

動物は、自然の理(ことわり)から離れることなく生きている。
動物が自然の理に逆らうことはないのだ。
人間だけが、自然の理に逆らうように生きているのである。
肉の欲とは、本能のことではない。
肉の欲とは、睡眠欲や食欲や性欲などのことではなく、自分勝手な欲求のことだと理解する必要があるだろう。
本能としての欲は決して悪いものではない。
睡眠欲も食欲も性欲も、美しく素晴らしい欲求なのである。

2020年3月18日水曜日

追憶 2719

ただ生きるだけならば、肉の欲に従(したが)えば良い。
生きることへの質を気にすることなく、生存にしがみ付くだけなら、肉を重要視することで十分であるだろう。
しかしながら、肉の欲に従えば、人はやがて獣(けもの)として生きることになる。
獣とは、自己中心的な生き物のことであり、動物のことではない。
なぜなら、動物は、決して自己中心的には生きないからである。
人間だけが、自然から離れて自己中心的な生き方である不自然に陥(おちい)るのである。

2020年3月17日火曜日

追憶 2718

この世界においては、肉と心はどちらも大切なものである。
肉だけでは足りず、心だけでも足らないのだ。
肉と心を合わせて生命というのである。
しかしながら、多くの人は心の重要性を忘れている。
それは、命を忘れているということだ。
多くの人は、肉を重要視する。
生きることに懸命になり過ぎて、使命を忘れているのである。



2020年3月16日月曜日

追憶 2717

多くの人は、“自分とは何か?”、“人生とは何か?”という問い掛けを忘れている。
目の前の快楽や欲望や問題や責任に対して懸命になり過ぎてしまい、本質的な問い掛けを忘れているのである。
本質的な問い掛けの無い生き方が常識的な生き方であると理解すれば良いだろう。
常識的な生き方とは、肉体や物質的な価値を中心とした生き方のことだ。
そして、非常識な生き方とは、意識(心)や精神的な価値を中心とした生き方のことである。

2020年3月15日日曜日

追憶 2716

非常識に生きることによって、人の意識は本質へと向かい、理(ことわり)を理解することが出来る。
常識に執着(しゅうちゃく)し続けるのであれば、本質から離れたところで生き続けなければならないのだ。
非常識に生きるというのは、他者に迷惑を掛けるような態度のことではない。
常識とは、本質から目を背ける表面的な生き方のことである。
“自分とは何か?”
“人生とは何か?”
という問いの無い生き方こそが、常識的な生き方のことなのである。




2020年3月14日土曜日

追憶 2715

常識的に生きたところで、理(ことわり)を理解することは出来ない。
常識とは、人の偏見(へんけん)が生み出した誤解のことである。
常識という名の誤解は、理から最も遠くに位置していると言えるだろう。
人間社会が自然環境を破壊しているのを見れば、理から最も遠くに位置していることを理解することが出来るだろう。
残念ながら、常識的に生きても、理を理解することが出来ない。
それは、人生に満足を得ることが出来ないということなのだ。
人生に満足を得るためには、ある意味、非常識に生きなければならないのである。

2020年3月13日金曜日

追憶 2714

人の本質は意識である。
多くの人は、肉体を自分自身だと考えているが、残念ながら、肉体は本質ではない。
なぜなら、切り離された肉体が自発的に活動することはないからである。
肉体が本質であるのならば、切り離された肉体の一部は、意思を以(もっ)て活動するだろう。
しかしながら、そのようなことはないのである。
人の本質は意識であり、肉体よりは霊の方が近いと言えるだろう。
霊的に生きることによって、人は本質に近い状態を生きることが出来る。
本質的に生きることが、素直な生き方であることを理解しなければならないだろう。

2020年3月12日木曜日

追憶 2713

そのような態度は、人間として生きる上では正しいものであるだろう。
しかしながら、わたし達は霊として生きなければならないのである。
霊的に生きるということは、霊感を目覚めさせるということではない。
特別な力を使って生きるということでもないのである。
霊的に生きるということは、心で生きるということなのだ。
霊とは、心のことである。
心は、非我(ひが)に等しいと理解すれば良いだろう。
人間とは、肉体のことである。
肉体は、自我(じが)に等しいと理解すれば良いだろう。

2020年3月11日水曜日

追憶 2712

素直に生きるということは、物事を鵜呑(うの)みに生きるということではない。
物事を鵜呑みにするのは、常識に迎合(げいごう)する生き方であるだろう。
残念ながら、多くの人は理(ことわり)を理解してはいない。
理を理解していないのが常識であり、“普通”であるということだ。
常識的に生きているのであれば、理を理解することは出来ないのである。
多くの人は、素直に生きるということを、常識に従(したが)うことであると考えている。
常識に反して生きることは、素直な態度ではないと考えているのである。



2020年3月10日火曜日

追憶 2711

理(ことわり)の実りを収穫するためには、心を整えていなければならない。
それは、心が整えられていなければ、理解力や想像力に乏しいからである。
様々な雑念で心が埋め尽くされていると、理を前にしても、それを理解することや、理解するための想像力を働かせることが出来ないのだ。
察(さっ)しの悪い人がいるが、そのような人は、雑念が心を埋め尽くしているのである。
物事を鵜呑(うの)みにしているようでは、理を理解することは出来ない。
推(お)し量(はか)ることをしなければ、理を理解することは出来ないのである。

2020年3月9日月曜日

追憶 2710

農夫とは、“神”のことである。
“神”は、人の心に理(ことわり)の種を蒔(ま)く。
そして、その実りを収穫させるのである。
“神”は、出来るだけ多くの実りを収穫させたいと考えている。
それは、“神”がすべての人を愛しているからだ。
しかしながら、荒地に種を蒔くことは非効率である。
残念ながら、荒地に種を蒔いても、収穫は見込めない。
心の整えられていない人は、理に対する理解が浅い。
それでは、人生に多くの問題を引き起こし、苦悩を生きなければならないのである。

2020年3月8日日曜日

追憶 2709

様々な問題によって、様々なカルマや誤解を取り除いていかなければならない。
カルマや誤解を取り除くことが出来れば、漸(ようや)く種を蒔(ま)くことが出来るのである。
心の整えられていない者には、残念ながら、種が蒔かれることはない。
多少は蒔かれてはいるが、蒔いても育つことはないし、収穫も見込めないために、最低限しか蒔かれることはないのである。
農夫が荒地に種を蒔くだろうか?
残念ながら、蒔かないのである。

2020年3月7日土曜日

追憶 2708

正しい人というのは、存在しないだろう。
人は、時に正しい場合がある、という程度の認識が良いのではないだろうか?
いつも正しい判断を下すことの出来る人など存在しないのである。
すべての人の心が荒れている。
すべての人の心は歪んでいるのである。
それが自然である。
残念ながら、整えられた心を生きている人はいない。
人が人として生まれて来たということは、解決しなければならないカルマや誤解を所有しているということを理解しなければならないだろう。

2020年3月6日金曜日

追憶 2707

人の心の中には、カルマと誤解が溢れている。
それ等を分解していくことは難しいことなのである。
残念ながら、多くの人は、他者からの忠告を聞き入れはしない。
多くの人は、自分が正しいと思っているし、他者の忠告に魅力を感じることが出来ないのである。
もちろん、他者からの忠告が正しいということではない。
自分も他者も間違っているのが正解であるだろう。

2020年3月5日木曜日

追憶 2706

しかしながら、収穫までの道のりは長いということを覚悟しなければならないだろう。
想像して欲しいが、荒地の岩や樹木を取り除くには、非常に多くの時間と労力を有する。
あなたは、岩や樹木を掘り出したことがあるだろうか?
わたしは、趣味で盆栽や庭造りをしているが、2m程度の樹木を掘り出すのも大変な作業である。
多くの人の心は長い年月放置され、元々あった岩に加え、”自然”と生えた樹木も大木となっている。
心の中に元々あった岩とは、転生の度に解消しきれなかったカルマのことだ。
自然に生えた樹木とは、教育や自らの意思によって、後天的に築いた価値観のことである。

2020年3月4日水曜日

追憶 2705

わたし達は、自分が出来が悪いことを理解しなければならない。
それは、自分を卑下(ひげ)するということではない。
現実を受け入れるということなのである。
荒地を荒地として認めることが重要なのだ。
荒地を荒地として認めることがなければ、荒地に種を蒔(ま)くことになってしまうだろう。
認めることは勇気のいることだ。
しかしながら、認めることが出来れば、そこから人生は好転し始めるのである。

2020年3月3日火曜日

追憶 2704

多くの人が、多くの場合、目の前の問題を否定したり、そこから逃れようとするだろう。
それも間違った選択ではないが、理(ことわり)を収穫するためには最善の方法ではないといえる。
理とは本質のことであるが、本質を得るためには、観察し、研究する必要があるだろう。
なぜなら、わたし達は“出来が悪い”からである。
残念ながら、自分が何かも知らず、人生が何かも知らないのだ。
それなのに、人生に存在しているし、多くの人は何かを知っているかのように振る舞っている。
これ程、出来の悪いことはないだろう。

2020年3月2日月曜日

追憶 2703

彼は腰痛から大切な理(ことわり)を学ぶことが出来るが、学びを得るかどうかは、心の在り方によって決められる。
学び(腰痛)に対して素直な心であれば、学びを得ることが出来るだろう。
しかしながら、学び(腰痛)に対して素直さが欠ければ、学びを得ることは出来ないのである。
大切なのは、学びに対して素直であることだ。
学びに対して素直であるということは、どのような事態を前にしても、それを観察し、研究するということである。

2020年3月1日日曜日

追憶 2702

それは、人生を大切にするということである。
彼は、腰痛という避けることの出来ない状況に陥(おちい)っている。
それは、理(ことわり)の種なのである。
彼は、腰痛という理の種を自らの心に蒔(ま)かなければならない。
その時に、心が整えられていなければ、収穫を得ることは難しいだろう。
理の種が実りをもたらさなければ、理を理解することは出来ないのである。